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(注)このコーナーの更新状況は、更新履歴には掲載しません。

(仮称)クラシック・TV鑑賞記

 「たぶん・だぶん」コーナーにて、TVでのクラシック鑑賞をいろいろ書いてきましたが、これからはそれを独立したコーナーとしてまとめます。
 N響関係、室内楽関係は別コーナーです。


2005年

 フランクフルト放響。ヒュー・ウルフ指揮。BSフジにて。東芝の冠コンサートは毎年放映されているようだ。2種のコンサートを2日に分けて。
 最も感銘を受けたのは、シューベルトの「グレイト」。「天国的長大さ」が単なる冗長さになってしまう場面によく遭遇するのが常だが、とにかくスマートにさらりとやってのけた。特にフィナーレの奔放な推進力にグイグイ惹き込まれる。序奏から小気味良さは感じられ、いつもと違う期待感。その期待は最後まで裏切られなかった。
 ウルフは若手の有望株とみた。ブルックナーに流れる巨大性よりは、グレイトの音楽そのもののもつモーツァルトに直結してくる天真爛漫さを全開にさせた手腕も鮮やかだ。ハーディングのベートーヴェンをふと思い出す。前世紀の大巨匠たちの「ありがたい」演奏の呪縛からの飛翔を感じさせるのだ。ウルフは覚えておくべき存在だと思う。
 その「グレイト」の演奏会の1曲目は、古楽的アプローチによるハイドンの「V字」。弦の奏法(ヴィブラートなし)や当時の金管・ティンパニを使用しての切れ味鋭い演奏。こういった面もハーディングを想起する。
 村治佳織をソロに迎えてのアーノルドのギター協奏曲。これは珍品。テレビでは解説もほとんどなかったが、「戦場にかける橋」の映画音楽の作曲家だろうか・・・。作品自体は印象に薄いが。
 もう一つの演奏会は、諏訪内晶子を迎えてのメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ほか。ソロは美しいのだが、あまりロマンティックさを感じない。冷たさ、が先に見える。ちょうど、その放送と同じ頃聴いた、N響、レーピンによるベートーヴェンの協奏曲、これが(曲は正直、個人的にあまり得意なものじゃない。どちらかと言えば冗長さに閉口気味なのだが・・・)素晴らしかった。隅々まで行き届いた歌。音符一つ一つの生き生きした様。ちょうど、この2曲を比較して鑑賞することになったのだが、完全にレーピンに心奪われる(そのさらに1年ほど前のリサイタルでのシューベルトの「幻想曲」の感動も甦る)。諏訪内嬢、ロシア・ソヴィエトもののハマリ具合は買っているのだが、どうも彼女のメンデルスゾーンは私にはピタリとは来なかった。

 NHK音楽祭。北ドイツ放響。アラン・ギルバート指揮。こちらも2回の演奏会が放映される。
 まずは、庄司紗矢香のソロで、ブラームスのヴァイオリン協奏曲。意外に、重厚な、恰幅の良さが印象に残る。ブラームスというイメージを彼女に抱きにくかったが、さにあらず。確実に世界を広げているのが好ましい。その他、R.シュトラウスで「ドンファン」と「バラの騎士」組曲。組曲は一般に聴かれるものとは違い、歌劇の元の音楽も取り入れたオリジナルなバージョンで。詳細な相違は私は語る資格なし。弦の勢いや厚さなど特に「ドンファン」に顕著だったが、日本のオケとのスケールの違いは際立つ。
 さてもう一方は、「こどものためのプログラム」。ダンスで世界一周。ハンガリー舞曲、スラブ舞曲、スペインもので「三角帽子」などなど。一番面白かったのは「ウェストサイド・ストーリー」・・・そう言えばわざわざアメリカものをドイツオケで聴くこともそうそうないが、大変に几帳面なラテンらしかぬラテン音楽だった。きっちりまとまりすぎていて、まるでアメリカ的でない。パーカッションのノリは、はじけてない。正確なのだが。ラッパも、ピッコロ・トランペットでハイトーン・・・酔ったような危げな感じがなく整然としている。お国柄とは面白いもの。こんな風に演奏されるバーンスタインなかなか聴けません。そう考えれば日本は既に充分アメリカナイズされているんだなあ。ここまでカチカチな演奏はN響でもしないもの。(そういう意味では、同じドイツでもベルリン・フィルはナショナルな存在だなあ)。
 なお、オケの真面目さ、という面では、楽器紹介にしてもヴァイオリンからしてブルッフのヴァイオリン協奏曲だったし・・・格調高いな。ただ、毎年、夏に長野県の飯田で行っているアフィニス音楽祭の講師陣としてこの北ドイツ放響の首席たちがやってきたこともあって、オーボエ奏者の楽器紹介が予想外に「チャルメラ」そして「通りゃんせ」、会場はおおいに沸いた。さすが日本通といったところか。

 大阪センチュリー響。指揮、小泉和裕氏。スメタナ「我が祖国」全曲。
 2005年は、流行語大賞、「小泉劇場」だったが、そんな年の暮れを飾ったのが、オケによる「小泉劇場」。熱い演奏。オケ自体は若く、弦の厚みとかはまだまだ今後醸成されてゆくのだろうが、情熱、若さあふれる演奏に好感を持つ。前半の終曲(6曲中の3曲目にあたる)「シャールカ」の最後のほとばしりは、第6曲の本当の終曲を上回るほどのテンション。叩き付けるような勢いはスカっとします。
 政治の「小泉劇場」は、まさに劇場型政治で、ローマの暗君ネロの「キリスト教徒と猛獣(まさしくライオンか)の闘い」をコロッセウムで見学するような嫌悪感がつきまとい、熱中する平和ボケ・ローマ市民の愚民さと、来たるローマ帝国の没落を想起させるばかりだが、2005年、最後にこれで救われた。これぞ、コンサートホールの中に体現した本物の「小泉劇場」。この感激をもって、2005年のテレビ鑑賞の項を閉じましょう。

(2006.1.11 Ms)

 日本音楽コンクール。本選の様子は毎年楽しみにしているのだが、今年は各部門、近現代モノも多く特に面白い。
 ピアノ部門1位が、ラフマニノフの1番の協奏曲。ヴァイオリン部門はバルトークの2番の協奏曲。
 チェロに至っては、なんとショスタコーヴィチの1番の協奏曲が課題曲。(ただし、こちらはピアノ伴奏。)聴き比べも楽しい。第1楽章の第2主題の再現、重音も多く難しさ、を感じさせる。みんな苦戦がよく伝わる。それにしても酷な課題曲だろう。演奏し慣れてないだろうし、第2楽章から続く、楽章そのものがカデンツァとなった第3楽章、聴く方も疲れるほど。でも、全体に、朗々と歌う人いれば、鬱屈した抑圧を感じさせる音色を感じさせる人も。いろいろなアプローチが聴けて面白い。その面では、ヴァイオリン部門も、第1位以外は、シベリウスを取りあげていたので、こちらも聴き比べが楽しい。

 プロコフィエフ「三つのオレンジへの恋」。珍しいオペラを見せてもらった。エクサンプロバンス音楽祭2004より。オケ用の組曲は知っているので、要所でおなじみな旋律が出て来て助けられ。有名な行進曲も、よく活用されている。とにかく、楽しい舞台だ。風刺の利いた童話的オペラ、これこそ、プロコフィエフの作風にピタリとはまるんではないか。このような作品を映像で見られる(オペラを音楽だけ聴くのもなかなか辛い。舞台としてみたいもの。)ことに感謝。

 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管、ブロムシュテット指揮、バッハのロ短調ミサ。NHK芸術劇場での放送。お元気そうでなにより、ブロムシュテット氏。
 トーマス教会の祭壇といおうか、オルガンの配置されるような上部のスペースでの演奏。教会で鑑賞する人々は、天上から音楽が降り注ぐわけだ。なんとも神々しい体験となろう。さて演奏自体は、古楽的な要素を取り入れた物。壮麗な合唱、様々な楽想が用意され(金管、ティンパニの効果が顕著なものから、室内楽的なもの、それも、ヴァイオリン、フルートのみならず、オーボエダモーレ、ホルン、なども協奏曲的な楽章が用意されていることには驚いた)、決して長さの割に退屈はしない。高い精神性、敬虔な心持ちを感じさせ、こういった作品に向きあうことも少ないのだが、あらためてバッハの音楽に感化された。

(2005.12.10 Ms)

 NHK音楽祭。
 世界の放送オーケストラの祭典というコンセプト。まずは、フィンランド放響、サカリ・オラモ指揮
 感動の、そして日本ではまずこれだけのレベルでこれだけの作品数を一度に聴けないであろう、シベリウス交響曲選集の実演を岐阜で聴いてきたが、NHKでは、(残念ながら)シベリウスは「フィンランディア」のみ、あとは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番、マーラーの交響曲第4番。と、あまりお国ものは取りあげず。しかし、特筆すべきは、小菅優さんのピアノ・ソロ。オケも繊細さにはかなりの神経を使っていた演奏だが、ソロの弱奏のニュアンスに圧倒的な存在感を感じた。
 協奏曲においては、なかなかソリストも自分の世界を確実に発揮するのは困難な場合もあろうが(最近気になる事として、ピアニストにおける、協奏曲の演奏と、アンコールでのソロの演奏との比較で、断然、ソロの方が音色の変化やデリケートな表現に分があるということ)、この小菅さんは、協奏曲のなかでも、充分熟慮された演奏が高濃度で実現されていると感じた。アンコールのショパンの遺作のノクターンも素晴らしかったが、それ以上に協奏曲での磨かれた表現が素晴らしかった。特に大書したところ。
 是非生でも聴きたい演奏家だ・・・そういえば、昨年の読響の「不滅」のコンサート、ヴァンスカ氏の指揮で、モーツァルトの協奏曲を実は聴いていた・・・が、「不滅」に夢中になり過ぎたか、彼女の記憶があやふやだ・・・もったいないことをした。
 マーラーについては、これも面白い演奏だ。正直、個人としては、あまり聴きこんだ作品ではないのだが、テンポの変化、気分の変化に富んだ演奏であるのはわかる。私が今回のフィンランド放響の来日で実演で聴いた「悲愴」などは、あまりのテンポの揺れ・いじり過ぎ感に違和感を感じたが、マーラーは、その揺れ・変化の頻繁さに違和感を感じにくい。逆にマーラーをインテンポでかっちりやり過ぎた演奏こそ、マーラーらしからぬつまらないものとなろう。指揮者とオケの緊密な連携・信頼あってこその、このマーラーの変幻自在、面白く聴けるわけだ。特に第1楽章は圧巻だった。北欧勢の充実ぶり、指揮者、オケ共に本物ですね。

(2005.11.7 Ms)

 BSにて、ピアニスト関連続きます。
 藤原由紀乃さん。若くして名声をあげながら、ドイツの恩師の看病、後見人としての生活でピアニストとしての生活に制限、ようやくピアニストとして復帰、なかなかに劇的な生涯と言えようか。
 ショパンの「子守歌」と、シューマン「クライスレリアーナ」。特にシューマンに感銘。小曲集ながら、パッションのほとばしり、激情を感じる。最後の曲は、交響曲第1番のフィナーレにも転用されており、親しみも持てた。
 演奏に関しては、一つ一つの音に、充実した響き、存在感を感じ取る。流されず、ないがしろにされていない。気になる存在として記憶すべし。

 コルネリア・ヘルマンバッハの演奏に定評があるようで。
 フランス風序曲。序曲と言いつつ、序曲付きの舞踊曲をつなげた組曲という体裁。その序曲がなかなかいい。荘厳でもったいぶった主部、3拍子で軽みをもった中間部。ロ短調という調性も独特の雰囲気。管弦楽組曲の2番もロ短調だし、無伴奏Vn組曲にもあり。ロ短調といえば、シューベルト「未完成」や、特にチャイコフスキーが生涯愛した調性で、かなりロマンティックなイメージがあるが、バッハも「ロ短調ミサ」なんてあるし、かなりバッハにとっても重要な調性と言えよう。
 短調の雰囲気と、テンポ、リズム感の感覚から、序曲の中間部に入るあたりで、ショスタコーヴィチのピアノ五重奏曲の第1楽章が想起された。あからさまに擬古典な当作、バッハのフランス風序曲の影響をみてとるのは曲解やいなや、・・・それにしても、ショスタコの5番におけるバッハの無伴奏Vnソナタ第1番のフーガ主題に発端を得た、我が、バッハ賛のショスタコ作品、意外にゴロゴロ出てくるな。バッハを知らなきゃ、ショスタコも語れぬ・・・。
 さて、最近よく聴いているバッハの無伴奏(Vnもチェロも)でおなじみな舞曲とよく似た展開で、組曲は進むが、途中、「パスピエ」なんて楽章もあって目を惹く。ドビュッシーの「ベルガマスク組曲」に同様の楽章あり。なるほど、「フランス風」なわけか。
 最後は「エコー」と題された楽章。何やら、オシャレな感覚と言えぬこともない。組曲の定石以外に、いろいろ組み込ませるのがバッハの特徴でもあり、斬新さでもあろうか。このフランス風、ちょっと興味をもった作品である。
 さて、続くウェーバーの「舞踏への勧誘」なども、最近めったに耳にせず、懐かしい。それにしても改めて聞くと、もう、これはショパンのピアニズムそのものではないか。ショパンもウェーバーなしには存在しなかった??先駆者ウェーバーあなどれぬ。彼の短い生涯で、ロマン派の種を撒き、その影響の上に、今、聞かれ続ける音楽は存在している。
 このところ、シューマン初期ピアノ作品をTVにて機会あれば見て聴いている。今回は、作品12の幻想小曲集。「クライスレリアーナ」「幻想曲」に比較すれば随分聴きやすい。いかにもシューマン的な和声、歌心も心地よい。 

 N響アワーの枠での、「思い出の名演奏」、10年前に亡くなったチェルカスキーの、最後の日本公演。まさに死の年の演奏。80過ぎとは思えぬ演奏ではある。しかし、かなり、ミスタッチなどはあったような。
 ルービンシテイン「へ調のメロディ」、リスト「ポロネーズ」、シューマン「幻想曲」。アンコールとして自作品、そして、サン・サーンス「白鳥」。
 19世紀、ロマン派の流儀を現代に伝える最後の巨匠とのこと。確かに、冒頭と最後の作品などに、奏者の自由な解釈など感じ、今風ならぬ感覚はあり。さらに、自作の披露などもそう思わせる。シューマンは、冒頭楽章の、とめどなく流れる細やかな動きにややぎこちなさは感じるが、全くの自分の音楽として演奏をしている余裕は感じられる。

 期せず、シューマンばかりの記事となってしまったが、最後にブラームスゲアハルト・オピッツによるピアノ(スタジオ録画)を教育TV芸術劇場、そしてBSにて。作品番号110番台の晩年の枯れた小品に始めて意識して向き合う。確かに、力性感も乏しく、暗さが先立つものが多い中で、最後の作品119の「4つの小品」の終曲「ラプソディ」変ホ長調の和音ずくしのたくましさは耳に強く残る、が、どうもこれがニールセンへの橋渡しに聞こえてならぬ。力強い和音の連結は、ニールセンの小品「祝典前奏曲・世紀の変わり目」と共通する趣向だし、ブラームスにおける、やや風変わりな5小節フレーズの最後の部分の不協和音は、ニールセンの歌劇「サウルとダヴィデ」の第2幕への間奏曲の金管コラールとの和声上の共通点がありそうだ。これらのニールセン作品が、ブラームスの死後すぐの作品であることを考えると、当時のニールセンの創作活動において、ブラームスの最後のピアノ曲が何らかの刻印を押したのやも・・・とまたも曲解を提示しておこう。ポスト・ブラームスとしてのニールセン、という私の従来からの主張、ますます確信に・・・???

(2005.9.28 Ms)

 期待の若手ピアニスト(ただ実績もかなり積んでおり,やや中堅よりか)2題。
 BSにて、ピアニスト、エレーヌ・グリモーのドキュメント。以前、リサイタルでの、ラフマニノフ「音の絵」の怒涛の演奏をTVで見て驚いて以来、気になる存在ではあった。最近のN響とのシューマンの協奏曲は、作品との相性がイマイチだったようだが、今回の番組を見て、やはり凄さを再認識。ラフマニノフの2番の冒頭の凄さよ。最初のソロがラフマニノフ特有のロシアの「鐘」のイメージそのものなのはわかるが、オケが入ってきても、ピアノがガンガン鳴り続け、細かな繊細さよりは豪胆なダイナミックな音楽が続く。低音の音の捉え方が、金属質で、ドンドン迫ってくる。彼女のラフマニノフ、追いかける必要あり。
 そんな彼女のもう一つの側面が、オオカミの保護。フランス出身ながらアメリカに住んでオオカミを通じた環境問題への取り組みに力を注ぐ。

 教育TV、芸術劇場にて、ムストネンのリサイタル。腕が空中を舞い、なんとも奇異な演奏スタイル。ただ演奏の質としては、非の打ち所なく完璧であり、プログラムとしても飽きさせず、また、グリモー同様の、凄みに満ちたもの。
 まず、シベリウス10の小品Op.58。交響曲で言えば3番と4番の間。それにしては、第1曲「夢想」からして、無調的な、まるでスクリャービンかと。第3曲の「変奏曲」などは、いつものほの暗いシベリウスならではの節回しもあって安心するものの、晦渋な雰囲気は漂う。音数も決して多くなく、いわゆるピアノの性能をフルに発揮というわけでもなさそうだが、独創的。
 続いてスカルラッティのソナタを何曲か。1楽章ソナタばかりで、それぞれがいろいろなキャラ。バッハのような込み入った対位法ほどではないが、歌に満ち、なおバロック的であるという新鮮な感覚。音色の作り方がシベリウスとは全く違って、かなり打撃的、余韻を抑えた、チェンバロを意識したものと思われる。ソナタによっては両手の交差なども頻出して、バロックを越えた発想(両手それぞれが対位法的に出る限りは交差の発想は生まれにくいだろう)とも感じ、興味深いもの。機会があればちょっといろいろ知ってみたい世界。
 最後に、重厚なる、ラフマニノフソナタ第1番。とにかく音が多い。オケを指向しているかの迫力。ただ、旋律美の探究は皆無。第1楽章など、半音で導音解決するモチーフと、ながく同音が伸ばされる(ただし伴奏が複雑怪奇)モチーフで構成されて、メロディとしては頭には残らない。でも、気迫が凄い。第3楽章はやっぱり、「怒りの日」のモチーフ。彼の主要作品全てに出る「死」のイメージ。特にニ短調という調性が、若書きの大失敗作(私は彼の作品で最も評価するが)、交響曲第1番をどうしたって想起させる。交響曲第2番と並んで、第1番の失敗体験を乗り越えるために自らに課した試練としての作品と受けとめたい。・・・しかし、その気負いが、親しみやすさから遠いイメージとなるか。音楽性から見れば、ピアノの技巧開拓、限界に挑戦といった雰囲気に終始、なかなか取りあげられないのもうなづける・・・ものの、ムストネンのような、鬼才、奇才の手にかかると、ラフマニノフの怨念のようなものが作品全編から醸し出され、ただ聞き流すことは出来ず。こういった現象こそ、演奏家の存在理由、ということだろう。傑作、名作の誉れ高い作品以外であっても一級のものに再構築して聴衆に提示する、その出会いの感動こそ、私の望むものである。

(2005.7.24 Ms)

 この春、4月頃からの番組を思い出しつつ。

 仙台フィル第200回定期をBSで。2人の指揮者を伴う委嘱作の後は、R.シュトラウス。「ツァラトゥストラ」と「アルプス交響曲」。
 弦の統率がやや甘いか。ここぞというところでの迫力に物足りなさも感じる。複雑な絡みを持つオーケストレーション、やや混沌とした印象も。ただトータルとしては大曲ぞろいのプログラムを堪能させてくれた。地方オケの水準も高いものと感心してしまう。若手の登用も進んでいるようで、十分将来性を買い。

 NHK−FMで、日本におけるドイツに絡めてのプログラム。ライプツィヒ・ゲヴァントハウス。ブロムシュテット指揮。今年の来日を控えて、同じプログラムで、2月に地元で演奏したもの。ツィンマーマンをソロに迎えてのバルトークのヴァイオリン協奏曲第2番、そしてベートーヴェンの「英雄」。松本での名演を懐かしみつつ。「英雄」、特に第2楽章の張り詰めた緊張感、低弦の奥深い響きと明確な主張、ホルンの伸びのあるソロなどが、日本のオケには感じられにくいか。バルトークも、なかなかに難しい印象は強く親しみにくいのだが、ソロの完璧さと、指揮とオケの手際良さで、一気に集中して鑑賞できた。指揮者、高関氏による解説も秀逸。バルトーク作品について、当初は変奏曲として書く予定が、ソリストの希望で通常の3楽章の協奏曲という形になったというが、第2楽章が変奏曲、さらに、第3楽章自体が第1楽章の巨大な変奏になっているとの指摘、興味深く聴く。すると、第3楽章の構成、さらに主題の作り方など、第1楽章との関連を感じることが出来た。その解説のおかげもあって、集中的な鑑賞もできた。難曲の対する取っ掛かりが出来て嬉しいもの。

 「タモリ倶楽部」、言わずと知れた、深夜番組の老舗。結構、「空耳アワー」なども好きだし、番組そのものも、かなりくだらないネタもありながら、楽しんで見ている。そして、タモリ自身、ミュージシャンでもあり、音楽ネタは少なくはない。世界の民俗楽器(アフリカの打楽器やら、インドのシタールやら、かなり未知な楽器もぞくぞく出て来て)を、ふかわりょう達と演奏するシリーズはなかなか面白かったが、このたび、壮絶な企画が・・・。
 ジョン・ケージの楽譜を解読する、というテーマ。どうだろう、NHKでも、こんなマニアックで視聴率の稼げない企画は取り上げられることもあるまい。青島広志氏を迎えて、偶然性音楽的な楽譜をみんなで弾く姿は、どうみてもでたらめな音にしか聞こえないものの、意義だけは多いに認めたい。さらに、ピアノの中の弦をはじいたり、ピアノの鍵盤以外の部分を叩いたり、楽器を使わないで音を発するなど、どんどん既成概念を外れた音が出てくる。20世紀半ばの音楽の一つの潮流を易しく紹介してくれたこの番組、現代音楽業界から表彰されてもよさそうな代物。恐るべし「タモリ倶楽部」・・・・そう言えば、かつて、やはりタモリの長寿番組だった「今夜は最高」においても、クラシック音楽に歌詞をつけてミュージカル仕立てにした「忠臣蔵」が何かの賞をもらっていたっけ。

 「題名のない音楽会21」。期待の新星。チェロの石坂団十郎氏に注目。軽やかな、ハイドンのハ長調の協奏曲のフィナーレを聴く。

 BBCフィルの来日公演。川崎にて。「威風堂々」第1番や、「惑星」、お国ものを巨大編成で持ってきてくれてありがとう。「威風」の中間部や、「木星」の中間部で、派手になり過ぎない、心からの敬虔な祈りに似た精神性を感じ、さすが英国の演奏。違いを感じさせてよい。オケも国際的になりつつあり、お国柄が不明確になりつつもあろうが、こういうスタンス、ふと感じさせてくれると安心感あり。イタリア人、ジャナンドレア・ノセダによる指揮。全体的に速いテンポであっけらかんという側面はあった・・・特に「土星」の速さは違和感も。彼のお国柄も欲しかったか、アンコール1曲目は、ウォルフ・フェラーリの歌劇「4人の田舎者」、室内オケ編成による軽めなワルツ風。シベリウスのサロン風オケ作品との感触の近似性あり。穏やかな牧歌風。それにしても「聖母の宝石」の作者だが最近とんと聞きませんね。もう1曲もかなり未知なもので、グレンジャーの「羊飼いのヘイ舞曲」、イギリスの素朴な舞曲ながら、だんだんアメリカ的なリズム感なども目立って、気の効いたアンコール・ピースである。珍しい作品、2曲、今後の再会はなさそうかな。

 2004年のグラインドボーン音楽祭。注目は、ラフマニノフの無名なるオペラ、「けちな騎士」。これがあまりにも暗く不気味な作品。1904年の作というから、作曲家としての復活を遂げたピアノ協奏曲第2番のあとの意欲作たるオペラか。それにしても無名だ。
 男声5人だけ(合唱もない)の1幕もの、およそ1時間。ケチで貪欲な男爵の破滅ストーリー。第2場は、その男爵が、黄金、財産に埋もれた暗い地下室での長大なモノローグ。全体に、オーケストラ自体も低音指向が強く、低弦のうねりやトロンボーン・チューバの暗い和声、バス・クラリネットのソロなどふんだんに使用、不気味さを醸し出す。不評に終わった失敗作、第1交響曲の不健全さの復活がここに明らか。と同時に、次なる大作、第2交響曲の素材がふんだんに出てくるのが興味深い。半音階で細かな音符で上昇する動機がオペラ全体を支配し、不安感をそそる効果をあげているが、まさに、第2交響曲フィナーレに頻出する動機である(交響曲は明るい長調の中での使用だが)。第1場で、ユダヤ人の金貸しが出てくるが、これは、第2交響曲第1楽章の主要主題が常にまとわりつく。
 なお、この作品の初演は、リムスキー・コルサコフ邸にて。若きストラヴィンスキーの姿もあったという・・・どうも、そんな解説を聞いたせいか、何度も出てくる、半音階の上昇音型が、「春の祭典」の第2部の「いけにえの讃美」コーラングレの同様のモチーフとダブってしょうがない。ふと、ラフマニノフの暗い低音指向のオーケストレーションが、ストラヴィンスキーにも受け継がれているという側面、気になる。ある種「悪魔」的なるもの、ラフマニノフの創作のなかにこびりついていそうだ。
 この知られざるオペラ、映画音楽風な甘いイメージのラフマニノフらしからぬものながら、これこそ、ここで描いた世界こそ、彼の本当の創作における重要な姿ではなかったか、と思うに至る。このオペラこそ、無念の失敗を被った第1交響曲の後継的作品・・・か。そして結果、このオペラも初演の評価は知らないが、未知なる作品となり、素材は第2交響曲に流用され、違うキャラクターを持った、祝祭的フィナーレに作りかえられてしまうわけか・・・。
 しかし、男声の魅力をとことん追求した、このオペラ、華麗な側面は皆無で、ムソルグスキーのオペラ、ショスタコーヴィチの「バビ・ヤール」などと並べると納得しきり、媚びることなき、ロシアらしさをプンプンさせた大作だ。知られざる本当のラフマニノフを知るためには必聴の作品と私は断定しようか。

(2005.6.16 Ms)

 映画音楽の巨匠、コルンゴルトの特番。
 「映画音楽の・・・」という形容はかわいそうか。若くしてウィーンでオペラ作曲家として名を馳せ、マーラー、R.シュトラウスに匹敵する管弦楽法の才能に恵まれた彼が、第1次大戦後の芸術のありかたの変化についてゆくべく、ヨハン・シュトラウスの忘れられたオペレッタの再演をきっかけに、ハリウッドにおける「真夏の夜の夢」の映画化でメンデルスゾーンの編曲という仕事が舞い込み、その後、映画音楽の世界へと。映画音楽の作曲家の地位を引き上げ、また、後期ロマン派のエッセンスを接ぎ込み、今聞くアメリカ映画音楽の下地を作ったといってよいだろう。紹介された作品を聞く限り、マーラーとウィリアムスの中間点にいるような。
 第2次大戦後、映画を離れ、故郷に戻るが誰も相手にせず、満を持しての「交響曲」も時代遅れとして不評。第2番に着手するもスケッチのみ残して、失意の内に死去。
 ある意味、ポスト・マーラーの一人ではあったはず。ツェムリンスキーの「人魚姫」を聴いた時も思ったが、その彼の弟子だったコルンゴルトも含め、後期ロマン派の、12音音楽ではない到達点として再認識、再評価すべき才能ではなかろうか?ただあまりにも聴く機会が少ない。マーラー評価も定着した今、もっと、これらの音楽にも目を向けたいもの。
 N響の定期でもVn.協奏曲が取り上げられたばかり。さて、今後のブレイクやいかに。

 BSにて、読売日響の「ブラボー!クラシック」。バルトークの「2台のピアノと打楽器のための協奏曲」。こんな珍しい作品を。それも定演ではなく、TV放映用の公開録画にて。このような意気込みあってこそ、TVの公共性、胸はれるものとなろう。FジTVさんも見習ってくださいな。
 打楽器はオケ団員、それも、首席菅原氏の健闘も頼もしい・・・私が学生の頃からあの風貌で、もう随分と年齢を経ているだろうに、パワフルにかつ精緻に、バルトークを攻略していた。ただ、改めて「協奏曲」版を聴くと、作品としては、オケの役割が完全に取って付けたという感じ。「ソナタ」としての原曲、4人での室内楽版オリジナルこそ素晴らしい。バルトークもアメリカで苦労していただろうし、生活のためにこの焼きなおし版を作らざるを得なかったのか。オケのコンサートでないと注目も浴びないだろうし、不本意な編曲だったかもしれない・・・。そんな思いは強まる印象ではあった。
 それはさておき、音楽史上有名な作品でありながら、「ソナタ」を見る、聴く機会に恵まれない。「協奏曲」であれ、TV電波に乗ってくれるのは歓迎。指揮者の前後にピアノ、打楽器が2人ずつ配置、アンサンブルはやりやすい形ではあろう(第1楽章の変拍子など、指揮者なしの室内楽版ではスリル満点過ぎ。)。映像的には、2人の打楽器奏者が手持ちシンバルを受け渡す場面がしっかり数回カメラが捉えていて、何だか貧乏臭いような、微笑ましくもあり。指揮の広上氏の存在感もこれだけの難曲だと確固たるもの。安心して任せられる。
 また、違う回では、やはり広上氏で、オペラ名序曲集、特にヴェルディの「運命の力」、熱演だ。ネットリと濃厚に仕上げた。金管の重厚さ、音圧に代表されるように、TVを通じながらも、オケの響きに奥行きが感じられ十分満足。

(2005.4.2 Ms)

 NHK芸術劇場。フリードリヒ・グルダ・メモリアルコンサート。
 今は亡きピアニスト、グルダの偲んで。弟子であるアルゲリッチ、そして、ご本人の2人の息子を交えて。
 メインは、アルゲリッチのソロによる、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調。モーツァルトの短調、確かに情熱的な楽想ではあるがそれにしても攻撃的、先鋭的な演奏。硬質で、ただならぬ緊張感と推進力。バックの新日フィル、アルミンクの指揮もそれに応えて、燃えるような演奏。
 その他、ピアノ3人のソロで、同じくモーツァルトの3台のピアノによる協奏曲。即興演奏を好んだ個人を偲んで、カデンツァに仕掛けを。映画音楽にもなったハ長調の有名な協奏曲の第2楽章のパロディ。
 最も驚きだったのは、グルダの作曲したチェロ協奏曲。小編成の管楽アンサンブルと、ドラム、ベース、ギター。いきなり、第1楽章「序曲」から、一昔前のロック風な趣。金管のシャウト、ドラムのエイト・ビート。笑ってしまった。しかし、チェロに馴染んでしまう・・・・最近はヨーヨーマのピアソラに始まり、ポップなチェロもよく聴くし・・・おもしろいな、これは。そう言えば、私の学生時代、FMでグルダのピアノ協奏曲と思しき作品を聴いたことがあるような記憶もある。それも、こんな感じ。名前は知っており、大家、といったイメージだったのに、やたら軽いノリの音楽で意表を突かれたな。
 さて続く「牧歌」は、まるで文部省唱歌みたいなシンプルなメロディ。和声。グルダ自身、ウィーンの人間で、オーソドックスな民謡風なものも自分の音楽、ということか。そして「カデンツァ」、ベートーヴェンの第九の「おお、友よ、そんな調べではなく」という低弦のレシタチーボに良く似たものと感じる。しかし、現代的なサウンドや、やはりポップスのリズムも飛び出す。そして、また、ノリで攻めるのを期待していると、続く「メヌエット」、まるでルネッサンスの音楽か?ギターの伴奏にのって雅な古風なチェロのメヌエット。いい雰囲気だ。そしてフィナーレはギャロップ風なドンチャン騒ぎ。こんな「ふざけた」作品、愛すべき作品、知ることが出来て幸せ。
 ソロは、ゴーティエ・カプソン。健闘、奮闘していて共感大。
 さらに、Vn.のルノー・カプソン、そしてアルゲリッチによる、ベートーヴェンの三重協奏曲第3楽章も楽しく鑑賞。充実したコンサートだ。

 一方、同日の芸術劇場、海外の音楽情報にて、コペンハーゲンの新オペラ劇場。豪華で贅沢な。お国ものとして、ソナチネ・アルバムでもお馴染、クーラウのオペラなどチラッと映っていた。お国ものなら是非、ニールセン、2曲も充実のオペラがありますのに・・・残念。

 さて、ヨーヨーマの話がちょっと出たが、NHKの「新シルクロード」シリーズ。彼が、民俗楽器とのセッションで音楽を担当。アジア風、そしてアラビア風、NHKの紹介番組をちょっと見ただけだが、なかなかいい感じだ。

(2005.2.22 Ms)

 新年TV番組の続き。
 やはり最大の話題として、ピアニスト舘野泉さんのドキュメント。右手の自由を失い、その挫折からはい上がる姿に感銘深し。左手だけでピアニストとしての再起をかけ、両手のピアニスト時代には見向きもしなかった作品から発見、啓示を受ける。その象徴的存在として、バッハのシャコンヌのブラームスによる編曲。これを演奏会で取り上げ、また、最後の場面、シベリウスの家「アイノラ」でそれを演奏する姿には涙、である。個人的にも、ちょうど5年前の、日本シベリウス協会15周年の際のピアノ演奏、特に「即興曲」や「ロマンティックな情景」の感激は一生忘れ得ぬ経験として焼きついているだけに、左手のみの演奏姿には複雑な思いもつきまとうながらも、両手での復帰を願ってやまないし、また、そのプロとしての強靭な意志、運命に果敢に立ち向かう姿に心を打たれた。今後のさらなる活躍、期待します。頑張ってください!!!

 新年恒例のネタ、NHK名古屋のニューイヤー・コンサート。予定されていたVn.の川久保賜紀さんの演奏がなかったのは残念。後半は、愛知県の万博を意識して、パリ万博にちなむ選曲。「天国と地獄」序曲。有名なカンカン踊りで、頭打ちと裏打ちがこんがらがって進行していたのは滑稽ではある。どんなミスもプロで生じるのは望ましくないが、しょうがない。でも、それが本来の姿に戻るまでに随分時間がかかっていたような?
 ドビュッシーの「海」も、何か聞こえないようで気になる。落ちてるのか、バランスが悪いのか。繊細なオーケストレーション、塗り重ねられた音色、パッセージが織り成す、奥行きが感じ取れなくて残念。プロでも様にする難しさは痛感。パリ万博でも好評だったと言う「美しく青きドナウ」は選曲としてもう少し「パリ」らしいものを持ってきて欲しかったような気もしたが、安定した演奏で持ち直し。フランクのオルガン作品「英雄的小品」でしたか、もう曲の詳細は忘れたが、堂々たる風格、「交響曲」のフランクらしさも垣間見え面白い。最後にサン・サーンス「オルガン付き」最終場面で華々しく幕。アンコールは恒例の「ラデツキー」。本家の「ニューイヤー」はインド洋津波で自粛との噂も聞くが、名古屋は妙な配慮はなく祝賀ムードで。万博開催地たる配慮を求める声がでるかもと危惧したが、変に意識した形を取らなかったのは良かったか?でもこれは各人の判断。

 NHKのオペラ・コンサート。R.シュトラウス「サロメの踊り」のバレエが興味深く。
 ウィーン・フィル。ゲルギエフ指揮。ブロンフマンのソロによる、ラフマニノフの3番のピアノ協奏曲の壮絶さ。やはり、ロシアの勢い、生命力。グッと心をつかむ。
 ベルリン・フィル。ラトル指揮。ブラームスのピアノ四重奏曲のシェーンベルク編曲版。大オーケストラの華麗な、そして何より重厚な世界。野外コンサートながらもこのハイ・レベル。さすが。ラトルの、取りつかれたかのような指揮ぶりと、そこから引出される演奏。カラヤンをじっくりと聞いて育った世代ではない私にとって、今のベルリンも、充分、怪物的な、驚異の演奏と映る。以前TVで見たマーラー5番もそうだった。生きた音楽を電波を通じてさえ体感させてくれる。

(2005.1.24 Ms)

 

 新年あらたまってしまっていますが、年末から年始にかけての音楽番組を総おさらい。今年は見るべきものがとても多かった。録画したものを見るだけでも随分時間もかかってしまう。中には、ご飯食べつつ、また食事の用意しつつ、といった状態で見たものも多々。真剣な感想、ともならないが、記録だけしておこう。

 年末恒例「第九」については、生で聴けた都響、また例年TV放映されるN響については、他の項で触れますが、TV上、今回注目したのは、読売日響、BS日テレでの「ブラボー・クラシック」第九とはいえ、ショスタコの「第九」を年末押し迫った12月30日に放映。随分洒落たことを。吉松隆作品の指揮でも名を馳せている藤岡幸雄氏の演奏。ただ、期待ハズレに終わった。覇気に欠ける。何か白け切った雰囲気。金管もカスレ気味。うーん、景気良く年を越そうと思いきや、消化不良に。いつも力のこもった演奏を聴かせてくれていたのに。そういや数年前のロジェストベンスキー指揮のプロコフィエフ「スキタイ組曲」も期待した割に白けていたっけ。たまに、くじ運が悪いようだ。
 プロムス2004、ラストナイト。選曲があまり・・・。ドヴォルザーク没後100年で、お馴染み「謝肉祭」。こういう祝賀ムードにぴったり。随分タンバリンも華やかで良い。ちょっと気にしていたのが、オルガンとオケの作品で、バーバーの「祝祭トッカータ」でしたか、祝祭の割に暗い不協和音もガンガン鳴って難しい感じも。
 NHK教育では、きっと東海地区のみの放映となろうが、岐阜県交響楽団の定期演奏会の紹介。アマオケながらも、定演以外にも多彩な演奏活動を続けている団体。ベートーヴェンの「皇帝」とチャイコの4番から抜粋。指揮は小松一彦氏。
 2003年の東京公演(なんとサントリーホールで)の成功もあってか、かなり注目を浴びている証左。今後もこういった番組は必要。日本国の財政破綻のしわ寄せが次々に国民へ増税、地方自治体への財政支援打ちきりという形で表面化している昨今、大都会は別として、芸術のパトロンとして地方自治体が機能しなくなるのは必至。岐阜県発信のこういった番組は、芸術切り捨ての風潮の防波堤にもなろう。もっと「公共の電波」が「交響の伝播」たらんことを望みたい。そのためにも、魅力ある番組、さらには当然ながら、より魅力ある演奏を今後も期待したい。
 この辺の話題は、今年の私の主要主題としたい。地方自治体の破産は迫りつつあり、必要に応じて何らかの警鐘を鳴らしてゆきたい・・・そう言えば、今年は1905年、「血の日曜日」100周年。ショスタコの交響曲第11番ゆかりの年。その第4楽章「警鐘」が1年間私を突き動かすこととなるのか?
 また、2005年、ショスタコ没後30年、2006年、ショスタコ生誕100年。さてどんな盛りあがりが世界を覆うのか覆わないのか?

 新年のカウントダウンは、東急ジルベスターコンサート。10回記念で、このコンサートの初代指揮者の大野和士氏を再び迎えて「ボレロ」。やはりしっくり来ます。ここ数年、コバケンの「幻想交響曲」や、さらには井上ミッチーの「ショスタコの5番」など面白かったが、年の最後にしては重い内容かも・・・やはり、「ボレロ」いいですわ。ちょっと今回は最後間に合わないようなスリル感もあったが間一髪最後の音が0時0分に滑り込み。
 その他選曲としては、協奏作品が地味だった。Vn.は渡辺玲子氏を呼びながらも、クライスラーの「中国の太鼓」ではもったいない。ピアノは大御所、中村紘子氏。ショパンの作品ながらも、協奏曲ならぬ、モーツァルトの「ドンジョバンニ」の主題による変奏曲(正式名は違います・・・)。作品2でしたっけ。シューマンが「諸君、脱帽したまえ」と音楽誌に紹介したもの。大野氏がベルギーのモネ劇場率いて来日する際の演目が「ドンジョバンニ」なので絡めてのことながら、チョット冗長な感じの変奏曲だった。最後は合唱団とともにワーグナー「マイスタージンガー」で華々しく締める。
 東急ジルベスターはTV東京系。同系列はBSでも「スーパー・ワールド・オーケストラ」のコンサートを番組化。世界の一流オケ・プレイヤーを集め、エリック・カンゼルの指揮で。映画音楽中心の選曲。途中、山下洋輔氏のピアノによる「ラプソディ・イン・ブルー」もあったが。そんな中、冒頭だけは、ウォルトン「スピット・ファイアー」前奏曲。これがまた素敵。映画音楽でもあるのだが、第二次大戦中に戦闘機を生産する過程を描いた映画・・・。「スターウォーズ」や「ハリー・ポッター」と何げに並べて全然違和感ないし、音楽の質としてはやはりキラリと光るなあ。演奏会の冒頭に、もっと是非とも選曲してみて欲しい。客の心をグッとわしづかみ。

 新年恒例、関西の放送局で制作するクラシック番組が、3が日の間に早朝放映される。これがなかなか毎回楽しみ。外来オケの大阪での演奏会を取り上げることが多いようだが今年は、Vn.のクレーメルと彼の率いる「クレメラータ・バルティカ」。弦楽オケである。これは聴きに行きたかったものの行けなかったもので大変ありがたい。
 放送された曲が凄い。バッハのブランデンブルク協奏曲、3番の全曲、6番の抜粋。それはまあ、新春バロックってえのもいいものです。そして、何とシュニトケの合奏協奏曲、1番の全曲、3番の抜粋。新春の早朝から、不協和音の嵐、そしてジョン・ケージ考案の「プリペアード・ピアノ」の来たもんだ。日本もまだまだ捨てたもんじゃない。芸術音楽の層の厚さを認識できる。
 さて、バッハとシュニトケ、時代も国も遠く離れた二人を結びつけたのが、クレーメル。合奏協奏曲なる形式の現代的なアプローチの立役者だ。クレーメルが亡きシュニトケとの交友なども語り貴重な番組となっている。シュニトケ作品は両者とも、バロックの様式のパロディが露骨に出てきて面白い。そのバロックがドンドン現代音楽へ化けて行く過程が刺激的。ピアノ、チェンバロを効果的に使っているのも特徴だが、第3番においては、チャイムがさらに効果的に出てくる。両手を使った過激なグリッサンドはショッキング。確かにこういった音が交響曲にも使われていたっけ。映像で始めて見た。楽器にキズが付きそうなほどの激しさ。
 アンコールはロシアの作品だと思われるが「サーカス」と言う接続曲風なもの。文字どおり「サーカス」的ムードの通俗的音楽がメドレー的に流れて行く。ショスタコの初期バレエの感触もある。突然歌い出したり、打楽器が小太鼓とシンバルだけでドラムセット的ないろんなニュアンスを出してアクセント付けていたのも好感大。バッハと現代音楽だけのコンサートというのも堅苦し過ぎるかも、そこへ洒落た音楽でのサービス。
 さすが弦のプロフェッショナル集団だけはある。また機会あれば是非とも生で体感したい。

(2005.1.16 Ms)


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