第4回
ショスタコーヴィチ理解のための、先人達の「運命」克服プロセス解読
〜 ベートーヴェンとチャイコフスキーを中心に 〜
只今、ショスタコーヴィチの交響曲第5番の解読を1年かけてなお途上ながら続行中でありますが(2007年2月現在)、その考察を続けるにあたって、やはり、社会主義リアリズムという創作上の枠を思うとき、ベートーヴェンとチャイコフスキーの、一連の「運命交響曲」(短調→長調・「暗黒から光明へ」)との比較ははずせない観点だと常々痛感していたところ。ここで、いかに、先人達の「運命交響曲」が構成され(いかに「運命」が克服され「歓喜」を勝ち取るか)、さらに、ショスタコーヴィチに影響したかを考えておこうと思います。
ショスタコーヴィチの第5番を考える上での前提をここに提示するとともに、その第5番の論考終了後手掛ける予定の第7番「レニングラード」にも、この先人達の「運命交響曲」との比較が必要と思われるため、その第7番も視野に入れた形で、この項を書き進めたい、と目論んでいます。さて、うまくいきますかどうか。
<1> 導入・・・ベートーヴェンの交響曲第5番
何と言っても、この通称「運命交響曲」から話は始まろう。交響曲の究極のお手本。この作品抜きには、その後の交響曲史は語れない、最重要作である。その意義については、様々な側面から語れるだろうが、最も的確に示唆したと思われる一文をここに引用しておこう。
(前略) よく知られているように、第5番はこの「運命動機」の凝縮された展開、この動機や他の素材による発展変奏と全曲の統一、スケルツォから切れ目なくフィナーレに続く箇所の劇的な高揚感、フィナーレにおけるスケルツォの回帰、それに楽器の用法など、多くの点で革新的な側面をもっている。 (中略) 革新性の点で強調しておきたいのは全体のドラマティックな設計である。この作品はフィナーレに向けて、フィナーレを到達点として構想されている。前の諸楽章はそれ自身の存在を主張しながら、フィナーレにいたるプロセスに奉仕している。実際、ハ短調からハ長調へ、暗から明へ、苦悩を通して勝利へ、という図式は、近代的な思考パターンの反映である。前項に対して否定的な要素(例えば第1主題に対する第2主題、第1楽章に対する第2主題など)を介してさらに高次な発展を遂げる、というのは弁証法的な論理にほかならない。この曲のこうした性格は言いふるされたことであり、陳腐な説明であるかもしれない。しかし肝心なのは、実はまさにこの第5交響曲において、19世紀の交響曲では当たり前のこととなってゆくこの力学がはじめて本格的に適用されたのであり、以後の多くの交響曲のプロトタイプとなった、ということである。 そもそも交響曲をはじめとするソナタ型のジャンルは、18世紀前半に成立して以来、伝統的に竜頭蛇尾型の構成をとっていた。一番比重が置かれたのは第1楽章であり、フィナーレは舞曲的な楽想が疾駆する軽い楽章として扱われていた(その傾向は19世紀になっても完全に払拭されたわけではない)。一方、18世紀の末からフィナーレ楽章の機能に変化が生じる。単に曲の最後に置かれる楽章なのではなく、目的論的に志向される場となったのである(カール・H・ヴェルナ―のいう「フィナールカラクテール」)。モーツァルトやハイドンの最後の交響曲群にはすでにこのフィナーレ志向の予感があった。しかし、それが顕在化したのは、ほかでもなくベートーヴェンのこの作品なのである。 「ベートーヴェン全集3」 講談社刊 P248 土田英三郎氏による、CDの楽曲解説 |
フィナーレで語られる結論が説得力を持ち得るか否かは、先行楽章からフィナーレに至る過程で、でいかに「弁証法的な論理」を尽くしているか?にかかってくる。二項対立の設定と解決の連鎖が、高次の発展へと昇華する。
私自身、かれこれ20年前の、大学時代の教養課程、ヘーゲルを中心とした「哲学史」の課題レポートで、ベートーヴェンの第5番における「正・反・合」のプロセスを取りあげて以来、今、私がこういうHPを作っている伏線となった最初のテーマとして、思い出深いものだ(故に、拙著においても収録・・・大学のレポート作成の参考にもどうぞお使い下さい。おっと閑話休題)。
まず、最も判りやすいところから始めれば、上記土田氏解説によれば「運命動機の凝縮された展開」、これが全曲の統一を図っている点。これは皆様も当然ご存知の事実。適宜、土田氏の解説を引用しつつまとめれば・・・
第1楽章冒頭、第1主題提示、いわゆる「ジャ・ジャ・ジャ・ジャーン」である(今や「ハクション大魔王」の登場シーンと言ってピンと来る人も少ないか)。主調ハ短調。土田氏解説P247で言う「無慈悲な運命」。それに対する変ホ長調の第2主題提示、安らぎの希求、しかし、その瞬間にも運命動機は低音で鳴り響く。第1楽章全体が「運命動機」の圧倒的支配下にある。
第2楽章、変イ長調。2つの主題をもつ変奏曲。第1主題は「一時の平安」(土田氏解説P245)。第2主題として、金管楽器のファンファーレ的楽想が連呼され、未来への希望を訴える(「希望の動機」土田氏解説P245)。しかし、やはり「運命動機」の影はつきまとう(76、88小節目以降)。
第3楽章、再びハ短調。主部の主要主題は、ホルンで提示される「運命動機」。一転、中間部はハ長調のフガート。その楽天的エネルギーの発散の後、主部の再現は、弱々しい「運命動機」に姿を変えている。第4楽章へのブリッジで、ティンパニが神秘的な「運命動機」を響かせ、それが解体した末に・・・。
第4楽章、ハ長調の凱歌。勝利。ただし、第2主題(44小節目)の健全な明るさを持つ旋律自体に「運命動機」は埋め込まれ、もはや「無慈悲な運命」は超克された。
以上のようなプロットがまず理解されるのだが、一歩、踏み込んで、調性の設定を通して「全体のドラマティックな設計」を読み解こう。
交響曲全体の主調は第1楽章で確立される、ハ短調。そして、フィナーレは同主調たるハ長調。そのハ長調は、突然、第4楽章で出現するものではない。つまり、
第1楽章再現部における第2主題再現(307小節目以降)。
第2楽章第2主題後半の金管ファンファーレ(31、80、147小節目以降)。
第3楽章中間部(140小節目以降)。
と各楽章それぞれに、結論となるハ長調の響きは聴き取れ、それも、楽章を追って、その存在感を増している(時間、音量ともに)。整然とハ長調の伏線が用意されている。
さて、それだけでなく、このハ長調の楽想は、共通する旋律的な特徴を持っているわけだ。運命動機以外の素材による「発展変奏と全曲統一」について次に見てゆきたいが、その前に、同じくベートーヴェンの交響曲第1番の例を見て、それから、第5番へと話を進めたい。
(2007.2.21 Ms)
<2> ベートーヴェンの交響曲第1番
ベートーヴェンの交響曲第5番の主要主題の旋律造型について見る前に、より判りやすい例として、第1番を先に見てゆきたい。
参考として、『名曲の旋律学 クラシック音楽の主題と組立て』(ルードルフ・レティ著 水野信男・岸本宏子訳 音楽之友社刊)を紐解くと(P80以降)、「G−H−C」(ソ―シ―ド)という動機が設定され、その「希薄化」ヴァージョン「G−C」(ソ―ド)、「充填化」ヴァージョン「G−A−H−C」(ソ―ラ―シ―ド)を示し、これらが、全曲の主要主題を造型している旨の説明がなされている。一つの分析として興味深く読んだところ。
ここでの私の分析は、全曲の中心に「H−C」(シ―ド)という上昇音型を設定し、その音型が楽章を通じて発展する、というものである。
まさに、交響曲の開始が、「E−F」「H−C」「Fis−G」という3つの半音上昇である。第1楽章の第1主題(アレグロ)は、「G−H−C」という音型の連鎖で構成され、中心音型「H−C」が内包されおり、続いて、「Cis−D」という上昇が、全音上での主題提示を続ける(「A−Cis−D」)。第1楽章は第2主題提示の後、そして展開部においても、この「H−C」(半音上昇)と、「G−H−C」(半音上昇を内包した四度上昇)が主体的な役割を果たす。
第2楽章は、第1楽章の「G−H−C」の輪郭となる四度上昇「G−C」を中心主題として設定している。へ長調を主調とするため楽章冒頭は「C−F」という動きだが、フガートとして主題が提示されるので、10小節目には、ハ長調の「G−C」という音型が低音で登場し、かつ、反復記号の前においてもハ長調での終止が見られ、やはり「G−C」の動きは強調される。
第3楽章は、上記レティ著作に見られるように、第1、2楽章で提示された「G−C」という4度上昇を「充填化」し、また、全曲の中心たる「H−C」を内包した「G−A−H−C」が主題を形成する。そして、さらにさらに上行を重ねる。つまり、「G−A−H−C」、「D−E−Fis−G」、「A−H−Cis−D」と続く(途中、半音階的な経過音も挟まれる)。中間部は、原点に立ち帰った「E−F」という半音上昇が主題である。なお、中間部の木管のハーモニーの背後でせわしなく動き回るヴァイオリンは、「G−A−H−C−D−E」、「H−C−D−E−F−G」と6度の順次上行を聞かせ、第3楽章冒頭を思わせる長い上昇が現われている。
そして、結論たる第4楽章は、序奏で、「G−A−H−C−D−E−F−G」という8度の上昇を、誰が聞いても判るような方法で、順を追って示し、その上で主部の主題として提示している。これ以上の詳しい説明は省略するが、第4楽章は、全面的に上昇音階に彩られた展開を遂げている。
という具合いに、最初に蒔かれた種「H−C」(半音上昇)が、楽章を通じて育ち、最終的には、1オクターヴの順次上行進行へと成長する。見事な設計、と言えよう。ただし、個人的には、この設計が前面に出過ぎて、主題の魅力と言う面で、物足りない点を指摘することは出来るかもしれない。・・・ベートーヴェンに対し、何たる不敬・・・しかし、この第1番の発想をもっと魅力的かつ巧妙に仕掛けたのが、第5番、ということになるのだ。
(2007.2.23 Ms)
<3> 再説・・・ベートーヴェンの交響曲第5番
さて、第5番における中心となるリズム動機は、当然にして、全曲の開始を告げる「運命動機」に他ならないが、先ほど見たような、第1番における「H−C」(半音上昇)に相当する、全曲の中心になる音型(音程としての特徴)は何だろうか。第1番のように楽曲冒頭に注目しても、そこに掲げられた「G−Es」「F−D」という3度下降が中心とは言い難い。第1楽章において主要な位置は占めても、後続楽章で必ずしも積極的な活用はない。そこで、結論たるハ長調を導く伏線となる、<1>の最後に掲示した部分の旋律線を挙げてみると、
第1楽章再現部第2主題(307小節目)・・・「G−C/H−C/D−A/A−G」
第2楽章第2主題後半の金管ファンファーレ(31小節目)・・・「E−G/C−C−D/E/C−D/E−E−F/G」
第3楽章中間部(140小節目)・・・「C/H−C−D−G−A−H/C−H−C−D−E−F/G」
小節線を斜線で区切ってみましたが、第2、3楽章においては、第1番同様に旋律線の上昇志向がはっきりと見て取れる。そう思って見ると、第1楽章においても、かすかに上昇する線が見えてくる。原曲は2/4拍子だが、4/4拍子として小節線を区切ってみれば・・・「G−C/H−C−D−A/A−G」。このフレーズの重心は、「H−C−D」に存在しよう。第2主題のその後の動きを追っていけば、その重要性はさらに認識できる。
つまり、まず、第1楽章では「H−C−D」、第2楽章は「C−D−E」と「E−F−G」、第3楽章は「H−C−D」、「G−A−H−C」そして「H−C−D−E−F−G」と、第1番で見て来たような、楽章を追っての上昇志向の発展が見えてくる。
そこで、第1楽章の冒頭へ目を向ければ、まず、下行する「無慈悲な運命」が繰り返された上で、冒頭で提示された3度下行(G−Es)が、14小節目で1st Vn.で「G−G−F−Es」という順次進行に変容し、即、「Es−Es−F−G」という3度の順次上行がそれに応酬し、その繰り返しの末に、再びホルンも加わっての「As−F」という「無慈悲な運命」が下降優位を決定づける・・・。ここに、この交響曲の構図が凝縮されている。
「運命動機」のリズムに乗って現われる3度の下行(G−Es)という「無慈悲な運命」に対する意義申立てとして、3度の順次上行(Es−F−G)が位置づけられよう。
その、「運命」に対する抵抗としての3度順次上行が、第1主題に対抗する第2主題として取りあげられ、その主題の核として位置づけられる。主題提示(63小節目)においては、変ホ長調。そして、展開部を経て、再現部に至り、第2主題は主調ハ短調に対する同主長調たるハ長調で登場する(307小節目)。このハ長調こそ、第4楽章の主調となり、全曲の結論たるハ長調である。
短調が主調の交響曲において、第1楽章第2主題再現において、フィナーレの歓喜への最初の布石が打たれる。初めて、調性が同主長調で安定する場面だ。そして、調性を同じくするだけでなく、そこに、フィナーレを予告する素材がちゃんと提示されている。ベートーヴェンの第5番においては、3度の順次上行進行がそれであり、楽章を追って、その上昇が拡大発展するわけだ。
短調の「運命交響曲」における、同主長調による第1楽章第2主題再現、ここの重要性を検証してゆくことこそ、本項の主眼であり、ベートーヴェンのみならず、チャイコフスキーにも顕著に見られ、ショスタコーヴィチの第5番でも受け継がれていよう。
なお、先まわりして言えば、全楽章を通じての順次上行という旋律線の中途半端な発展をショスタコーヴィチの第7番に見ることで、単純な歓喜以外のニュアンスを嗅ぎ取るうえでも、本項の論点はおって必要となってくる(予定である)。
(2007.2.28 Ms)
さて、ベートーヴェンの第5番に戻れば、第2主題再現におけるハ長調は、コーダ以降(374小節目)、ハ短調へと連れ戻され、「無慈悲な運命」(3度下行)が連呼される(398小節目以降、特に406小節目以降の低弦の9回にわたる連続のくどさこそベートーヴェンの真骨頂!)。しかし、「運命」に抵抗する3度順次上行も黙ってはおらず、423小節目以降は、3度下行に対して必死で食い下がる(Es−C/D−Es/F・・・3度下行→3度順次上行の繰り返し)。ところが、440小節目からは、3度順次上行に対して3度下行が否定する(D−Es/F−D・・・3度順次進行→3度下行の繰り返し)。その末に3度順次進行は消滅。「無慈悲な運命」の優位がコーダで決定づけられる。
コーダの造型を見る時、確かに運命動機は全曲を通じて主導的な役割を担っているが、それと同等な重要度をもって、3度下行と3度順次上行の対決があつかわれていることがよく分かる(運命動機が異様に頻出する第1楽章にあって、コーダの407小節目から468小節目までの長きにわたり、運命動機は影に追いやられ姿を見せないまま、上行と下行の対決に費やされているわけだ。)。第2展開部と呼ぶに相応しい、ベートーヴェンらしい入念な作り込み方に改めて感服してしまうコーダである。と同時に、「運命動機」だけが全曲の核となっているわけではないことが第1楽章を閉じるにあたって強調され、後続楽章へのスムーズな移行(順次上行という音型の存在感に気付かされる)が指向されている、と私は見たい。
続く、第2楽章は「一時の平安」。しかし、前述のとおり、フィナーレを予告するハ長調が、金管のファンファーレとして3回登場する。そこに3度の順次進行は明らかな形で(第1楽章第2主題以上に露骨に)認められる。そして、「C−D−E」と「E−F−G」が連続し、より長い上昇指向を伺わせる様は、交響曲第1番第3楽章の冒頭と同じ趣向となっている。また、3回目の登場(147小節目)は、それまでが弦楽器のせわしない分散和音を伴奏に伴っていたのに対して、全合奏による和音連打で圧倒的な力をもって響き、その管弦楽法はまさに第4楽章冒頭を思わせるものとなっている点に注意しよう。これも計算された伏線の一つだろう。
第3楽章。主調ハ短調に回帰し、運命動機も再び主導的な役割を担っている。ホルンによる威圧的な雰囲気。そう言えば第1楽章においても、ホルンによる3度下行による運命動機(「無慈悲な運命」)は要所で目立っていた(22、125、240小節等)。それが、第3楽章で主題として継続的にホルンが活躍の場をまず与えられる。しかし、中間部では一転、ハ長調のエネルギーの爆発が起こる。ただ、その直前、126小節目以降、旋律線が8分音符となり細分化されるなかに、第1楽章で「無慈悲な運命」に抵抗した、3度の順次上行が現われている点(125、128、129、130小節目)は注目しておこう。
そして、中間部の、低弦から沸き起こるフガート。前述したとおり、「H−C−D」「G−A−H−C」「H−C−D−E−F−G」と、3度音程の順次上行は、4度、6度と拡大する。交響曲第1番の第4楽章冒頭を彷彿とさせる発想だ。
そして、このフガートの一応の結末は、リピート記号前の157小節目以降の「D−E−Fis−G」という4度順次上行の反復であり、これこそ、第1楽章第2主題に含まれていた3度順次進行の発展であると同時に、リズムとしては、運命動機(タ・タ・タ・タン)を取り込んだものであることは大書すべき事実である。ここに、ヘーゲルの言う弁証法における、正・反・合というプロセスにおける「止揚(アウフへーべン)」を象徴的に見ることができる(ただし、このフレーズはまだ予告に過ぎない。主要主題としての登場は、続く第4楽章まで待とう。第4楽章第2主題においては、これ自体が主題として中心的な存在として格あげされる。)。
さらに、この中間部は、順次上行を主張し続け(リピート記号後、低弦は、「F−G−A」「D−E−F」と3度順次上行の連鎖をつなげてフガート主題へと回帰してゆく)、最終的にハ長調において、先ほどの「止揚」動機が「G−A−H−C」という音高で念押しをする(194小節目)。その結果、第3楽章主部の再現は、運命動機が弱々しく響くのみとなり、とうとう、フィナーレの歓喜へ向けての準備は整った。
(2007.3.2 Ms)
第4楽章。当然ハ長調。
まずは、冒頭4小節。そのハ長調の宣言から。「C−E−G」と純然たるハ長調の主和音。前述のとおり、第2楽章の3回目の金管ファンファーレにおける管弦楽法と同様、和音そのものを武骨にもぶつける。この「C−E−G」は、やはり、第2楽章第2主題における、3度順次上行を2回重ねた「C−D−E」「E−F−G」の要約でもあり、かつ、第1楽章冒頭の3度下行(「無慈悲な運命」)の反行型を2回重ねたものでもある。「運命」の克服を象徴するに相応しい。そして、その後は、ひたすら、先行楽章の上昇志向の連鎖。
4小節目4拍目から、これも第2楽章金管ファンファーレに由来する付点リズムを伴って、3度順次上行「C−D−E」。続いて、第3楽章中間部で予告された「止揚」動機(運命動機と4度順次上行の合体)が3度繰り返され(「C−D−E−F」「E−F−G−A」「G−A−H−C」)、交響曲第1番第4楽章の主題と同様、1オクターヴのハ長調の音階を完成させる。
上昇指向は留まることを知らず、26小節目からホルン・木管によって新素材を導入するも、アウトラインは、「C−E−D」「D−F−E」。「無慈悲な運命」たる3度下行の反行型「C−E」「D−F」、そして2小節単位で捉えれば、「C−D−E」という3度順次上行を内包している。
そして、第2主題。44小節目から、再度、改めて、主要主題として「止揚」動機が活躍する。・・・と、ここまで随分順調にやって来たが、注意すべき現象が起こる。46小節目からは、「D−C−H−A」「C−H−A−G」「H−A−G−Fis」と、4度順次下行が連続する。上昇指向に対するアンチテーゼはまだ残存する(第3楽章主部のホルンの主題のなかにも、4度順次下行による運命動機があり(例:25小節目 「B−As−G−F」)、それを直接思わせる。)。そういった観点で、第1主題部分を見直せば、既に、8小節目の低音において、「F−E−D−C」という動きがあり、「止揚」動機の上昇の影に、その反行型が潜んでおり、さらに22小節目では反行型が前面に押し出されて、弦・木管に波及する。
第4楽章冒頭は、歓喜の終着駅ではなかった。未だ闘争は継続中である。しかし、「止揚」動機の反行型が出ようとも、常に、新たな上昇指向が主張され続けている。
ここで、第2主題に立ち戻れば、46小節目、1st Vn.で出る3回にわたる4度順次下行の背景に注目しなければならない。チェロに「G/Fis−G/A」(小節線を/で表示)という動きがある。2度下行の後に3度順次上行。へこんでも即、立ち直る。仮に「不屈」の動機とでも名付けようか。ただただ下行に甘んじているだけではないのだ。
しかし、この「不屈」は、ここで初めて登場するのではない。移動ドで階名で記せば「ド・シ・ド・レ」という動き、既に、第3楽章中間部冒頭でも、さらに遡って、第1楽章第2主題でも歌われていたもの。この3箇所ともに、ド音をアウフタクトとして共通しており、意識的な楽章間流用とみて良かろう。この第4楽章第2主題提示部分においては「不屈」の動機は目立たぬ存在だが、その後の展開で、救世主として活躍する大事な役割となる。
さて、第2主題において、順次下行が主題に紛れ込むものの、そのたび4度順次上行が応酬し(52,54小節)、決して上昇指向の優位は揺るがない。さらに提示部のコデッタ(小結尾)が64小節目から始まるが(第2主題部分の後半に相当するが独立した存在感を持っていて、第3主題とも言えるが、ここではコデッタと呼んでおくが)、やはり、4度順次下行(G−Fis−E−D)を中心に据え、4度順次下行の主張も簡単に弱体化しないのだが、このコデッタにおいては、その4度下降の最低音が3度叩かれて、4度上行する。つまり、全曲の冒頭に掲げられた3度下行の運命動機(「無慈悲な運命」)を跳ねのけるエネルギーがここに象徴的に表現される。このエネルギーは、将来、フィナーレのコーダ(プレスト)で、より明瞭に聴き取れよう。
上行と下行が入り乱れつつも上行優位の提示部から展開部に突入するや、今までの長調主導の和声が変化し不安さを増す。それに伴い、下行の勢力も増す。それに対抗するのが、「不屈」の動機である。91小節目以降、低弦を中心に聞き取れるが、112小節目以降、この楽章から参加するトロンボーンが初めて主導的な役割として、この「不屈」の動機を高らかに吹奏する(「Des/C−Des/Es」「Es/D−Es/F」)。すると、同音連打による運命動機も最後の必死の抵抗を続けるかのようだ・・・が4音の動機が最終的には3音のみになって、まるで空中分解、そして、ハ長調に戻って、管楽器が「不屈」の動機が本来の音高(「C/H−C/D」)で再現、1音づつ着実に上昇してゆく(「D/C−D/E」「E/D−E/F」「F/E−F/G」)。ここに、3度順次上行がかつてないほどに強調され、上昇指向の勝利は確実なものとなる(なお、この部分こそ、ショスタコーヴィチの第5番のフィナーレのコーダが模倣したであろう箇所。3度順次上行の1音づつの上昇である。・・・ただし、ベートーヴェンにおけるここまでの道程を踏まえての必然が、ショスタコーヴィチにおいては感じられるかどうか?先行楽章に伏線が存在するのか?という問題が生じる・・・この点はまたの機会に)。
その後は、第3楽章の弱々しい再現と、第4楽章主題提示部の定石どおりの再現が続く。
なお、再現部におけるコデッタには294小節目以降、今述べた展開部における「不屈」の動機の1音づつの上昇が再現され、曲を結ぶ、と見せかける。和音打撃の連続の後に、ふいを突いて、26小節目以降のホルンの主題が変化して再現、当初の「C−D−E」という動きは「C−E−G」という楽章冒頭の動きを思わせる音程関係へと変容。さらに、これまたフィナーレから参加のピッコロにも単独の活躍の場が与えられ、純粋なハ長調の上昇スケールを装飾的に鳴らして、上昇指向の念押し。
そして、コーダに突入。プレストに速められて362小節目から、コデッタ主題を繰り返し、前述のとおり、4度上行する運命動機を強調させる。ここの「G−G−G−C」という「無慈悲な運命」を跳ねのけるような、4度上行の運命動機、実は、これも第1楽章第2主題の低音部に存在していたことは書き加えておこう。特に再現部においては、まさに同じ「G−C」という音高で、それもティンパニに一部担わせていた点、印象に残る箇所だ。第1楽章第2主題再現と、第4楽章コーダが密接に結びつく証左として追加しておく。
最後は第1主題のカノン、そして、「止揚」動機の連続・・・あとは、和音打撃ばかりによる強烈な終止部分。
・・・と、かなり詳細に追ってみました。ベートーヴェンの「運命」と言えば、とにかく「運命」動機、ジャ・ジャ・ジャ・ジャーンが突出して有名で、この動機が全曲を通じて登場して楽曲の統一を果たす、と解説され、まさにその通りではあるのだが、それ以上に、そのジャ・ジャ・ジャ・ジャーンに含まれる「3度下行」に対する、抵抗としての「3度順次上行」、そしてその発展型である「4度順次上行」が、楽章を追って主張を強める、という全曲を通じた綿密な構築をこそ、評価しなければならないでしょう。
その過程で、第3楽章中間部では、「運命」動機が4度順次上行と結合し(本項で言うところの「止揚」動機)、弁証法的な発展を見出せる点はおおいに重要でしょうし、第4楽章においても、「運命」動機が4度順次下行と結合したエセ「止揚」動機との闘争が、「不屈」の動機の登場によって解決に至るなど、計算され尽くした展開ゆえの説得力ある構成は見事としか言いようがない。
ここで、最後に強調したいのは、やはり(くどいようだが何度でも言おう)、第1楽章第2主題の重要性である。ここに、3度順次上行、そして「不屈」の動機が用意され、楽曲の結論を決定づけているのだ。さらに、第2主題再現がフィナーレの調性を初めて確立させる箇所である、という点もあわせ考えるなら、第1楽章第2主題再現とフィナーレが(他の部分同士の関連性に比較し)特別に関係にあることは明らかでしょう。・・・このポイントこそ、ショスタコーヴィチの第5番を考える際に、私が重要視したい事実なのだ(ただし、このポイントをさらに他の作品においても検証した上で、ショスタコーヴィチ論に戻ろう)。
最後に、本項をまとめるにあたり、<1>で紹介させていただいた、土田英三郎氏の解説は大変参考になりました。感謝の念を表します。ありがとうございました。
(2007.3.7 Ms)
「余談」
あらためて、「運命」を洗いざらい楽譜に目を通し、こんなにも精緻に造型された音楽作品は他に類例を見ないことに驚喜し、感動の中にこの一文を書きあげた。第3楽章中間部の「止揚」、そして、第4楽章においてなおも継続する闘争、そして意外な場所からの援軍(「不屈」の動機)による勝利。こんなエキサイトさせる楽譜はない。あまりに偉大である。奇跡と言えるほどの完成度を誇る作品だ。
さて、この勝利の過程、かつて私はチャイコフスキーの第5番の曲目解説で、「水戸黄門」や「ウルトラマン」に例えて表現したことがあるが(「曲解」に関するMsからのお知らせ)、今回、第4楽章に、エセ「止揚」動機という概念を設定した時にふと、ウルトラマンやウルトラセブンを思いだし、一人、ニヤリとしてしまった。
第4楽章冒頭における勝利は、完全な他者に対する勝利と言えようか(「運命動機」を、「順次上行」が打ち破る。)。
しかし、第4楽章の提示部そして再現部における闘争は、似た者同士の闘いである(共に「運命動機」をリズムとして持った、「4度上行」と「4度下行」との闘いである。)。まさに、「にせウルトラマン」や「にせセブン」との闘いの様子が頭から離れなかった。しかし、弁証法とは、こういうものだ、という認識を新たにさせてくれる良い機会となった。バルタン星人を倒した経験を持ったウルトラマンが、さらに「にせウルトラマン」を倒すという行為、これこそ、「正反合」というプロセスであり、「止揚」アウフへーベンそのものではないか!!!(特に「にせセブン」の方は、セブンの闘いぶりを研究した上に造られたロボットという設定ではなかったか。まさに、自らを否定するものを否定する、自らの弱点を克服して高次の存在へと昇華するのだ。)乱暴な理解だが、もしも私が社会科の先生だったなら、こうやって教えようか・・・。
(2007.3.9 Ms)
<4> ベートーヴェンの交響曲第9番
かなり興奮して第5番に取り組んでしまった。今後はあっさりと行こう。
さて、今まで見て来たようにベートヴェンの第5番ほどに、多楽章形式の各楽章の連関が緻密に作り込まれた作品は他にはなかろう(バッハとかシェーンベルクあたりにあるかもしれないが、私の守備範囲にあらず)。今回取りあげる、これまた大傑作たる第九(第9番と言うよりは、固有名詞として「第九」とここでは表記したい)においても、主題の発展・楽曲統一という観点で、いかなる仕掛けが仕組まれているのか?
ただ、何しろ、第4楽章冒頭で、あからさまに先行楽章を否定してしまう発想が強烈なわけで、第1番、第5番ほどの楽章を追っての発展性は、主眼になかっただろうか。いや、そうとも言えまい。さすがベートーヴェンである。当然、単なるオムニバス形式ではないだろう。
まず、全曲の結論は何か。もちろん、第4楽章、歓喜の合唱。ニ長調。旋律線冒頭を抽出すれば・・・「Fis−G−A/A−G−Fis−E/D」(初出92小節目)。
そして、ニ短調を主調とする第九。第1、2楽章がニ短調で、第3楽章が変ロ長調。これら、先行楽章に、ニ長調はいかに存在しているか。
第1楽章再現部における第2主題再現(339小節目以降)。
第2楽章中間部(414小節目以降)。
第3楽章第2主題提示(25小節目以降)。
と、第5番同様、先行楽章全てにニ長調は存在する。では、それらの旋律線は・・・
第1楽章341小節目・・・「Fis−G−A/A−G−Fis−Fis−E−D」。ホルンによる。
第2楽章414小節目・・・「D/E/Fis−G−A/G−G−Fis−Fis/E−D」。木管による。
なお、同様の旋律線は、同じ音高で、438小節以降、ホルンで。475小節目以降、ヴァイオリン・フルートで。
491小節目以降、ヴィオラ・チェロで。
と、ここまでは、歓喜の合唱の「Fis−G−A−G−Fis−E−D」という動きが、そっくり同じように予告されている。
しかし、第3楽章においては、その形跡が見あたらない。また、第3楽章は、第5番の第2楽章と同様に、2つの主題を持つ変奏曲形式による緩徐楽章で、第2主題に、フィナーレの主調が採用されている点は共通するが、第九においては、この第2主題は次の変奏部分(65小節目)ではト長調となり、ニ長調への執拗なこだわりはない(第5番においては、ハ長調のファンファーレのこだわりが強い)。
つまり、第九は、第5番に見られた、歓喜のフィナーレに向けての伏線が、各楽章に徹底されていない・・・と結論づけて良いのか?確かに、第1楽章の第2主題として挙げた箇所にしても、第5番の第2主題(3度順次上行)のような重要性が第1楽章の中では感じられない。フィナーレに向けて張られた最初の伏線にしては、存在感が薄くないだろうか。
ここで、前提が誤まっていたことに気がつくはずだ。
(2007.3.12 Ms)
全曲の結論は、実は、「歓喜の合唱」そのものではなく、594小節目からの3/2拍子による壮大な讃歌をも含めた、654小節目からの両者の結合にこそ存在する、のである。我が手元にある全音楽譜出版社の、諸井三郎氏による解説も、以下の文言を締めくくりとしている。
以上で終楽章の分析を終るのであるが、このように分析してみると、それがきわめて少ない素材からできていることがわかる。すなわち、それは基本的に二つの素材からできており、(例34)※に示したものと(例42)※に示したものがそれである。これら二つの主題は、いずれもきわめて単純な律動及び線形を持っており、決して複雑なものではない。しかもそれはその中に無限の発展の可能性を包含している。このような単純な、しかもわずかな主題から、1000小節にも及ぶような大曲を仕上げるということは全く驚嘆するほかはない。かくてこれらの二つの主題が、それぞれ呈示され、また展開された後、第七部※において総合せられるとき、私たちはベートーベンの偉大なるアイディアに全く圧倒される。ここにこの曲のクライマックスがあり、中心がおかれている。そしてこの部分は困難なる二重対位法を技法を駆使して、雄大なるフーガ的展開を繰り広げているのである。私たちはこの楽章において、ベートーベンが人間としてまた作曲家として到達した、高さと広さと大きさとがいかなるものであったかを十分に知ることができるのである。(後略) |
※について補足するなら(くどく申しあげずともおわかりいただけるとは思うのだが)、ここに言う、(例34)は、92小節以降(「Fis−G−A/A−G−Fis−E/D・・・」)であり、(例42)は、595小節以降(「G−G/Fis−D/E−E/D−H・・・」)であり、第七部とは655小節以降である。
ということで、この作品の結論として、もう一つの主題(讃歌)を加えた上で、先行楽章との関連を検証しよう。655小節以降、ニ長調として現われる讃歌の旋律線「D−D/Cis−A/H−H/A−Fis/G−G/Fis−D/H−H/A」も、先行楽章において予告されているのか?
それが、直接的には見つからない・・・。しかし、もう一度、交響曲第5番においてと同様、フィナーレへの布石たる第1楽章第2主題をじっくり眺めてみれば・・・。
さきほど、341小節目の旋律を第2主題として掲げたが、実は、第2主題として定義すべきは、345小節目以降の旋律であることにまず気付く(前述の諸井氏の解説においてもそう分析されている。341小節目の旋律は、第2主題そのものではなく「推移」として位置付けている)。
展開部の最後においても(275小節以降)、短調で登場し展開される主題であり、第1楽章内部だけにおいては、341小節目以降の旋律より重要なものであろう(「Fis−H/A−D/Cis−G/E−H/A」・・・ここでは再現部におけるニ長調の旋律線を挙げている。)。4度の上行と2度の下行を基本として若干の変更を加えたものと分析できる。なお、この4度上行は、第1楽章第1主題で重要な動機となる4度下行(主題提示の冒頭17小節目アウフタクトからのD−Aという4度)の反行であることにも留意しつつ、まずは、この主題が、第3楽章の主要主題を形作ることが認識できる。すなわち、
第3楽章第2主題(25小節目以降)を要約すれば、「Fis−E/G−Fis/A−G/E−D」となり、まさに2度の下行が中心に据えられている(なお、第3楽章の冒頭も、この動機の累積に他ならない。第1楽章第2主題の影響下にあることを匂わす開始方法ではないか)。
遡って第1主題(3小節目以降)に注目すれば、まず、バス声部(チェロ)が、「B−Es/D」と、4度上行→2度下行であり第1楽章第2主題の発想をそっくり引き継ぐ。次はその反行形が続く「D−A/B」。そしてその上に乗る旋律は、まさに、この冒頭バス声部の反行形(4度下行→2度上行)の連続である(「D−A/B−F」)。
この4度下行→2度上行の連鎖こそが、第4楽章の讃歌「D−Cis−A」「H−A−Fis」「G−Fis−D」に内包(「D-A」「H-Fis」「G-D」)されているもので、讃歌の主題の骨格を成す動きである。上記<2>の項において交響曲第1番の解説の際に冒頭で紹介したレティ氏著作の分析方法に則るなら、「D−A」の充填化ヴァージョンとしての「D−Cis−A」ということになろう。
整理するなら、第1楽章第2主題の、4度上行→2度下行という動きは、まず、第3楽章第1主題のバス声部に生かされ、その反行形が第1主題の旋律を生む。そして、2度下行というエッセンスを中心に第2主題が形作られる。さらに、第3楽章第1主題の旋律線を発展させたものこそが、第4楽章の讃歌の主題となり、同じく先行楽章(第1楽章第2主題への推移、第2楽章中間部)で予告されていた「歓喜の合唱」との統合が図られる、という構図である。
ここに、やはり、第1楽章第2主題の作品全体に及ぼす影響力の大きさをまざまざと実感させられる。
交響曲第5番とは違う形ながら、つまり、第1楽章第2主題部分に2つの種子を蒔き、それぞれが、中間楽章及び第4楽章前半で独自の発展をみせ、第4楽章後半において結合する、という高度な作曲技法によって、作品の結論を揺るぎないものとしているのだ。
素人目には、第4楽章冒頭で、先行楽章を否定したうえに突然、歓喜はやってくるようにも見えてしまうが、決してそんな単純な話ではない。第1楽章のほとんどを覆う重々しく深刻な状況を打破するために、計算された伏線がフィナーレに向けて張り巡らされ、そしてその最も重要な動機が、第1楽章第2主題に存在していることを今一度、認識せねばならない(その上、再現部において、全曲の結論たる調性を先取りし、さらに第1楽章第2主題の存在の重要性を主張させてもいるわけだ。)。
以上見て来た、ベートーヴェンの「第5番」及び「第九」を前に、後継者たちは、さらに自分なりの「運命交響曲」の創造にチャレンジしている。重苦しい短調で開始され、長調で華々しく終えるプロットを備え、第1楽章に提示された「運命」を克服すべく、いかにフィナーレに向けて用意周到に構成させてゆくのか?
それをテーマに語る時、まず第一にチャイコフスキーを触れる必要があろう。本人も充分に意識して「運命」を交響曲のテーマに据えた、4,5番の2作にも、今まで述べた第1楽章第2主題の重要性が認められるのかどうか? これを見極めたうえで、さらにベートーヴェンとチャイコフスキーを意識せざるを得ない状況で20世紀における(マーラーあたりに言わせれば時代遅れな)「運命交響曲」にチャレンジした、ショスタコーヴィチの第5番の姿を見なおしてみたい。
ああ、やはり、あっさりとは書けないのが私の無能さよ。次はページを替えましょう。(2007.3.16 Ms)