第4回 その2  

ショスタコーヴィチ理解のための、先人達の「運命」克服プロセス解読
〜 ベートーヴェンとチャイコフスキーを中心に 〜

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 只今、ショスタコーヴィチの交響曲第5番の解読を1年かけてなお途上ながら続行中でありますが(2007年4月現在)、その考察を続けるにあたって、やはり、社会主義リアリズムという創作上の枠を思うとき、ベートーヴェンチャイコフスキーの、一連の「運命交響曲」(短調→長調・「暗黒から光明へ」)との比較ははずせない観点だと常々痛感していたところ。ここで、いかに、先人達の「運命交響曲」が構成され(いかに「運命」が克服され「歓喜」を勝ち取るか)、さらに、ショスタコーヴィチに影響したかを考えておこうと思います。
 
ショスタコーヴィチの第5番を考える上での前提をここに提示するとともに、その第5番の論考終了後手掛ける予定の第7番「レニングラード」にも、この先人達の「運命交響曲」との比較が必要と思われるため、その第7番も視野に入れた形で、この項を書き進めたい、と目論んでいます。さて、うまくいきますかどうか。

<5> チャイコフスキーの交響曲第4番 

 今まで、ベートーヴェンの第5、9番の交響曲(第5番の先駆としての第1番も含め)を例に、作品の結論たるフィナーレの主題が、いかに先行楽章で予告的に現われ、発展し、フィナーレを必然として導いているかを見て来た。
 その中で、「暗黒から光明へ」というスタイルの交響曲においては、短調を主調としながらもフィナーレで同主長調を採るのだが(ハ短調がハ長調に、という具合い)、同主長調を採る初めての部分が、第1楽章第2主題の再現であって、その部分にフィナーレを予告する要素が含まれている点も検証してきた。
 また、ベートーヴェンにおいては、その同主長調の部分が、第1楽章以降、必ず各楽章に重要なセクションとして存在していることも明らかにしてきた。

 さて、それらの特徴が、チャイコフスキーの一連の「運命」交響曲(つまりは、第4,5番)にも見られるのかどうか、みてゆきたい。

 イントロダクションは交響曲全体の核であり、疑いなく主要思想です。
 それは、運命です。
それは、幸福になりたいという思いを叶えるのを妨げ、
陰りのない完全な幸福や安らぎを与えまいと嫉妬深く見守り、
(中略)いつも変わることなく心に害悪を与え続ける運命的な力です。

(1878.2.17 メック夫人あて書簡)

実を言うと、私の交響曲は
ベートーヴェンの交響曲第5番の模倣なのです。

(1878.3.27 タネーエフあて書簡)

 「文学遺産と同時代人の回想 チャイコフスキー」サハロワ著、岩田貴訳(群像社)より

 以上の、第4番に関する作曲者自身の言葉から、「運命」交響曲たる側面は明らかである。第1楽章の冒頭で、ベートーヴェンと同様に「無慈悲な運命」が宣言され、その圧倒的な支配の下に第1楽章は置かれている。そして、その運命からの脱却を、中間楽章を経て、フィナーレにおける楽天的エネルギーの爆発と共に果たす。ただし、第4楽章後半に第1楽章冒頭の「運命」主題は再現され、しかし、それを否定するエネルギーがさらに充溢して、作品を熱狂のうちに閉じる。・・・と、簡単に言えばそれまでだが、それ以上に、この作品が、ベートーヴェンの「運命」交響曲の模倣である側面を指摘してゆきたい。

 まず、この作品の結論は何か。第4楽章冒頭から炸裂し続ける楽天的エネルギー・・・さて、その根源は何か。

 第4楽章。自分には喜びのモチーフが見付からないなら、他人に目をやればいい。民衆の中に入っていけばいい。彼らが喜びに溢れた感情に身を委ねながら、いかに楽しむかを見ればいい。民衆の祭日の楽しみの光景。(後略)

 これも、上記同様、メック夫人あて書簡からの抜粋である。この言及と、第4楽章におけるロシア民謡「白樺」の引用とを結びつければ、当時のロシアのインテリ層の思想「ヴ・ナロード」(人民の中へ)が、色濃く作品に反映していることが言えよう。そして、この民謡「白樺」によって導かれている、フィナーレの主題こそが、この交響曲の結論と言えよう。
 つまり、「白樺」の素朴な旋律線は、5度の順次下行及び4度の順次下行(最初の主題提示、10小節以降では、E−D−C−H−A及び、D−C−H−A。イ短調として提示。)が中心的な動きとなっており、この2つの要素をへ長調の中に張り付けたのが、冒頭の怒涛のうねるようなスケールであり、これが第4楽章の主要主題となる(1小節目でF−E−D−Cを最大限に強調しているのを始め、4度と5度の順次下行が連続し、主要主題を形作る。)。

 ここから順番に遡ってゆこう。第4楽章のへ長調は、すでに第3楽章でも主調としてゆるぎなく確立している。そして、何ともわかり易いのだが、第3楽章冒頭、ピチカート主題は、まさにF−E−D−Cそのもの。金管楽器による主題も、変ニ長調でDes−C−B−As(170小節)。同じ発想による主題造型となっている。

 第2楽章は、主調は変ロ短調。中間部はやはりへ長調(126小節)。そして、さらにこれまたわかり易く、F−E−D−Cであり(クラリネット・ファゴット)、その後も延々、4度順次下行ばかり。ちなみに、第2楽章冒頭のオーボエによる主要主題も、Des−C−B−Aと、4度順次下行(半音せばめられている形だが)。

 と、ここまでは、かなり明瞭な形で、へ長調及び4度順次下行のオンパレード(いきなり「音パレード」と変換されて笑い)。しかし、肝心の第1楽章がわかりにくい。が、まずは、へ長調探し。やはり、第2主題再現に聞かれるのは定石どおり。ただ、このチャイコフスキーの例では、第2主題部が大きく2つの部分から成っている。すなわち、再現部において追って行けば、283小節から第1主題が主調へ短調で、短縮されてのコンパクトかつダイナミックな再現(クライマックスを形成)、そして295小節から第2主題、まずニ短調で付点リズムが特徴的なファゴットの独白。その背後にホルンがオブリガートを摺り寄せてきて、301小節でそのホルンに現われるモチーフをもとに、313小節から第2主題部の第2部分が始まり(ティンパニの伴奏による、ヴァイオリンの旋律)、ここからがへ長調。ここに、ベートーヴェン2作と同様、フィナーレの主調が先行各楽章で発見・・・しかしながら、4度の順次下行は一見にして見当たらず、フィナーレへの伏線という観点では謎が残る。しかし、第2楽章以降、あれだけ明瞭な形で頻出しているわけで、何もないわけはなかろう、と推測しつつ、もう少し第1楽章の詳細を追う必要がある。

(2007.4.16 Ms)

 第1楽章の冒頭、「運命の主題」が高らかに宣言された後、27小節から、モデラートの主部が開始され、ソナタ形式の提示部、第1主題提示となる。そこに、この交響曲全体を解く鍵がある、と私は見る。
 旋律線をおってゆこう。同じ音の連続は省略。主調、へ短調での提示。
 Des−C−H−B−Asとまず下行し、再び、Des−C−B−Asと下行。確かに、今話題としている4度順次下行は存在する。そして、それは偶然ではないだろう。最初の下行も、Des−C−B−Asという順次下行の途中に半音階の進行を織り交ぜたものだし、さらに続きも見れば、B−As−G−Fという動きもあり、この主題造型の発想の底辺に、4度順次下行が明瞭に意識されていたことは断定して良かろう。しかし、主題提示の冒頭を見ればお気づきのとおり、半音階進行を取り入れ一瞬それ(4度順次下行)が判然としないような趣向となっている。そして、その半音階の下行(Des−C−H−B)が第1楽章において一定の重要性を担っていることが順にわかってくる。
 すなわち、まず、この第1主題が70小節でイ短調によって確保される背景に息の長い下行半音階が木管で強調され、続いて旋律線までも下行半音階と化す(72小節)のを筆頭に、第2主題(116小節以降・変イ短調)においても強迫観念の如く下行半音階がクドイほど現われる。
 第2主題の第2部分(134小節)はロ長調となり穏やかな表情をかいま見せるが、常に第1主題が顔を覗かせ(136小節)、やはりそれは下行半音階である。このロ長調の部分は次第に高潮し楽天性を爆発させるが、そこにも割り切れない思いが残存しているかのように、不安定な下行半音階は強調され続ける(165小節以降、179小節以降、185小節以降・・・この185小節は、第1主題冒頭に対応するもの)。
 展開部の詳細は省略するが、ここにも半音階の進行は多用され、運命の動機の闖入とあわせ、波乱を呼び起こし続ける。
 再現部は、極端に第1主題部が短縮されているのは前述のとおり。そして、第2主題部の第2部分が例のへ長調である。概ね提示部と同様に進行してゆく。ここでは、やや詳しく音型を見ておこう。
 313小節から始まるこの部分において、やはり下行半音階は目立ち、315小節始め第1主題冒頭が再三現れる。そして340小節以降、提示部と同じく、楽天性の爆発、となるが、この最初の動きにまず注目、C−D−A−B−Cという動きが2回繰り返される。4度の順次進行と決して無関係ではない動きだが、これは、第4楽章の主要主題の一つとして現れる(初出39小節以降)重要な旋律線である・・・この部分におけるフィナーレへの伏線は、多分にベートーヴェン的だ・・・「運命」交響曲における第2楽章のファンファーレが歓喜の前兆として存在していることを想起させる趣向と私は見ている。
 その次に(342小節)、1オクターヴにわたる下行半音階があり、これは、へ長調における、C−B−A−G及びF−E−D−Cという2つの4度順次下行を骨格としているものとも解釈できよう。
 そしてこの部分の最後に(348小節)、F−E−D−C、Des−C−B−A、B−A−G−Fという4度順次下行がやはり半音階進行として念押しされている。その後はへ短調に戻ってコーダとなる。

 と、ここまで見て来たように、へ短調の第1主題の中に、そもそも4度順次下行は内在しているが、半音階で巧みにその正体をあらわにはしていない。そして、第2主題部の第2部分の再現(313小節以降)において、交響曲全体の結論となるへ長調の中に、4度順次下行が半音階進行としてさりげなく挿入されている。また、第4楽章の主題の萌芽となる動き(C−D−A−B−C)も発見できる。
 やはり、この作品においても、第1楽章第2主題再現において、フィナーレの調性が初めて確立され、また、フィナーレへの伏線が準備されていることがわかる。

 ただ、ここで、注意しておきたいのは、第1楽章においては、まだ、後続楽章で明らかとなる交響曲全体の主題、F−E−D−Cという4度順次下行は、(348小節でずばり表現されているが、)F−E−Es−D−Des−Cという半音階という姿に過ぎない。それだけ、第1楽章における半音階の勢力の強さを反映したものとなっているが、それを受けて続く第2楽章の中間部を改めて見てみよう・・・、F−E−−D−−Cという旋律線であることが必然として理解されるはずだ。
 つまり、第1楽章第2主題においては、F−E−Es−D−Des−C
 第3楽章冒頭は、F−E−D−C
 ・・・お分かりいただけますか、進化の過程。半音階が全音階に進化する過程として、寄り道となっている音(Es,Des)の替わりに本来の音(E,D)を置き換えたのが第2楽章の主題なのだ。
 要約すれば、第1楽章の半音階進行が、第3、4楽章において全音階進行へと、より健全な、素直な長調を感じさせる形へと進化しているわけだ。
 (ただ、その過程は単純な一本道ではなく、第2楽章冒頭の、Des−C−B−Aという最後の音の歪み<最後の音がでなくAsとなれば純粋な4度の進行となる>が、第4楽章の展開の中で151小節以降、C−B−A−Gisという形でも再現され、第4楽章においても民謡の素直な旋律線と対峙する苦悩が付きまとっていることにも留意しよう・・・その葛藤故に第1楽章冒頭の運命の主題は第4楽章後半で再現されよう。そして、その後のコーダで、それを克服する民衆のヴァイタリティが最高潮に強調されることにもなる。)

 ここまで分析しての私の憶測・・・交響曲全体の主題として、4度順次下行を設定したうえで、この作品は構想され、まず、ロシアのインテリの苦悩として、第1楽章は短調の中に4度順次下行を半音階的に旋律化させている。その旋律線は、楽章を経て、下行半音階の束縛から解き放たれて、全音階的進行へと進化する。そして、第4楽章において、その全音階としての4度順次下行が、民謡「白樺」と一体となる。つまり、インテリが民衆へと溶けこんで行く・・・。不健康、不安定な、短調の半音階が、長調の半音階、そして長調の全音階へと健全さを増してゆくのだ。
 メック夫人への手紙での言及は、F−E−D−Cという音型の楽章を追っての変容・進化を見ることでも証明されるというわけだ。チャイコフスキーの作曲スケッチ帳があるのなら、きっと、これらの発想が作品の中心主題として最初に設定されているのではないか、その基本設計から各楽章の主要主題がまず生み出されている過程が見えてくるのでは・・・と曲解してしまう私であった。

 それはともかく、第1楽章第2主題再現が、フィナーレのあり方に最初の方向付けを行い、重要な伏線を内在させていることが証明できたのではなかろうか・・・。

 この論考を書きながら、私の、このチャイコフスキーの交響曲第4番の演奏体験を思い出す。才気あふれる若手指揮者との、幸福な一時であった。その指揮者は、第1楽章冒頭のホルンのファンファーレに対して、威圧的でなく、貴族的なニュアンスを要求した。当時、荒々しさをこの冒頭にも感じていた私にとってはやや意外な表現ではあったが、いざそのように音が鳴った時、決して違和感はなかった。そして、今、この作品に改めて取り組み(第1楽章第2主題再現の重要性を検証する論考なのだが)、作品全体を「ヴ・ナロード(人民の中へ)」というプロットとして理解することに確証を得た段階となり、かの指揮者の要求が的を得たものであることが再認識できた。ロシアのインテリ階級における苦悩、という大前提を的確に音楽化させていたのだなあ、と。
 その指揮者の名は、山田和樹氏。彼への感謝の念を捧げつつ、この論考の筆を置こう。

(2007.4.30 Ms)

 


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