第3回補論

家庭人 ショスタコーヴィチの選択

〜交響曲第5番に聴く「愛の旋律」?〜
(補論)

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<4> ガリーナの誕生と「祝典序曲」

 前章までにおいて、娘ガリーナの誕生(1936.5.30)が、ショスタコーヴィチの創作に与えた影響をいろいろと考えてきた。そこで、最後に、交響曲第5番からは、大きく逸脱するが、彼が、娘に捧げた作品を取り上げてみよう。そこに、彼の娘への思いが見えてくるかもしれない。

 その作品とは、作品69の「子供の音楽帳」である。ガリーナの9歳(1945)の誕生日のために作曲された7曲からなるピアノ小品集である。
 しかし、この作品は長らく6曲だと思われていたのだ。その辺りの事情は以下の引用のとおり。

 前回出版された「ピアノ小品集」では、6曲だけだったが、それは1945年ソビエト音楽基金により出版された折、第7曲が入っていなかったことと、残されている2つの自筆譜にはこの曲がなく、手書きの複写だけが現存するなどの理由によるものである。しかし、作曲者自身の作品目録では、第7曲「誕生日」は作品69のなかに入っている。(この本では1983年のソ連版を基準としている。)

全音楽譜出版社 「ショスタコービッチ ピアノ作品集」楽曲解説より

 つまり、何らかの理由で、第7曲「誕生日」は、ショスタコーヴィチの死後まで出版されなかったのである。
 単なるミス、ということも考えられるだろうが、素直にこの事実を見れば、この作品が、彼にとっては娘に捧げた私的な作品であり、特に第7曲は、その名もずばり「誕生日」であり、出版して広く知られるよりは、娘だけの為に取っておきたい、と考えたように思えるのだが、さてどうだろう?
 そこで、この「誕生日」なる曲、弾いて聴いてみてびっくり。3/4拍子、イ長調、そして、旋律、ハーモニーが「祝典序曲」の冒頭ファンファーレと同じなのだ。またまた、発見された引用の謎!! この2曲を結ぶものは一体何だろうか?

 ここで、「曲解」に突入する前に、「祝典序曲」についても触れておこう。
 私自身、中学1年より、吹奏楽部に入部し打楽器を始めたのだが、その中学1年の夏、始めて(私が入学することとなる)高校の吹奏楽部の定演を聴きに行き、後々までその感動を心に留め、音楽的知識なしに心惹かれた作品に始めて出会ったのだ。それが「祝典序曲」であり、その感動体験から、私のショスタコーヴィチ巡礼は始まったのだった。
 私の経験を持ち出すことなく、「祝典序曲」は、吹奏楽曲にも編曲され、ブラス関係者を始め、多くの聴衆に親しまれている人気曲だ。
 しかし、その作曲過程については、いまいち不明な点がある。各種文献でも不一致が見られる。その情報を整理しておこう。

 全音楽譜出版社 ポケットスコア の解説によれば、

第10交響曲完成の翌年である1954年、第37回革命記念日のために党中央委員会から委嘱を受け作曲、
同年11月6日、(中略)初演された。また、この作品は1952年のヴォルガ=ドン運河開通に捧げられたとされている。

 春秋社 ショスタコーヴィチ大研究 のオーケストラ曲 ジャンル別曲目解説では、

1952年のボルガ=ドン運河開通を祝って作曲された、どこまでも明るく疾走するような軽さが印象的な名作。

 しかし、年譜作品リストにおいては、1947年の作品(1954年初演)とされている。

 音楽の友社 作曲家別 曲目解説 ライブラリー「ショスタコーヴィチ」では、作曲が1947年と紹介された上で、

第30回目の革命記念日を祝うこの「祝典序曲」もまた、ソヴィエトの偉業を讃え喜ばしい雰囲気に溢れた明るい作品である。
(中略)初演は、1954年11月6日、(中略)おこなわれた。

 音楽の友社 ショスタコーヴィッチ(井上頼豊著)の巻末、作品表には、

作曲年代は1954年で、曲名は「交響管弦楽のための祝典序曲(ヴォルガ・ドン運河完成にささげる)」と記されている。

 初演が1954年であることは共通しているが、作曲年代にズレがある。
 初演の直前に作曲され、完成後すぐさま初演されたのか、作曲はしたものの7年間放置されていたのか?一体どちらだろう。
 そこで、私の判断なのだが、1947年の説をとるなら、この祝典序曲は、革命30周年のための機会作品となるのだが、それでは、なぜその年のうちに初演されなかったのか。確かに、革命10周年交響曲第2番20周年交響曲第5番40周年交響曲第11番50周年交響詩「10月」と作曲されているが、30周年にだけ、その記念作品がない。それ故に、30周年のために作曲されたと言う説も受け入れられる余地は有りそうだが、ただ、その年に初演されなかった理由がはっきりしなければ、やはり私には受け入れがたい。押しも押されぬ国民的作曲家の彼の機会作品がお蔵入りになるとは考えにくい。
 それに、彼が、個人的に、そんな作品を頼まれもしないのに、作曲しておいたのだろうか?1947年は、ジダーノフ批判の前年。彼は、バイオリン協奏曲第1番に専念していた時期だ。批判後に、社会主義リアリズムに沿った健康的な祝典序曲を作曲したのなら、まだ理解できるが、彼に危機が訪れる前の時期であることを思えば、やはり、1947年説に説得力を感じにくい。
 そして、すでに作曲されていたのなら、なぜ、ジダーノフ批判後、名誉回復の為に、何かの口実を設けて(革命記念日やら、党大会の開会やら)、早速、発表しなかったのだろう。
 なお、作品番号も96であり、あえて、1947年に遡った番号になっていないことも指摘しておこう。(前述のバイオリン協奏曲第1番は1948年完成、1955年初演、作品番号77である。)

 というわけで、1954年に作曲された「祝典序曲」という位置付けで話を進めさせていただきます。
 さて、娘に捧げた「誕生日」で華々しく開始されるこの「祝典序曲」、主部プレストに入って第1主題が、これもまた引用である。ジダーノフ批判に答えて作曲された、オラトリオ「森の歌」(1949年完成)の第5曲「スターリングラード市民は前進する」のテーマだ。ここで、この作品が、運河の開通に捧げられたことを思わせる仕掛けになっている。「運河の開通」と「緑化運動」は、それぞれ自然改造の一環であり、密接な関係を持つ。そして、その第5曲の歌詞においても、「ヴォルガ」の名は何度も出てくるのだ。
 この「スターリングラード」主題は、主題提示においてまず、クラリネット、そして、バイオリンで軽やかに、さらには、トロンボーン・チューバ始め低音楽器で音価を拡大して堂々たる姿で提示され、かなり重要な役割を負っている。
 そして次に、ホルン・チェロによる、なだらかに歌うような第2主題が提示される。
 静かなピチカートで開始される中間部は、ソナタ形式の展開部に相当するが、直接、前掲の主題を使用せず、新たな主題も登場し、それほど長くはない。
 再現部は、弦によって第1主題が再現、間髪入れずに、金管による第2主題と、弦・木管による第1主題が結合し、大きなクライマックスを築く。さらに、精力的に第2主題は歌い継がれるが、突然シンバルの衝撃と共に、「ジャズ組曲第2番」第3曲(第1ダンス)のコーダとそっくりな部分が現れる。
 その後は、提示部の素材(第1、第2主題以外の)、中間部の素材をつなぎつつ、冒頭ファンファーレの回帰へと導き入れる。
 「誕生日」のファンファーレは、バンダも加入して壮大な賛歌となり、最後は再びプレストとなって第2主題が再現し、曲は閉じられる。

 ざっと、見てきたところ、気づくことがある。「スターリングラード」主題の扱われ方だ。
 第1主題として、重要な役割を負っている、と思わせながら、実は、中間部で展開されず、再現部でも一度再現されたと思いきや、即第2主題と結合、伴奏的立場に追いやられ、それ以降、まったく登場しなくなっている。
 主題の展開、再現という扱い方から見るなら、この作品、一応、ソナタ形式の型にははまってはいるものの、あえて、後半部分では第1主題がおろそかに扱われているとは言えないだろうか?そして、その第1主題こそは、「スターリングラード市民は前進する」からの引用なのだ。何か、意図的な構成、と考えてしまいたくなるのだが、いかがでしょうか?

 この辺で、ガリーナの話に戻ろう。
 父と娘の間だけの、ささやかな愛の結晶、とも言える「誕生日」という作品が、あえて出版を控えたとされるのなら、なぜ、父は、革命記念、もしくは運河の開通という、国家的大事業を称える作品に、その旋律を引用したのだろう?
 娘が誕生したが為に、御用作曲家の地位に甘んじなければならない時もある、と言いたかったのだろうか?「誕生日」に続いてすぐ、「森の歌」が引用されているのだ。娘の存在が、あのスターリン賛歌を導いた、と音楽が語っているように聞こえはしないか?

 しかし、ガリーナの立場からすれば、複雑な心境だろう。私の誕生日を祝う曲が、あんな形で世に知られてしまうなんて!
 ただ、ガリーナ9歳の年からもう、すでに9年の歳月が流れていた1954年の出来事である。ガリーナはもう18歳、大学で生物学を学び、そして、結婚することとなっていた。もはや子供ではない。立派な一社会人として巣立つ時であった。
 国家権力から嫌疑の目を常に向けられていた、作曲家ショスタコーヴィチの娘が、一社会人として、苦難の人生を歩み始めるであろう、その時に、父は娘に対し、ソビエトにおける現実の厳しさを「祝典序曲」に託し、はなむけとして送ったのかもしれない。

 また、前述の「スターリングラード」主題の扱われ方に注目し、そして、その主題を「独裁者スターリン」を象徴するとまで「曲解」するのなら、まさに、1953年のスターリンの死の翌年に書かれた「祝典序曲」、スターリンの死を祝う作品としての性格が浮かび上がりはしないだろうか?
 後半部における、確信犯的な第1主題(スターリン)の無視ぶりに私は、あえて「祝典序曲」の新たな解釈を提案するものである。

 さらに、「曲解」を重ねようか(ここからは、お遊び的発想の極地です)
 前述の「ジャズ組曲第2番」第3曲を、終盤近くで明らかな引用をしているあたり、国家的作品のわりには、不謹慎な気もしなくはない。そのあたりをつかまえて、引用だらけのこの作品、最初から「書きたくない・一生懸命書くつもりもない」という、やっつけ仕事的な解釈も可能だろう。
 しかし、「ジャズ組曲第2番」が実際、ソビエトが禁止したいわゆる(ガーシュイン風な)「ジャズ」ではなく、軽音楽と言った程度の中味を持ったものではあるが、「ジャズ」を始め、国が禁じた音楽を象徴する存在だと仮定すれば、スターリン主題の再現が済んだところをみはからって登場するあたり、スターリン死後の芸術統制の緩和を訴えている、とも言えるかもしれない。
 そして、スターリンの死、さらには芸術統制緩和の末に、「誕生日」がバンダを加えて高らかに回帰する。ショスタコーヴィチの娘が、今度は親となり、子供を産む立場になり、その「誕生」を祝うことにもなりそうな時期であることを思えば、スターリンさえ死んでしまえば、子供(彼にとっては孫)の誕生を、(1936年のガリーナの誕生時以上に)盛大にお祝いできる、と言わんばかりの「誕生日」再現にも聞こえるのだが、さてさて、どんなものか?(自分の発想のとっぴさには、いささか閉口するなァ)

 最後に、その他の作品中に見る、ガリーナへの父からのメッセージを思わせる点をいくつか指摘しておこう。

 「子供の音楽帳」第6曲「ぜんまい仕掛けのお人形」は、ショスタコーヴィチ13歳の作、作品1「管弦楽のためのスケルツォ」の引用で始まる。父の創作の原点を、娘にそっと教えているあたりがほほえましい。
 同、第4曲「楽しいおはなし」、第5曲「悲しいおはなし」は、前者が短調のアレグロ、後者が長調のアダージョ。調性と一般的な感覚が逆転していることに注目したい。短調に楽しさを、長調に悲しさを、・・・・・ユダヤの民族音楽への彼の評価を思わせはしないか。
 さらに、「子供の音楽帳」の続編、「人形の舞曲」(作品番号無し。1952年作曲説もあるが、ガリーナへの献呈が前提なら、曲の内容からいって、全音出版のピアノ作品集の解説にあるように1946年作曲と見るべきか?出版が1952年ゆえの誤りだと想定する。)は、「明るい小川」始め初期バレエ曲からの編曲である。「人民の敵」時代の彼の作品が復活しているのだ。
 父と娘の間に、これらの易しいピアノ小品をめぐってどんな会話が交わされたのだろう・・・・。これ以上の想像は書かないでおこう。

 
 以上見てきたように、ショスタコーヴィチ夫妻、そして親子の間の愛情があってこそ、彼は作曲家として、生き延びていったことを私は想像するのである。本章では、交響曲第5番とは無関係な叙述となってしまったが、「祝典序曲」における、ガリーナの誕生日を祝うからこそ「森の歌」が登場するという流れを本人の意図として認めるとするなら、ガリーナの誕生が、交響曲第4番の撤回、交響曲第5番の作曲をうながしたとする推測も、十分受け入れの余地がありそうに思うのだが。
 ショスタコーヴィチの超人気作、交響曲第5番、そして、祝典序曲。これらの背後に、妻が、そして娘がいることを想像しながら鑑賞する事で、また、従来とは違った側面が見えてくるようだ。これが、私の31歳における鑑賞法なのである。(結婚するまでは、気がつかなかったな。)
 当然、これを皆様に押し付けるつもりはありません。こんな解釈もできるんですよ、と遊び心で個人的にはしゃいでいるだけのこと。この文章をまとめるために、いろいろ文献にあたり、スコアを読み、CDを聴き、そのプロセスは、今までにないほど楽しく、かつスリリングでありました。
 あと、ガリーナの誕生日、5/30は、私たちの結婚記念日でもある。なんて奇遇なのだろう!
 ショスタコーヴィチとは縁が切れないな!

第3回、これにて完 (1999.7.20 Ms) 


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