旬のタコいかがですか? ’99 12月

(ショスタコBeachへようこそ!)

 

 

 ほとんど、冗談で始めた、「ショスタコBeachへようこそ」ではありますが、今年後半の当ページのメインテーマが、ショスタコーヴィチということで、毎月、この項では、その月にちなんだショスタコ・ネタを紹介していこうと思います。
 旬のタコ、いきのいいタコのネタを、どうぞ、ご賞味あれ!!!

 さて、この期間限定企画も、あっという間に最終回となった。8月のショスタコーヴィチの死の話題から始まったこの項、やはり最後も死がらみな作品で閉じさせていただこう。と思いましたが、その前に少々脱線させていただきたい。せっかく師走、12月ということで、こんな切り口もどうだろう。

 

1702.12. 14

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12.25

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 脱線はこれくらいにして、通常のパターンに戻ろう。シリーズ最後を飾るに相応しい大曲の登場だ。

1974.12.23 

ミケランジェロの詩による組曲(ピアノ伴奏版)初演

 今年は、「ミケランジェロ組曲」(ピアノ伴奏版)完成、初演25周年、という記念Yearでもあります。
 しかし、いまいち、それほどに親しまれてはいないような気もします。が、彼の最晩年の最後の大作ということで、もっともっと親しまれてしかるべき作品と考えます。
 彼の最後から3番目の作品に当たるこの曲は、40分ほどの演奏時間で、11曲からなるバス独唱のための組曲だが、その構成が交響曲第14番「死者の歌」と類似している点もあり(第1楽章冒頭の主題が、終わり近く、第10楽章で再現される)、また、同年ソビエトから追放された作家ソルジェニーツィンの事件をきっかけに誕生したとか、また最後の妻イリ―ナに献呈されたとか、興味は尽きません。
 そして、最も重要な点は、「ミケランジェロの詩による」という点でしょう。
 ルネッサンス最大の画家であり彫刻家である、ミケランジェロの詩に注目するとは、一体どういうことか?ミケランジェロ(1475〜1564)生誕500年のために間に合うよう書かれたようだが、そんな外見的な話よりは、内容を問題にしてゆこう。
 ショスタコーヴィチと同様、ミケランジェロもまた、政治と芸術のはざまで苦悩し続けた人であり、その詩にはっきりとそれは刻印されているのだ。

(1999.12.11 Ms)

 なお、この作品はまずピアノ伴奏で完成され(1974年8月)、続いて11月、管弦楽版が完成、それが、彼にとって最後のオーケストラを使った仕事となった。交響曲第14番との類似もあり、彼にとって16番目の交響曲と言っても良い内容を持った作品、との解説がされることもある。マーラーにとっての「大地の歌」のような位置にある作品なのかもしれない。管弦楽版の初演は、翌年10月12日、彼の死後、息子マキシムの指揮で行われた。以下の記述は、管弦楽版に基づいている。

 第1曲「真実」、冒頭、衝撃的な悲痛な叫びにも似たトランペット・デュオが印象的。そして歌われるのは、神に対する嘆き、そして諦観である。
 なぜ、嘘をつく者の言葉ばかり耳を貸すのか?私こそあなたの下僕。私の情熱が成し遂げる業績が、あなたの怒りにふれようと、努力が無駄になろうと、私の勤めはあなたの物だ。「しかし、地上の功績に対し、天上は冷たい。天上からの償いを期待するのは、枯れ木に実の成るのを待つようなもの。」
 まるで、ショスタコーヴィチは、ミケランジェロの言葉を借りて、自分の創作の歩みを回想しているかのようだ。暗く重々しく、晦渋に満ちた開始である。この雰囲気は全体を覆っている。全体の序として、第1曲は、この作品の性格を決定付ける役割を果たす。

 第2曲から第4曲は、愛、女性をテーマとしたブロックを形作る。彼の最後の妻に捧げた作品だけあり、創作の背後を支える、愛の存在が、寡黙に語られる。
 第2曲「朝」、ハープと弦の和音による伴奏にのって、語りのように歌われる。「楽しい仕事に勝る喜びはない」。美しい女性を前に、その美しさに心打たれたミケランジェロが、一体私の手でどんな仕事を成したらよいのか!と戸惑う。
 ふと、女性の生き方を主題としたショスタコーヴィチのオペラ3部作(プラウダ批判により挫折。ちなみにプラウダこそ「真実」の意。)の計画が私の頭をよぎるのだが、どうだろうか。
 第3曲「愛」、クラリネットの速いパッセージが現れ、統一的な役割を果たす。スケルツァンドな楽想だが、歌の部分はそうでもない。
 愛が燃え盛り、その輝きが自分の魂に昇華する時、不滅の創造者と一体になることで神の純粋なる技を見出す(抽象的でかなり分かりにくい詩です)。
 愛、故に私の芸術が存在する、というわけか。
 第4曲「別離」、第2曲と同様、和音に支えられたのみの、語り的な歌。
 女性との別れの場。あなたなしに私は生きることが出来るだろうか?なぜ、あなたは私に苦行と遠からぬ死を私に与えようとするのだ。「しかし、運命が、私のあなたへの奉仕を、あなたの記憶から追い払うことの無いように、私の心をあなたに預けよう。」
 愛、女性との別れを果たした芸術家は次にどこへ進むのだろうか?

 第5曲から第7曲は、追放をテーマとしたブロックである。ミケランジェロにとってはダンテ。ショスタコーヴィチにとってはソルジェニーツィンが想定される。
 第5曲「怒り」で始めてオーケストラはその凶暴性を始めて発揮する。交響曲第14番における第8楽章「スルタンへのコサックの返事」と同様な曲想、かつ詩の内容。
 キリストの血を秤で商う輩への怒り。キリストの口も沈黙し、この狂気の場所では私のための仕事も全く無い。
 音楽的には、追放の動機として、ベートーヴェンの交響曲第5番の冒頭動機(運命動機と呼称されるもの)が引用されている、と私は仮定する。いわゆる「ジャジャジャジャーン」そのものではなく、それを連続させたもの。8分音符の連続が、ベートーヴェンの例と同じパターンを持っている。この意味を汲み取ることで、この作品の終結が興味深いものになると思うのだが・・・それについては後述。
 第6曲「ダンテ」、第5曲では8分音符による運命動機であったが、第6曲では、3連符による動機が冒頭はじめ活用されている。
 追放者ダンテの運命に対する怒りと、彼の創作に対する讃美と解釈される。交響曲第14番における第9楽章「おぉ、ディルウィーク」を思わせる内容だが、管弦楽伴奏は、金管楽器による重々しい伴奏が特徴的で、音楽的にはさらに悲哀の度合いを感じることができよう。また、ここでも「ダンテ、ダンテ」と迫害された者の名を連呼する場面がある。
 「わたしは、ダンテのことを、ダンテのことを語っているのだ。
  敵意を抱く群衆には、彼の創造は不用なもの。
  彼らには最上の天才も、とるにたらないものなのだから。
  私をして、彼たらしめよ。彼の仕事、流刑の悲哀を私に与えよ。」

 第7曲「追放者へ」、第6曲からアタッカで続く。ダンテに対する思いがさらに歌われる。伴奏部分では、鐘の音が印象深く響き渡る。
 ここでは、歌の出だしで、運命動機を活用しているところが見られる。例えば「天上さえも閉じなかった扉を、故郷はダンテの前に悪意をもって閉じたのだ。」の句に続く、門を閉じる象徴的な部分が、金管楽器により奏された後、「恩知らずめが!」とつぶやくところが運命動機的である。
 「こうやって、古来、卑劣なるものが、完全なるものに対し報復をしている。
  この例は、大海の一滴にすぎない!」

 このミケランジェロの言葉にショスタコーヴィチの思いが凝縮されていると思えてならない。

 第8、9曲は、創造をテーマにしている。第2のブロックでも、愛との関わりで創造は触れられているが、その愛と別れた後、追放者への同情、それを仕組んだ者への怒りを経験した芸術家が、再び創造に向かう時、このような姿となる。
 第8曲「創造」、画家としてではなく、彫刻家としてのミケランジェロの創作態度が歌われるが、何よりもこの部分では、その槌音を、膨大な打楽器陣を駆使して表現されるのが激烈な効果をあげている。不正だらけのこのような現状においては、怒り、不正に対する反抗こそが芸術の源となるのだ。この部分にこそ、ショスタコーヴィチの生々しい創造者としての姿が表現されているように思えてならない。ショスタコーヴィチを愛し、彼について知りたい者は是非ともこの「創造」に耳を傾けて欲しいと思う。
 第9曲「夜(対話)」、第2曲「朝」と対をなす部分とも考えられる。「朝」において、女性の美しさにインスピレーションを与えられ、興奮気味に創作について語る芸術家が今や、沈黙せざるを得ない状況となっている。
 ミケランジェロの創作した「夜」という彫刻作品を賞賛する詩人。「石でできているが、生命がある。起こしてみればいい。口をきくに違いない。」それに対する彼の答え。
 「わたしには眠りが快い。石であることは更に良い。
  いたるところ恥辱と罪にまみれるのであれば、感じず、見ずにいることこそ、平穏の極み。
  静かにしてくれ、友よ、なぜ、私を起こすのだ?」

 第8曲では、自分のみの世界に引きこもる創作者がその創作について自問自答のような形で語ってはいたが、第9曲で他者が出現することで、創作者は創作についてもはや語ろうとはしない。
 また、この答えを導く間奏が、交響曲第14番の第10楽章「詩人の死」に現れる弦楽器によるコラールでもある。創作について沈黙を守ったまま、ショスタコーヴィチは、まさに死を予感し、その時を静かに待っていたのか?

 第10、11曲は、死をテーマとした最後のブロックを形成している。
 第10曲「死」、第1曲の冒頭、トランペットが回帰する。ここでも「真実」とは何か、と問い掛ける。
 「何時かは知らないが死を予感する今、」芸術家は何を思うのか?
 「世界は盲目に陥っている。恥ずべき教訓を悪の権力から学び取る目を失っている。
  希望はなく、すべてを闇が包み、うそがはびこり、真実は目を閉じる。
  主よ、一体いつやってくるのですか?」

 「もし、死が私たちを恥辱のなかに置くとしたら、あなたの救いの光明が
  私達にとって何になると言うのだ。」

 死を目の前に、第1曲の嘆き、諦観が再び現れ、最後にトランペットの旋律が弱奏で消えつつあり、沈痛なムードの中に全曲を閉じる役割を果たすように思わせて・・・・・静寂の中、突如、高音木管楽器が無邪気な旋律を奏で、第11曲が始まり意表をつく。
 続く第11曲「不死」、なんとベートーヴェンの交響曲第5番のフィナーレの主題(仮に勝利の主題とでも言っておく)が、あまりにも唐突に現れ、笑いさえ込み上げる。この悲痛な現状に、なぜ、こんな音楽が続き得るのだ?顰蹙ですらあろうに。
 高音のバイオリン、チェレスタ、鉄琴などの澄みきった、天使の舞踏のようなムードの中、死後の世界(丹波哲郎じゃないけど)が語られる。
 「ここで運命は、私に時ならぬ眠りをよこした。
  しかし、地中に降ろされようとも私は死んでいない。
  お前の中に生き、おまえの嘆きに耳を傾けている。
  互いの中に生かされんがために。」

 再び、勝利の主題は木管で現れる。ショスタコーヴィチの本心がまさにこの部分にあるのではないか?
 ベートーヴェンの5番に始まる、楽天的フィナーレとの対決こそ、彼の創作の基本主題だったのではないか?強制された歓喜に満ちたフィナーレを待ち望む独裁者の存在があり、ある時は、それに素直に従い、ある時は、それに真っ向から対立し、また、ある時は、従うように見せかけて、それを否定する仕掛けを作っていた。
 その、彼にとっての諸悪の根源たる、ベートーヴェンの5番のフィナーレが、最高級に戯画化されているのが、この部分なのだ。しかし、死を待つ彼も、完全な悲劇的フィナーレを作ることは無かったのだ。彼の持ち味であるスケルツァンドな楽想に転化させ、かつ、ある意味での勝利をつかむフィナーレでもある。続く詩は再び重厚な苦しい伴奏を伴うものではあるが、下記の通り。
 「私は死んでいるかのようだが、この世の安らぎのために
  幾千の魂となってすべての愛する人の中に生きている。
  つまり、私は死かばねではなく、絶対の腐乱が私に及ぶことはないだろう。」

 こう歌い終わると、再び、勝利の主題を導く和音伴奏が聞こえるが、旋律は歌われない。創作者の死が象徴される。そう、ショスタコーヴィチの書いた旋律は聞こえなくなろうとも、その伴奏に乗せて、私には確かに、その勝利の主題が聞こえてくる。自分の心の中で歌っているのだ。
 まさしく、ショスタコーヴィチにとっての勝利とは、このことなのだ。スターリンやソビエトと違い、彼に絶対の腐乱は及ばない。そして、この世の安らぎのために、幾千の魂となってすべての愛する人の中に生きているのだ。
 ミケランジェロの詩に思いを託し、ミケランジェロと同じく、ショスタコーヴィチの死が、実は「不死」であることを歌い上げ、コーダは、独唱者が沈黙する中、彼を愛する人の心の中に彼の音楽は入り込み、聴衆が自分の心の中で彼の音楽を歌うことになるのだ。その心の中の歌がまるで永遠に続くかのように、伴奏の和音は続き、次第に遠ざかる。現実の音が無になっても、その和音の連打は心の中では途切れることは無い。

 彼の最後の大作として、まるで遺言のような作品だと感じてしまう。ミケランジェロの詩に目をつけ、よくもまぁ、これだけの首尾一貫した楽章の並びを構築し、一つの作品に仕上げたものだ。彼の文学的才能にも脱帽である。
 案外、ショスタコファンの中でも、語られることの少ない作品のような気もしています。是非、彼の残した、まるで彼の書いた詩にもとづくように錯覚してしまうようなこの組曲、もっと愛聴されることを望みたいですね。
 ただ、音楽的には、晩年特有の渋さに満ち、大ヒットはしないだろうなぁ。

 さて、また、最後の妻に向けてのメッセージとしても泣かせる内容だと思う。この世に対する嘆きに始まり、女性への讃美に救われると思いきや、結局、俗悪なる権力の前に芸術家として戦う決意をする。しかし、その戦いの中で、嘆かわしいこの世から去るのを目前に、私はあなたの心の中に生き続ける・・・・・だなんて、あぁ、なんてカッコイイ。素晴らしい。
 確かに、歴史の視点に立てば、ソビエト権力とは比較に成らないほど、断然、彼は勝利者と言える。そして、私の心の中にも、彼は生きている。それゆえに、このホームページも存在しているというわけだ。そして、この駄文を読んで頂いている皆さんの中にも同様に、彼は生きていることだろう。

 さぁ、そろそろ、私もこの企画ページとお別れすることとなったようだ。
 とは言え、まだこのコーナー内に未完の部分もあり、まだまだ「不死」なのだけれど。
 さらに、ショスタコ強化月間は終了するものの、私のことなので、結局、ショスタコのネタを中心に今後も更新されてゆくことだろう。来年2000年は、ショスタコ没後4半世紀、という記念イヤーですし。そう言えば、この「ミケランジェロ組曲」管弦楽版初演25年という年でもある。実は、そんな年に、私は、「ミケランジェロ組曲」の前兆でもある、ベートーヴェンの交響曲第5番を演奏することとなっている。
 来年も、私の曲解、とどまるところを知らないことだろうな。今後もお付き合い願えるのなら幸いです。それでは、良いお年を。また、ショスタコ没後4半世紀の年にお会いしましょう。

なんとか年内に間に合って良かった良かった(1999.12.24 Ms)

 

 

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