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Part15   10月の独り言


2013/10/31 (木)  来月から本造り・・・(*^_^*)


取り敢えずワカルパ翁のユーカラ原稿書き四巻仕上げて・・・製本して
娘達に三部、道立図書館・國學院図書館・石狩図書館・浜益図書室・齋藤氏
渡辺さんの奥さん・安孫子先生・ニンカリさん・・・十一部作って進呈しようかな?

今日は、浜益で会議かあって出席してユーカラのお話を少しした・・・
ユーカラを調べている方・・・熱心に訊いて来られてお友達増えた (^_^)v

色々勉強されているようなので・・・一回、じっくりとお話したいと思う
 

2013/10/30 (水)  さぁーーて、あと一日・・・


ホテルを八時にチェックアウト・・・帰宅したのが十時半
今日は、ゆっくりして明日、浜益行き・・・
それで七月〜十月のユーカラの纏め作業が何とか格好付いた。

ユーカラとは何だ !! で始まって・・・本当のユーカラってこうだ !! と
国立大学の先生方にお話出来たのは・・・この上ない幸運だと思う。

来月からワカルパ翁のユーカラ十一曲の原稿書きを進めていこう・・・
結果なんてどうでも良いと思う・・・世界五大叙事詩を理解する方
お一人でもいらっしゃったら、それで良いと思う。(*^_^*)
 

2013/10/29 (火)  旭川・・・


今朝九時に家を出て神居古潭を観て・・・神楽で食事して博物館へ行き
知里幸恵の『ウウェペケレ(昔話)』北道邦彦編注・補訳を買って・・・少し読む
知里幸恵と金田一博士のやり取りが若干分かって面白い。

三時半にホテルにチェックイン・・・これを書いている (*^_^*)

大正四年に沙流のバッコ達から原典(古典)を筆録された博士・・・
モナシノウクのものがどうなのか?・・・知りたかったのだと思う。
幸恵のものがモナシノウクのものだとすると・・・疑問符が付く。(*^_^*)

さぁーーて、これから沙流のユーカラ談義が始まる・・・
 

2013/10/28 (月)  明日が楽しみ・・・(^O^)


本当のユーカラのお話を明日、某市の某氏達とお話出来る・・・(^_^)v
アイヌ文化は、高度なだけに現代アイヌも理解出来ない側面を持って居る
そこいら辺をお話出来たら良いと思って居る。

今日は、明日の準備をしっかりしておこう・・・(^_^;)
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インターネットに繋がるホテルだから・・・ラップトップ持って行こう
 

2013/10/27 ()  原発安全の神話が崩れて・・・


そもそも太陽の核融合をこの小っちゃな地球でやろうとするのが間違い
生身の人間がやることではない・・・寿命が短すぎる

水爆にしたって・・・平和利用なんて程遠いし大量殺戮の道具にしかない
大江健三郎氏が核に対しては、対抗するにはその想像力しかないと・・・

例えば、アメリカインディデアンが広い土地だから500万人以上居たらしい
それが僅かしか居ないらしい・・・アングロサクソンの言い分けは天然痘によるもの
虐殺が起こらない限り・・・そんなに減らないはず

アイヌの場合を考えてみると・・・数の変動は、殆ど無いと云っても良いかも
確かに和人が持ち込んだ疫病は有る・・・大昔からオキクルミが戦っている
ワカルパ翁は、釧路・北見・勇払などトパットミでアイヌが激減したと云う
メナシ・クナシリの乱で有名なツキノィエは、弟のカシユンデが優秀で
名声が高くなったので妬んで殺したと云う・・・

和人はこれまでに大量虐殺はしてないと思う・・・
アイヌの人数はある一定の数を保ってきているから・・・蝦夷は守れなかった
松前でも守れなかった・・・それで陣屋が敷かれた。

明治政府になって屯田兵・・・和人が蝦夷を守ってきた・・・
大昔は、オキクルミとポイヤウンペが守っていた
メナシクル(東方人)とウプショルンクル(内浦湾人)の謀略に悩まされた
ポイヤウンペ(シュムンクル)が和船で来た海賊のトリプル攻撃で
アイヌに嫌気が差しイケスイするのは、良く解る・・・(*^_^*)
 

2013/10/26 (土)  古事記とユーカラ・・・


古事記は稗田阿礼の暗誦を太安万侶が筆録したものを天皇に献上したものと
伝えられている・・・暗誦とは云っても記録を読み上げたものらしい。

片やユーカラは、ワカルパ翁の口述を筆録した金田一京介博士
ワカルパが色々伝えて直ぐに亡くなってしまうが、その後に筆録するものが
ワカルパの話と見事に一致するのには、驚いてしまう。
流石に嘘をつかないことを土産に上京したと宣言しただけはある。

古事記にも、お伽噺の因幡の白うさぎがあるようにユーカラ群にもある。
只、違うのはそれらが見事な曼荼羅を形成している。
矛盾なく統制されているユーカラ群・・・仏教の経典のように
節を付けて謡うように語られるのは、そのまま伝えなければいけない本伝
節をつけずに散文で語られるものは、外伝として捕捉するもの。

沙流以外の地域には、本伝の男子のみが伝承するユーカラは
残って居ない・・・沙流と云えども勝手に作り替えたものをやる
亜流の似非ユカラクルも存在していた明治末期・・・

ワカルパ翁のユーカラ十一曲がもし、残らなかったら永久に消えていた。
これを本当のアイヌなら語り継ぐべきであろうと思う。
余市のアイヌ 違星北斗が知りたかったアイヌの強い心だと思う。
 

2013/10/25 (金)  更科源藏氏・・・


三年八ヶ月前、トミサンペツ シヌタプカの地図造りの為、沢山本を読んで
いた頃に読んだ更科源藏氏のアイヌ関係著作集・・・借りてきた。
アイヌ語の原文が無くて文学扱いで・・・話は娯楽的で面白い。

矢張り、各地の言葉を知りたい場合・・・その部分が弱いですネ〜

道東巡りをした時、新冠のハウを訳してみたいと云う方の為に未訳に
しておいてあるので、いらしたら連絡下さいと話してきたが・・・
連絡来ていないので、自分で訳した方が早いかも・・・(*^_^*)
ハウは、沙流のユーカラ語を使っているので、私の辞典で何とかなる。

只、釧路などのサコロペは、大いに手こずると思う。だからやりたくない。
沙流の uwepekere など本当は、訳す物沢山残って居るから・・・(*^_^*)

ここまで知ってしまった以上、何とかしなければならないでしょうネ
 

2013/10/24 (木)  クルイセ・・・


クルイセと云うのは、ワカルパ翁のユーカラでは・・・
金田一博士が訳された八串の肉串の戦いに出て来て何のことか分からず
悪夢の曲とポンケマラッキに出て来て・・・ようやく分かってくる。
大正三年にコポアヌ媼が伝えた kuruise yukara の四曲が全てであるが

男子のみが伝承するものをユーカラと云い・・・それを本伝とすると
それを補うように説明的な外伝がメノコユーカラ・・・
クルイセをコントロール出来るのは余市媛だけであるが・・・
kuruise yukara は、難しくて訳が何か滅茶苦茶に成っているので
今一、分からないクルイセの正体
このユーカラでは、余市姫が自ら発生させるので余計解らなくなった。
ポンケマラッキの 『クルイセに自らの力を決して使ってはいけない』
と云うのと矛盾するからです。(*^_^*)

八串の肉串の戦いでは、鯨が寄せ上がったと村人が騒いでいるので
カムイオトプシ・サンプツ彦・ルエサニ彦・余市彦・ツンニポク彦見に行って
皆、子供のように髭も髪の毛も失って帰って来る・・・
まるで放射能に被曝したようである。最後にポイヤウンペが見に行き
鯨と思って居たのがクルイセ鳥であった・・・被爆して身体が蝕まれる
これは、最も邪悪なカミアシ(化け物)であるので扱ってはいけないもの
近付いてもいけないもの・・・

充分コントロール出来るとして扱った原発に似ていて・・・
暴走したら手が付けられないし毒を撒き散らすし厄介な廃棄物も残る
今日、日本にある原発を Google地図でみてみると・・・
何かヤバい感じの処がありますね〜 (*^_^*)
 

2013/10/23 (水)  来月から・・・


7・8・9・10月と沙流のユーカラ群の纏めに専念してきて・・・
何とか纏まって来たので・・・アイヌ文化に興味を持って下さる方に
お話しして・・・蝦夷の歴史を解き明かす研究チームを立ち上げる為
自分が四年間に及び知り得たことをぶっつけてみたいと思う。

そして、いよいよ本の原稿書きに取り掛かるとしましょうか。 (*^_^*)
 

2013/10/22 (火)  金田一京助ユーカラノート研究・・・


樺太のハウキを除いて、殆どの部分に目を通したから全体が見える。
これは、一人の作業では到底纏めきれないと思われるので・・・

日本の歴史・哲学・社会学・あらゆる学問でもってして研究すべき問題
国立大学のレベルで研究がスタートするのを提言したいと思う。
その資料を大まかに纏めて・・・次のユーカラ談義でお話してみようと思う

手分けして・・・例えば樺太のハウキを徹底的にやる人が居て
樺太アイヌの言葉辞典まで作るとか・・・
サコロペをやる人が居てメナシクルの言葉辞典を作るとか・・・
どうもアイヌの社会は、リーダーを決めるのに世襲では無くて見識を重んじるとか
何やらその世界観は、神道と密教の世界観にも似ているとか
社会構造は、共産主義ににているからマルクスと比較するとか

共産主義は、パンドラの箱の蓋があいたことを考慮しなかった為
破綻したことだとか・・・ユーカラは、仏教で云う三毒との戦いだとか
宗教家も恐らく興味を持つほど、魅力に溢れている。

こんなにも面白いものが北海道にあったことに気付くべきだと思う

シケレペと云うキハダの木の実がアイヌの調味料なんだけど・・・
肉食では、その消化力を助ける健胃剤として使われていたように思う
 

2013/10/21 (月)  # 3  転記完了・・・


お昼に長女からの封筒届いて・・・早速、転記だけ終わらせた。
複写依頼書を國學院に2011/12/14 に送ってから約二年掛かったことになる。

でも、自分でもアイヌ文化の素晴らしさも分かって・・・知った喜びと
よくぞ残して呉れたと云う感謝の気持ちが湧き出てきて・・・
何か晴れ晴れとした気分になる・・・

國學院の方が娘に、本が出来たら見せて下さいと仰っていたそうな (*^_^*)
國學院の学生さんに読んで貰うために本が出来たら送って上げようかな・・・
 

2013/10/21 (月)  # 2  アイヌ語表記・・・


現行のアイヌ語表記は、ユーカラを訳せない欠点を持って居る・・・(*^_^*)
アイヌ語表記は、金田一博士のワカルパ翁の筆録表記、つまり
純粋ローマ字表記が正しいと思う。発音の事を考慮してのことだと思うが

英語の today は、誰も トディ とは発音しないで ツディに近い発音をする。

アイヌ語は抱合語なので分解をして意味を考える時がある・・・
現行表記だと チェを ce と書く・・・アイヌ語ではchi e であるのでche と書くと
言葉の成り立ちが分かる。

胸の事を、男子の場合 penram と云って、女子の場合 reraruturu と云う
rera ru uturu と分解すると 風通る道の間と直訳出来る
例えば二つの山の谷をそよ風が通ると想像すると・・・
現在では、背中の方の肉まで前に寄せ集めて出来る・・・おっぱいの谷間
なんと粋な言葉でアイヌ語が一遍に好きになってしまう。

I を Y で表記すると、分解するときに混乱が起きる嫌いがある。
前の語に所属する音か? 後の語に所属する音か?
原則は、言葉の最後に付く場合は Y で良いが・・・頭に付く場合は I で
書いておかないと混乱する。抱合語には合わない表記である。
それでユーカラを訳すときに酷い目に遭うと思う (*^_^*)

日本人が使い慣れたローマ字で表記するのがアイヌ語を勉強するには
すっと入っていけるので、ベターだと私には思えるが・・・
外国人にこれはどう?読むのだ?・・・と訊かれても小学生でも
答えられるローマ字の方が良いに決まっていると思う。(*^_^*)

外国人が
ca をチャとは、読まないだろうと思う・・・
英語でも
cha をチャと発音するのだから・・・外国人にも不親切な表記だと思う
ユーカラは、世界に冠たる叙事詩であるから外国人にもローマ字の方が
分かり易い表記だと思う。・・・誰がこんなもの発明したのか? (*^_^*)

2013/10/21 (月)  謎のケチャウ・・・


言語コード表にケチャウ語と云うのが出て来る・・・似たのにケチュア語があって
アメリカインディアンの言葉らしい・・・あり得ますネ〜
カムチャッカにその言葉を使う人間が存在していたのかも知れない。

千島列島を南下して特異な着物を着ていたのかも知れないな〜 (*^_^*)
ユーカラを徹底的に研究すると古代・中世の民族の移動の手がかりになる
資料が掘り起こせるかも知れないな〜・・・これは面白いこと発見した。
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さて、覆舟変化物語のコピー今日届くかな? (*^_^*)
ワカルパ翁のユーカラ十一曲とワカルパ/フォルクローレだけでも
本にして残して上げたいですね〜
 

2013/10/20 ()  今日は、葡萄の収穫・・・


浜益幌村で植えている葡萄は、ナイヤガラと云う青ぶどう・・・
香りと甘みが強い品種で秋の獲り入れが何時も楽しみである。

少し早かったようで・・・半分くらいで止めておいた (*^_^*)
帰り道、農家の野菜直売所で大根が一本五十円だったので四本買って
人参・ヤーコン・ブロッコリー・南瓜二個・・・しめて八百円  

カジカとカジカの卵も幌村で貰ってきたので・・・(^_^)v
寒くなって来たらアンコウもイイんだよネ〜
 

2013/10/19 (土)  # 2  余市・古平・・・


ユーカラに出て来る余市と古平に行ってきた・・・小樽総合博物館で
ロシアで収集した樺太と千島のものを見てから神威岬まで行って・・・
二時に発って帰宅したのが丁度五時だった・・・天気良くて最高 !!

これで一通りユーカラに出て来る処見て廻ったことになるかな?
四年間何処へも行けなくて・・・只ひたすら転記と翻訳の日々だったから
各岬を観ると・・・自然の神々しさが心に浸みてきてユーカラをやって良かった
積丹ブルーの海の青さを初めて見た・・・感動した。

余市川は、大きな川で平地も広々して大昔栄えたこと解った。
フルピラは、hure pira 赤い崖と云う意味だと思うが・・・神威岬の
岩肌が赤っぽい処が多いので・・・同じ組成の岩肌だったのでは?

シヌタプカの在る浜益が最強の自然の要害で石狩湾を守っていたのは
本当のことだと思う・・・これを北海道の子供達に伝えたいですネ〜
子供たちには、絵で表現した方が良いでしょうネ (*^_^*)
 

2013/10/19 (土)  知里真志保・・・と云う人


アイヌの天才学者知里真志保について・・・二日ほど調べてみた
久保寺博士については、その本を読んでいるから大凡解っていた・・・

何で、アイヌ研究者を攻撃したのだろうか?・・・恩師までも?
無宗教だとも云っている・・・丸で負け犬の狂犬みたいに噛みつく理由は?
結局、哲学(宗教)を持たなかった為に起こる・・・アイデンティティの欠如
自分は、何者か?・・・アイヌなのか和人なのか?
身体も弱いから心まで弱く成ってしまったのか?
至極、下ネタにご執心のようであったのは・・・どうしてなのだろう?

人間は動物の一種で紳士面していても恥ずかしい秘め事ってある。
それは、暗黙の了解で酒を飲んだ時の話題くらいにしておいた方が良い

本を読んだ限りでは・・・何の躊躇いもなく ape etok 炉頭に座ったと云う
傲慢を通り越して・・・情けない人間に映る
金田一博士は、irankarapte yaikoirushkare・・・と云ってその後
口上を述べて・・・長老に受け入れて貰って炉頭に着いた筈
その作法が出来て初めて・・・尊重されるアイヌの男の世界
アイヌに限らず・・・世界中同じだと思う。

金田一博士は、ワカルパによってアイヌの男の世界を徹底的に教えられたと
思う・・・樺太では教わらなかったアイヌの男の世界
ワカルパは、余所から来た若者にもエカシと云うと教えている。
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胆振にもユーカラが存在すると云う話が信じられたことが分かった・・・
私は、バチェラー博士の捏ち上げと思って居たが・・・知里真志保が犯人 (*^_^*)

『樺太東海岸北部の言葉と日高・胆振の言葉が近似しているのは不思議』
それで日高よりも胆振の言葉が古格と云ったのを久保寺博士も信じた。
ワカルパのユーカラが軽んじられたのは・・・kutu を虎杖と訳すのは・・・
金田一博士の間違いであると宣言した為・・・皆、追従してしまった
アイヌ文化の迷走に導いた犯人がすっかり分かった。

ワカルパ翁の名誉回復の為、倍返しで報いてあげようかな? (*^_^*)
 

2013/10/18 (金)  覆舟変化物語・・・


今月の一日に埼玉に帰った長女に頼んで置いた國學院図書館の閲覧
昨日、行ってくれた電話によると・・・何とかコピー出来たらしい (^_^)v
凄く時間が掛かったらしい・・・(*^_^*)

でも良かったな〜・・・これで完全な形で転記が出来る。
虎杖丸の曲で金田一博士が抜かしておられた部分も補填出来て・・・
本当のユーカラとは、どう言うものかを世に出せるのはとても嬉しい。
モンゴロイドの叙事詩が日本列島にあるのは誇らしく思う。
 

2013/10/17 (木)  台風被害・・・甚大


自然災害って人知を遙かに超えて起こってしまう・・・恐ろしさ
大島の被害は深刻ですね・・・山肌が現れてしまった。
強い雨が降ると・・・泥流が発生すると云うことですよね。
避難しないとヤバイんじゃないのか?
自衛隊が八人何の装備も無く駆けつけたのはどう言うことなのか?

福島の原発では、水が溢れそうになったから・・・タンクの水流したとか?
漏れただけでも大騒ぎしていたのに・・・どう言うこっちゃ ?
政府の危機管理能力はどうなっているのか?
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昨日、アイヌマキリ届いたので・・・早速、刃付けし直した (^_^)v
カミソリみたいにすーーっと切れる・・・矢張り鋼の刃物は違うな〜
根付けは共材のオンコのものだった これは有り難いご配慮でしたね〜(^_^)v
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観測史上初めての大雨が降ったり・・・雪が降ったり・・・
日本列島は、自然災害のデパート・・・其の代わり自然は美しい
それに耐えた自然林は矢張りシリコロカムイ(木)だと思う
その中でも800年1500年も生きて居られるのは神だ・・・
人工林と自然林の違いはそう言うことだと思う
植物の世界は、本当に凄いと思う・・・これを何とか自然のままで
残さないと・・・動物が生きていけないしバランスが崩れる
人間も動物の一つだと云う事を忘れると・・・経済だけに目が行く

経済って云うのを端的に説明した高校時代の先生が居た・・・
美味いものを食べて血肉にするのを経済と云う・・・
普段、食べたことないものを食べ過ぎて下痢するのを不経済と云う
働く為に適度な栄養を付けて・・・働く
働き手を失った家族は、食べるのもままならなくなる・・・
それで一時的な救済として生活保護がある・・・国民の納得する処

戦争をしない為のオリンピックで無かったのか?
経済効果の為、オリンピックだとか・・・白老の国立博物館だとか・・・
借金ばかりしている今の世界の指導者・・・頭悪いと思う
オリンピックの為に国費を使って選手を育成する愚行・・・
スポーツ選手って人糞製造器のなにものでも無く・・・家族で支えるべき

いくら速く泳いだり・走ったりしても・・・空を飛ぶこと出来ない
鳥からしてみれば・・・何を馬鹿なことやっているのか?猿に似た奴ら (*^_^*)
確かに縄張りを守るには喧嘩もするが・・・殺し合いは滅多にしない
 

2013/10/16 (水)  急に寒くなってきた・・・


まあ10月だから当たり前の気温だよね〜 (*^_^*)
でも、これから晩秋のキノコの時期でもあるのが嬉しい (^_^)v
晩秋のキノコと云えば・・・ムキタケ・エノキタケ・ムラサキシメジとイイね〜 !!
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今月の二十九日にユーカラのお話を或る方々にする為・・・
色々なことを書いている今月のこの独り言・・・(*^_^*)
昨日、Netで哲学者 梅原猛氏の講演を聴くと・・・現代社会の行き詰まりを
説いておられた・・・それを打開するには日本仏教特に、密教をお話されて
何時もの穏やかな話しぶりで無く、高揚されていたように思う

私もアイヌの哲学は、まるで密教のような曼荼羅を形成していると思って居るので
何か嬉しく感じた。氏は未だ、ユーカラのポンケマラッキの存在をご存じ無いらしい
それはそうですよネ・・・金田一博士の未訳のユーカラだからね〜 (*^_^*)

梅原猛氏は、アイヌ文化についても相当深い見識を持っておられる方
ユーカラとりわけポンケマラッキを読まれたらアイヌ文化の正体を
見抜かれると思うが・・・気が付かれるかどうか ? (*^_^*)

今度のユーカラ談義は、哲学者の方もいらっしゃるので興味を持たれると
思って居る。シュムンクル=ヤウンクルの哲学・・・アイヌの哲学者ワカルパを
研究して下さると・・・アイヌ文化は甦ると思う。
今まで沙流以外のもので論じられてきたアイヌ文化・・・
それに毒されていない・・・白紙の状態からの研究が必要だと思う
柵に影響されない総合的な見地からの研究
 

2013/10/15 (火)  欲しかったアイヌマキリ・・・


彫刻したアイヌマキリは、結構高価で手が出なかったが・・・見つかり
連休明けの今朝一番で代金振り込んで来た・・・明日届くそう

手元に届いたら、しっかり刃の付け直しと研ぎをやっておこう・・・(*^_^*)
根付けも付けて呉れるそうですが・・・どんなものが付いてくるか楽しみだな〜
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考えてみると・・・世界の叙事詩は、ギリシア・ローマ・フィンランド・インド・・・と
コーソイド(白人系)の叙事詩ですよネ
アイヌの叙事詩が唯一のモンゴロイドの叙事詩だとすると
日本列島の極北に有ったというのは、浪漫がありますよネ〜
これは、色々な面で研究する価値が高いと思う。
 

2013/10/14 (月)  熊送りの儀式・・・


1989年(平成元年)に白老で屈斜路湖のエカシ日川翁の指揮による
熊送りが実演されたらしい・・・沙流のものと比較してみた・・・

なんと送る前に脳味噌なんか煮て食べているし、送る儀式がどうも妖しい
沙流では、男のみが送る儀式をするが女は家の中にいる・・・それが???(*^_^*)
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アイヌの社会理論と社会構造に密接な関係のある熊送り・・・その他諸々
男のみが伝承するユーカラ・・・その外伝のメノコユーカラ
男子のイノンノイタク・チャランケイタク・ランカラプイタク・・・
奇跡的に全てが揃っている沙流を研究しないとアイヌ文化は解らない。
幸いに金田一博士は、樺太のハウキも道東の女子が伝承するサコロペも
ハウも何点か筆録されている・・・それを翻訳出来るアイヌが出て
初めてアイヌ文化の蘇りがスタートすると思う。

日本人が毎年、自殺で三万人もいる厳しい現代社会の中デ・・・
懸命に働いて納めた血税を不正流用するアイヌは支持されない。
何かと云うと差別だと云う・・・差別の無い人間社会は有り得ない
劣勢だと淘汰されるのが生き物の掟・・・餌になる運命

ワカルパ翁は、釧路・北見・勇払など各地でトパットミ(夜襲)が横行して
アイヌの人口が激減したと伝えている・・・沙流にも来たが撃退したと
和人はアイヌを虐殺したことがあったか?
知里幸恵の神謡集?の序文が美しくて、それがアイヌの世界のように思われ
ずっと悲劇のヒロインのように思われ・・・今まで信じていた。
Shirogani pe ranran pishkan kongani pe ranran pishikanは濁るから
それを金田一博士は、shirokani pe ranran・・・ に直させたか? 直した。

知里幸恵は、死ぬ四日前の両親に宛てた手紙に・・・両親の元に帰ると
書いているんですね・・・そして罪を犯したことを悔やんでいる。
金成マツさんの処には、帰らないとする・・・理由?

私は、コタンピラの筆録にあるような気がしてならない・・・
明治40年に樺太のラマンテからハウキを筆録したときのものを見ると
相当苦労されて筆録されている・・・あちこち訂正されている。
大正二年の最初に筆録した虎杖丸の曲でも相当苦労されている。

コタンピラ共々七人して金田一博士を訪れ蘆丸の曲をやり出した。
博士は、コタンピラのことをワカルパ翁から聞いていて・・・
筆録するふりをして各行の頭だけ記したようで・・・知里幸恵もじっと聞いていた
コタンピラ達が帰って直ぐに、幸恵に書けるか?訊いて書かせた。
見事に書き終えた・・・沙流と幌別では言葉の使い方が随分違うのに?
今まで、コポアヌ媼とかからも筆録しているけど・・・うーーん???

幸恵が亡くなって、博士は幸恵の日記を読んだのだと思う・・・
えっ !! 七月に来たコタンピラの Shupne shirika を六月二日に書いている?
これは一体???・・・
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話を一旦、白老の熊送りに戻して・・・この時シンヌラッパ(先祖供養)も
執り行われていて・・・イチャラパにも言及されていて・・・
男女それぞれ供物を少しずつ撒くからイチャラパと云うと・・・説明
沙流のコポアヌの話では、供物を集まった人達に配ると言う・・・説明
アイヌは、食べ物を非常に大切に扱ったから撒くと云うのは違うと思う。
 

2013/10/13 ()  覆舟変化物語・・・


Samchip upshi chipako ashkuru 覆舟変化物語の最後が転記出来ずにいて
埼玉に住んでいる長女が遊びに来たので、帰ったら國學院大學図書館に
行ってマイクロフィルムを閲覧して電話くれと頼んだ。 (*^_^*)

今月中で良いからね !! と云って於いたので、今月中に電話来るでしょう。
もし、マイクロフィルム化の時に撮影が不味くて本当に不明なら・・・
諦めて、そのまま本にしようと思って居る・・・それだと残念だけどネ
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道東巡りで屈斜路湖にあった土産物やさんで見付けたIpirikep(小刀)
一般には、マキリと云われているもの・・・
マキリは、東北マタギの言葉で本来アイヌの言葉ではない。

私が見付けたのは、鞘、柄ともにオンコの木で彫刻のあるもの
欲しかったけど、生憎持ち合わせが無かったので、電話番号訊いておいた。
娘達が誕生日プレゼントとして前倒しで買ってくれるそう・・・(^_^)v
刃は鍛造の切り出しになっていて切れ味は良さそうだった。
根付けも付けて呉れるそうだから・・・良かった〜
来年は、イナウの削り方を教えて貰おうと思って居る。
浜益のシランバカムイに捧げる為だけに限定して・・・(*^_^*)
 

2013/10/12 (土)  アイヌ語の面白さ・・・


昔、chup kamui を食べようと口開いた化け物に生け贄として放り込んだのが
pashikuru(カラス) enrum(鼠) chironnup(狐)  ・・・

この中で・・・最初から殺されるものとして定義されている狐・・・
余程、数が多かったのでしょう
アイヌ語は抱合語なので、その言葉の成り立ちがとても面白い・・・
そこから思考過程・情景も見えてくるような気がする。

特にユーカラ語 atomte itak など古語は、面白い・・・
例えば、蝶をユーカラ語で moreureu と云って、日常語では heporap と云う
様似では、蝶のことを mareureu と云う。区別してない・・・

moと云うのは、整ったとか静かとかの意味があってreu と云うのは
鳥などが止まることを云うから蝶が止まったら左右対称になり
そのことが一番美しいと思って・・・着物の刺繍も見事な位シンメトリー
mareureu と云うのは、本来無い言葉だと思う。(*^_^*)
アイヌ語の日常語を習っても例えば・・・カムイユカラが訳せないと
全然面白くないし、覚える意味が無いに等しい。
irankarapte をコンニチハとしているが・・・本来は男子の挨拶言葉で
irankarapte yaikoirushkare と続いて、ご無沙汰お詫び致します・・・の意味
金田一博士がアイヌの長老に受け入れられた理由は、
Rankarap つまり挨拶がしっかり出来たからである。
それは、ワカルパ翁に徹底的に教わったからだと思う。
ヌッキペツの黒川ツナレもその挨拶の格調高さに感激して
明日にも死ぬかも知れない状態ながら・・・『鹿の皮衣』を演じた。

そう言ったことが現在のアイヌ語の状況だと思われる。
これを整理しないとアイヌ語は、甦らないと思う。
 

2013/10/11 (金)  ユーカラのミラーリング


ワカルパ翁が appechi (厚賀)の Riyakno から二曲伝承しているのは
良く考えてみると・・・伝承が途絶えない為の分散(ミラーリング)が
意図的に行われていたと云うことでしょう。
appechi は紫雲古津と深い絆がある処なのでミラーリングには最適だったのでは?
十勝のユカラの敵は、沙流・鵡川・新冠などの実名だったらしいから
目立たない厚賀が選ばれたのかも知れないね。(*^_^*)
それに往来が頻繁だったのかも知れない。

十勝では、ミラーリングして無くて・・・残らなかったのでしょう
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そう言った丸でコンピュータのような世界を展開していたシュムンクルアイヌ
可成り高いレベルの文化であっと云うことですよネ
一流の社会学者・哲学者の目を引くことでしょう・・・(*^_^*)
 

2013/10/10 (木)  道東巡りの収穫・・・


HAU/萱野君と42.11.20  読ムと書かれていて・・・
ワカルパ翁が残したHAUを一緒に読んだことがメモされていて

昭和43年10月14日に萱野茂氏とワカルパ翁の六代前のエカシhoshiki tereke
が伝えたとするWendarap yukara を一緒に読んで・・・
「萱野君はこれを絶賛す "anu ushke an ! "と。」とメモ書きされていて

先日の道東巡りで最初に訪れた沙流の萱野茂二風谷アイヌ資料館に行って
大きな部屋に金田一博士と一緒に写っている写真があった。
一枚は、旅館の部屋で金成マツさんの訳を手伝っているというもの
もう一枚は金田一博士の歌碑の除幕式のもの
日付は昭和43年10月であった・・・ははーー成る程と納得した。(*^_^*)

金田一博士は、萱野茂氏を頼りにされていたことが解った
しかし、メモ書きの中に・・・ukewehomshu について、萱野氏は労り合うと説明
この時、萱野氏のアイヌ語に関しての見識に疑問が湧いたのでは ?

昭和44年の座談会で・・・翻訳を受け継ぐ人がいるか?ということに関しては
「しかしおそらく、もうやる人いないでしょうね」と断言している。
萱野茂氏では、沙流のユーカラは、翻訳出来ないと思われたのでしょう
ikewehomsu は、Kamui oro itak としてタウクノ媼から筆録されている。

ラジオのアイヌ語講座のninninkeppo hokuhu numke (蛍の婿選び)に
於いても Chimut kane を大きな身体の私・・・と誤訳をしている。
それが今までのアイヌ語認識の現状・・・由々しきことだと思う。

そのように絶望的な状態での座談会で久保寺博士も同席のうえで
「しかしおそらく、もうやる人いないでしょうね」と断言している。
それで、久保寺博士のものは、出版を禁じていたんだと思う。

沙流の哲学者で詩人のワカルパ翁の話・・・広大で捉えきれなかった
ワカルパのIQが仮に180だとすると180×50/31=290のIQが必要
宗教家に相談したり哲学者に相談したり謙虚な気持ちが必須であった。

アイヌは、年寄りを尊重する・・・日本もそうだった・・・
先人から受け継いだ知恵の宝庫として素直に耳を傾ける心根が大切
 

2013/10/09 (水)  最後のユーカラ・・・


大正二年にコポアヌ媼がワカルパ翁同席で伝えた最後のユーカラ
これは、ポイヤウンペが消えていなくなったことを意味していて
ユーカラ群の中デも非常に重大な意味を持つものであろう。
アイヌの世界では、大事件であったろうと思う。

その勢力図がそっくり残っていたアイヌの世界・・・
それを初めて記録してたのが諏訪大明神絵詞で十四世紀のこと
更に、それを詳細にユーカラの勢力図をそのままそっくり現した江戸時代後期の
藻汐草・・・圧倒的な強さを持って居たポイヤンペがいたので・・・
パワーバランスが保たれていた大昔の蝦夷
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ユーカラに出て来る kaparape itanki(薄造りの椀) kaparape otchike(薄造りの盆)
shintoko(行器ほかい) pirika poishu(美しい小鍋) umshu pirikep(取って置きの白米)
nishpa mutpe(首領の佩刀)・・・ウイマム(交易)によって手に入れたもの
和人の玉鋼による刀剣の切れ味は、将に宝ものでしょう。
そう言った宝物を作り出す和人は、shisam(真の隣人)として尊敬していた。

それで、ポイヤウンペは、大陸から南下して来たレプンクルの侵攻を
食い止めようと日本列島の二番目に大きい河川流域を誇る石狩川が
注ぐ石狩湾を余市彦と必死に守っていたのでしょう。
何代にも渡りレプンクルの謀略により命を狙われ・・・
妹を取り戻して可愛くて遊ばせていると・・・入り江に舟の大群が押し寄せ
それが samchip(和船)であったので・・・最前線で戦っているのに
背後から鉄砲で撃たれるに等しい行為と見て・・・怒りが爆発した。
十三世紀から台頭した倭寇が使っていたのは samchip だとすると
本土和人が押し寄せたと勘違いしても不思議ではない。

もう頭にきた !! レプンクルと戦うのはお前等やれ !! 俺は去る !!
と云って何処かへ行ってしまった。
沙流のオキクルミの場合は、アイヌの堕落に嫌気がさしてイケスイした。
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ポイヤウンペが居なくなったら、渡り党の地域でいくさが始まり
レプンクル(メナシ)とかでは、トパットミ(夜襲)が横行してアイヌが
少なくなってしまった・・・とワカルパ翁は伝えている。

江戸時代の後期、松前とアイヌでは蝦夷を守れないとして・・・
東北の各藩から蝦夷の守りとして陣屋が配された。
その時に、アイヌのリンチ(私刑)を禁止したので助かった陸別の
話が、童話として発表された『りくんべつの翁』
これは決して童話の類ではなくて・・・時代背景を映すウエペケレ

それを多角的にもう一度、検証する必要に迫られている思う。
国立博物館が建つ前に既説に捕らわれない見識に依って・・・
建ってからでは、遅すぎる・・・(*^_^*)
 

2013/10/08 (火)  キノコ狩り・・・


浜益にキノコを見に行って来た・・・収穫ハナイグチ(ラクヨウ)5個 (*^_^*)
ボリボリ(ナラタケ)は大分遅かった・・・
浜益温泉でこの間の道東巡りの報告でお話して・・・温泉にドボンと浸かって
気持ち良く帰って来た・・・
 

2013/10/07 (月)  ようやく曼荼羅が完成・・・


樺太ラマンテのハウキの処にメモ書きがあるとは思わなかったな〜 (*^_^*)

そのように金田一筆録ユーカラノートの全部に目を通さないと解らない
ユーカラ・・・その量も膨大で取り組むには余程の覚悟が要る。
又、そのメモ書きの意味は、最初解らなくて、ある程度進んでから
解ると云う代物・・・(*^_^*)
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1969年(昭和44年)金田一博士87歳に座談会で仰ってるのは・・・

@ 『 ユーカラが本当に古い歴史的な資料となりましょうか?
やはり現代のアイヌの生活で解釈できるような文化でないでしょか 』

A 『 ユーカラ集も12巻も出版して死ねば、あとノートブックのちに
残して、だれかこれも訳したいと思う人が出たとき、十二巻を
よく読めば、残したところも、だいたいそれに準じて読んで
いけますから、どうやらこうやらわたしの残したのを訳してくれる
人もあるかも知れない。わたしの仕事はそういう人のために
やっているんだという気持ちでね。ずっとノートをつけて、できるだけ
註釈を詳しくつけて、そして出版して死にたいと思っています
「しかしおそらく、もうやる人いないでしょうね」
しかし、いままだ事実が存在しているから、そう思わないけれど
何年もたってご覧なさい。すっかりアイヌ語もなくなって
のちになったら、なんとかしてこれを貴重な遺品だから
訳したいと思う人が出ないとも限りませんからね。
その人たちのために、いま註釈を書き残そうと思っているのです。 』

それから四十年経って、私が取り組んだ結果・・・
四年して得た論は、@の博士の論は、間違っていて・・・
アイヌ側の立派な古い歴史の資料であることが解った
ですから、ここは一旦、今までの認識をリセットして新たに
アイヌ文化研究を再構築・統合するスタートにすべき良い機会
 

2013/10/06 ()  # 2 大発見 !! (^_^)v


四年間ずっと考えていた・・・ポイヤウンペのイケスイ(余所へ行くこと)の理由

最後の台詞・・・知らせて呉れた金の蝙蝠の神に云った台詞・・・
『 inkara kusu shipase kamui kooharapo nep rametok akora kusu
kamui oro pakno cheuramtek uk aiekarakara hawe newa ne yakun
tan kamui tumi yayeporose aki yakka ikesui kunip ane hawe nena
akot chashi epunkine wa ikore sekoro okaipe neshi aeashke riki 』

『 さて、重い神よ、我のようなものに何の武勇持っているとして
神の処まで謀りごとをするという話であるなら
この神の戦我通させたとしたならば、余所へ行く話しであるぞ
我が山城のその番人をしてくれ !!とだけ云って手を高く挙げた 』

この意味がずっと解らなかったが・・・ついに解った (*^_^*)

金田一博士が明治40年に樺太のオチョポッカに上陸して隣村の酋長
ラマンテ(クサエ)からハウキを筆録したノートを参考の為コピーしておいた。
それをペラペラと捲っていくと11枚目に・・・

sam tumi 日本トイクサ 鉄砲デウタル
shisam nemanup semiporo anu itak koenonkan charase kane
鉄砲 〜 chitui kane rukum kane
poi (ポイヤウンペ)ノ中デ最後ノユカラ 北海道カラドコカヘイク
前ノ最後ノyukara

と書いてあって・・・金田一博士はワカルパに、このノートを見せた時、
云ったことをメモしたものと思われる。
その後、八月にコポアヌから最後のユーカラを筆録することになったと思う。
コポアヌは、イケスイした理由が分からなかった。
ワカルパは、コポアヌが年上だし、連れてきて呉れた恩もあるので、
博士共々黙っていたのではないか? (*^_^*)

日本と戦したとしているが・・・これは倭寇(海賊)が来たのを本土和人と
ポイヤウンペは、勘違いしたと思われる・・・(*^_^*)
それなら鉄砲で撃たれたと云う話は、可能性がある。
 

2013/10/06 ()  知里幸恵の謎?・・・ # 3


大正十二年九月十四日・・・亡くなる四日前の両親に宛てた手紙・・・
余りにも痛ましい・・・苦痛が述べられていて胸が詰まってしまう。

その日の時点で校正が未だのようであるから・・・終わらせたものか?
幸恵自身カムイユカラと云っているのが今回分かったが・・・
金田一博士は、幸恵がモナシノウクのユカラを書いていて楽しみにしていて
送られて来たノートには、散文で書かれていたので面食らったと思う。
幌別のユカラと云われているものがウエペケレだったこと。

これを神謡(カムイユカラ)として発表して良いものだろうか?
相当、迷った筈であるが・・・突然亡くなってしまって・・・
渋谷氏と柳田国男氏の手前・・・出版せざるを得なくなり一年後出版
鍋沢ユキが翌年ネフスキーの処から金田一宅に逗留
そして、pishka toa pishka を筆録して心臓が止まるほどショックを受けたと思う

その後、後悔しながらも・・・知里幸恵のものは良く出来ているが彼女の創作で
学術的には価値が薄いとして申し訳をされている。
でも、一人歩きをした幸恵の神謡集・・・(*^_^*)

金田一博士が何故? 知里姉弟に思い入れがあったのか?が気になっていたが
幌別は、藻汐草ではウプショルンクル(内浦湾)で江戸末期の陣屋は
盛岡藩(南部藩)が当てられていて盛岡出身の博士は親近感を持った?
そして知里家の先祖は南部藩の人らしい・・・シサムサニ
カンナリキ(金成喜蔵)もシサムサニだから幌別ではキリスト教に
抵抗感は、無かったのでしょう。アイヌの風習も薄れていたと見る。

又、キリスト教の布教でバチェラー博士は沙流には苦戦を強いられている。
金成マツさんも平取では、余り上手く行っていなかったと思う。
知里幸恵の手紙にその対抗意識が顕れている箇所がある。(*^_^*)
金田一博士が筆録を望まなかったコタンピラのものを
残してやろうと云う金成マツさんの思惑があったのではないのか?

最後の両親への手紙のなかで・・・親の元登別に帰って
一生を親の元で暮らす。此の後、一生沈黙をつづけます
ほんとうに無言で暮らしましょう。
これは、知里幸恵に相当な罪の意識が生まれたに違いない
何かがある・・・両親も知っているもの
 

2013/10/05 (土)  知里幸恵の謎?・・・ # 2


金田一博士は、大正四年にバッコ(婆さん)たちに混じって聞いていた
鍋沢ユキ(当時15歳)が母親タウクノの後編を見事に繋いだことを評価していて
ネフスキーと云うロシアの東洋学者(大阪)に大正十一年に紹介している。

その年四月にコポアヌら三人来てウエペケレなど博士は筆録して・・・
入れ替わりに知里幸恵が五月に上京している。

幸恵の大正十一年四月九日の両親に宛てた手紙の中で・・・
『 ちょうどフチが、此の度帰ると云われますからお送りして、登別へ参ります。
少し都合がありまして三十日のを二十八日に決めました。
そして、お家から東京へ立ちたいと思うのです。 』

この登別での十日余りの期間中の都合とは、何なのか?
私の下郎の勘繰りの穿った憶測に依ると・・・(*^_^*)
コタンピラは、男子のみが伝承するユーカラは保持していなくて創作・・・
金田一博士は、筆録する意思はなかった・・・
又、マルコと云う洗礼名があって・・・金成マツさんとは、仲が良かった。
そこで、金成マツさんがコタンピラと連絡を取って、幸恵が東京へ行く前に
登別で聞かせたとすると・・・東京に着いたのは五月十三日・・・
五月十七日に初めて両親宛てに手紙をだす。

日記を始めたのが六月一日・・・二日に朝の中は英語の復習、洗濯で時を過ごし
お昼飯まではシュプネシリカを書く。午後は裁縫、読書。十二時少し前に就寝
そうしたら登別で聞かなかった場合、五月の後半にコタンピラが
来た事になる・・・金田一博士は、各句の頭しか書けなくて、それを元に
一週間で幸恵が完全に再現したとある。

知里幸恵にとってシュプネシリカを書く時間は、三時間くらいになると思う。
三千三百行のユーカラをローマ字で書くには・・・
3300/7日/22行=21ページ・・・7頁/時

そして、大正十一年六月九日に両親宛の手紙の中で・・・

『 親愛なる御父様御母様、ほんとうに久しぶりで手紙を書く事が出来て
嬉しう御座います。・・・私もだいぶ忙しい様な気がする様になりました。
だって毎晩英語を五課づつ(ナショナル一)ならふのですが、
私にはとても一度で覚えきれないので復習しなければならないのです。
それに此の間、あのアチャボがやったユカラをまだ書いているもんですから・・・』

『此の間、あのアチャボがやったユカラ・・・』と云うのが引っ掛かる。
五月十七日と五月末に二度手紙を書いたらコタンピラが五月に来た事になるが
二度目が六月九日だとすると『あのアチャボ』の表現が妖しくなる (*^_^*)

金田一博士は、七月に七人して来てやって直ぐに幸恵が一週間で
書き上げたとしているのは・・・博士の間違いと富樫氏は仰る (*^_^*)
もし、金田一博士が正しいとなると・・・予め仕組まれたこと ?
金田一博士は、幸恵の日記を見て・・・それが解ったので・・・
アイヌ叙事詩ユーカラ集第八巻の蘆丸の曲の序文で
忌々しく思って、吐き捨てるように云ったのではないのか?

大正十二年に沙流を訪れ、博士はコタンピラに色々確認されている。
 

2013/10/04 (金)  知里幸恵の謎?・・・(*^_^*)


大正七年の近文のことは、余りにも有名だから省いて・・・
大正九年六月二十四日の日付で金田一宛の手紙にはこう書いている

『 私の書きます中のウエペケレの一つでもが先生の御研究の少しの
足しにでもなる事ができますならば、そりより嬉しいことは御座いません。
そのつもりで私の知っている事は何でもオイナでもユカラでも何でも
書こうと思うて、それをたのしみに毎日ローマ字を練習しております。
あのノートブック一杯に書きおえるまで幾月かかるかわかりませんけど
きっと書きます。・・・フチも頗る元気で毎晩ユーカラをきかせてくれます。 』

この時は、幸恵がローマ字の練習をしていて書けなかったことが解る。
そしてモナシノウクがユーカラを聞かせていたいたことも・・・

砂沢クラさんの「クスクップオルシペ私の一代記」では、知里幸恵は友達に
東京へ行くのは嫌だと話していたと・・・書かれている。
この件については、大正十一年四月九日の両親に宛てた手紙でこう書いている。

『 此の間申し上げました私の上京について申し上げますが、お父様は
御不賛成だと云う事で、私たいへん心細くなりました。何卒後生のお願い
ですから、お父様ご賛成下さる様におねがい申し上げます。
上京と申しましても別に大へんな野心があってでは無いのです。
金田一様のお家へ行って、奥様のお手許で裁縫でも台所の方にでも
お手伝いして、傍ら金田一先生のアイヌ語研究のお話相手をするのです。
べつに身体を動かして大して気を労する事でもありません。
東京見物でもして、気をかえて見ようと思います。今は平和博覧会も
開かれていますから一生の思い出のたねに旅行をして見たいと思います。
東京の気候が私のからだによくないならば、一月ででも帰って来れば
よいと金田一先生も申されましたから。そして、よかったら長くいれば
いいそうですから、先ず見たいので御座います。折角の此の機会を
逸したくないのです。・・・・・今、アイヌ語民譚集というものを書いています
この原稿が書き上がると、炉辺叢書とかいうののうちの一冊として
金田一先生のお世話で出版して貰えるのだそうです。その炉辺叢書の
主宰者は柳田国夫とかいう人で五月の半頃に欧州へ行かれるとか
いう話で、原稿は本月中に書き上げる事になっていますで、私は今
毎日それを書いています。 』

幸恵は、自分から東京へ行きたがっていたことが解る・・・
そして、原稿は四月いっぱい掛かって居て・・・神謡集の三月一日の日付では
未だ、未完であったことも・・・幸恵が東京に着いたのは五月十三日 (*^_^*)
その前に原稿は、送ったと思うが・・・訳は付いて居なかったのではないか?

八月二十九日に転記して於いたノートの訳文は金田一博士の書き字に
違いなく・・・結局、柳田国男に博士は叱られたのではないのか?
金成マツさんも知里幸恵も訳すことが出来なかったんではないのか?

幸恵のものがモナシノウクから聞いたものだとすると・・・
モナシノウクが当代随一の伝承者というのは、完全に覆る。(*^_^*)
 

2013/10/03 (木)  パソコンの処分・・・


次女と女房と私の古いパソコン処分して来た・・・新しいワークステーションを
買ったDO-MUで安く処分して呉れた。・・・さっぱりした (*^_^*)

金田一京助筆録ユーカラノートのマイクロフィルムを発見し2010/11/03に
初めてコピーして始まった翻訳・・・二年八ヶ月で訳し終えここまで来れたのは
矢張りパソコンのお陰・・・それとホームページをやっていたから
更にCGIを許可しているプロバイダーBiglobeのお陰でもある (^_^)v

パソコンがなかったら気の遠くなるような時間が掛かり・・・
途中で挫折していたように思う。しかし、やり通せた
お陰で国立大学の先生方とユーカラ談義が出来るのは、人生の宝
今後のアイヌの考古学・哲学・社会学などに資料を提供出来ると思う。
ワカルパ翁が残したアイヌの全てを世に出して上げたい。

先月、道東巡りで19・20日に泊まった屈斜路湖のプチホテル丸木舟
ユーカラを訳しているとき・・・ホッと一息つく時聴いたCD・・・
シノッチャキ房江さんの美しい声・・・ニンカリさんのシンセサイザー
アト゜イさんのギター・・・もの凄い迫力と繊細さで素晴らしかった。
CDではトランペット吹く人居るのか?と思って居たら違った。
シンセサイザー2台使っての演奏だった・・・
ニンカリさんは、北大薬学部を出られた女性だと知った・・・
良い旅でした・・・(*^_^*)
 

2013/10/02 (水)  さぁーーて、キノコ狩りの季節・・・


今年は、ボリボリ(ナラタケ)が良いようで・・・穴場を見付けに歩いてみようかな?

家族でニセコに行ったとき、初めてたまご茸を一本見付けた。
ナラタケも5・6本採った・・・道の駅で売っていたのは400円だった。
へぇーーと云って2パック買って来た・・・(*^_^*)
ナラタケは見栄えが悪いが・・・美味しいキノコ
 

2013/10/01 (火)  さぁーーて、ユーカラの読み直し・・・


今月からユーカラの翻訳の完成度を上げる為、読み直してみようと思う。
又、新たな発見があるかも知れないネ (*^_^*)

旭川の川村カ子トアイヌ記念館の展示品が充実しているのには驚いた。
ユーカラに出て来るものが揃っている。金属製のムックリもあった。
ラッコの皮もあったし、ケツシもあった・・・
これでユーカラを読む方の楽しみ方が倍増すると思う。

日高平取のアイヌ文化博物館のチシナプカムイ(草人形の神)が
ワカルパ翁の説明とは違っていたり・・・色々なこと確認出来た。