転校生・
第三章
二月の終わりごろ、ぼくたちはテスト漬けになっていた。
授業が始まると答案用紙が配られ、それを二十分で仕上げる。残りの時間は模範解
答をもとに重要ポイントをみっちりと教え込まれる。それで、一年後の受験に必要な
知識を今から記憶させようということらしい。
三月の学年末テストまでの三週間、ほとんどの授業がこうして練習問題を数多くこ
なすことに使われる。
生徒たちは、初めのうちこそ試験ということで、真剣な面もちで答案用紙に向かっ
ていたが、数日たつと、もううんざりとした顔つきで、いやいや鉛筆を動かしている
だけだ。普通の授業のように居眠りをしたり、ノートにいたずら書きをして息抜きを
する暇がないのだ。
そんな中でぼくは、素敵な楽しみに出会っていた。
数学の授業が終わると、翔子はぼくの机の上に自分のノートを広げた。
「いまの図形の証明問題、わかった? 柴田くん、数学が好きだって言ってたでしょ
う」
授業中、ぼくも先生の説明が変だと思っていた。あれでは、説明されてかえって混
乱してしまう。
「あんな面倒な方法を使わなくたって、こことここの間に補助線を引けばいいんだ」
ぼくは、黒板から丁寧に書き写された図形に、一本の直線を書き足す。
「ここと、ここが相似だから、AとDは同じ角度でしょう」
翔子のノートに小さな書き込みをする。そんなことで、ぼくは胸が少しどきどきし
ていた。
「そうか。そうよね。こんなに簡単にできるんだ」
翔子が頬を輝かせる。
「ありがとう。柴田くんって、教えるのが上手なのね」
黒い瞳がきらきらしながら、ぼくを見つめている。
「そんなことないよ」
ぼくは目を伏せた。
翔子は授業でわからないことがあると、なんでもぼくに尋ねるようになった。
それに一つ一つ答えているとき、ぼくは翔子が自分のものになっているような気が
した。
毎晩、ぼくは二階の自分の部屋に上がると、翌日の出題の予想を立て、不明瞭な部
分は時間をかけて復習した。すべて、翔子の質問に満足のいく応答ができるようにす
るためだ。
ここの所を聞かれたら、どんな説明をすればいいかとか、彼女ならこんなことはと
っくに知っているだろうとか、そんなことばかりを考えていた。
犬と人間は、何も実質的な報酬がなくても、ただほめてもらえる喜びだけのために、
割に合わない努力ができる動物なんだそうだ。
それでもちっともかまわない。
いったい今までのぼくは、何のために夜遅くまで机に向かっていたんだろう。
いつのまにか、翔子に会い、話をすることが、学校へ行く最大の目的になっていた。
ぼくにとってただ一つの悩みは、このささやかに満たされた日々が、あと幾日も続
かないということだ。
三年になればクラス替えがある。一学年六クラスある中で、翔子と同級になれる可
能性はたった六分の一だ。クラスが違えばこんなこともできない。話す機会のなくな
った翔子は、ぼくを忘れてしまうだろう。
ぼくの不安と焦燥とはまったく無関係に、短い三学期はまたたくまに過ぎていった。
◇ ◇ ◇
学年末テストが終わった。
きのうの日曜日には三年生たちの卒業式があった。
月曜日の朝、三年生がいなくなった通学路はがらんとして、在校生たちは、もう半
ば春休みになったような気分で、だらだらと校門をくぐっていく。
今日から終業式の前日までの五日間、各科の教師たちはテストのできぐあいを点検
して、生徒たちの苦手な部分を重点的に再授業することになっている。
熱心なことだ。
でも、そんなことをしても、試験という大仕事を終えてしまった生徒たちは居眠り
をするだけだろう。
職員室の前を通りかかると、生徒たちの人だかりができている。こんなとき、背が
高いのと、視力がいいのは便利だと思う。
ぼくは人混みの頭越しに、廊下の壁に貼られたワラ半紙のリストを眺めてから、教
室に行った。
「柴田くん、すごいじゃない」
席に着いたとたん、前の席の翔子がこちら向きになって、身を乗り出してくる。
「転校してきて最初のテストで学年一位。秀才ってこういう顔をしてるのね」
鼻がくっつきそうなほど近寄って、ぼくの顔を見つめる。ぼくはあわてて体を引い
た。
「まぐれだよ」
丸く見開いた黒い目にどぎまぎしながら、ぼくは詰め襟のホックと一番上のボタン
をはずして、中に風を入れた。
「わたしもね、柴田くんとは比べものにならないけど、成績が上がったのよ。柴田く
んのおかげね」
興奮したとき、翔子の声はちょっと大きくなる。こっちはただでさえ目立つ転校生
だ。窓を締め切った教室は少し暑かったが、それよりもクラス中の目がこっちを見て
いるような気がして体がほてった。
「よかったね」
と言いかけたとき、翔子の顔が突然曇って笑顔が消えた。目はもうぼくを見ていな
い。
どうしたんだろう。
ぼくは翔子の視線をたどって振り向いた。
廊下側の窓の一つが肩幅ほど開いた中に、人影があった。窓はすぐに閉まったが、
ぼくはその顔を見ていた。冷たい薄笑いが目に残った。
三年の男子生徒だ。名前は知らないが、ときどき、あの江藤や久保井と一緒にいる
ことろを見かけたことがある。
どうして、卒業した三年生が学校に来ているのだろう。
靴のかかとを引きずるような足音が、廊下を遠ざかっていく。
首をもどして翔子を見た。
翔子は自分の机に向きなおり、硬い表情で黒板の方を見つめている。
「どうしたの?」
ぼくは後ろから小声で話しかけた。
翔子は前を向いたまま、小さく頭を振るだけで返事もしない。理由を尋ねられるこ
とを拒絶するかのような後ろ姿に、ぼくはそれ以上の言葉を飲み込んで、唇を噛んだ。
授業が始まっても、ときおり思い詰めたような目で窓の外を見ている。いつものよ
うに、後ろのぼくに話しかけてくることもない。
次の休み時間にもう一度、どうしたのかと聞こうと思っていた。しかし礼が済むと、
翔子は後ろも見ずに駆け出すように教室を出て、次の授業のチャイムが鳴るまで戻っ
てこなかった。
今日から授業は午前中で終わる。
結局この日、翔子は二度とぼくの方に向かうことなく、終業と同時に逃げるように
教室から出ていった。
翔子がいつも陽気で明るくふるまっているばかりでないことには、ぼくは前から気
付いていた。
廊下の窓ぎわにひとりたたずんで、遠くの方を見つめているときの、なぜか影を含
んだような大人びた表情を知っている。
クラスメートたちの話の輪の中にいるとき、ふと言葉が途絶えて、うつむくように
自分を閉ざすことがある。
それは高志が言いかけた『夏休みのこと』に関係があるのかとも思っていた。
でも今日の翔子の態度は、どう見ても異常だ。
翌朝、普段はクラスでも一、二を争うほど早く登校するのに、一時間目が始まるぎ
りぎりの時刻になってから教室に入ってきた。
それでも、もう休み時間のたびに消えるようなことはない。いつものように友達と
ふざけたり、笑ったりもしている。
他の生徒たちは、翔子の変化に気付いていないらしい。
でも、ぼくにはわかる。
ぼくが話しかけてもぼんやりした返事しか返ってこない。終業時間になると、学校
にいるのが辛いとでもいうかのように、すぐいなくなる。
いつもの翔子とは明らかに違う。
なにがあったんだ。
心配でたまらなかった。
しかしぼくは、翔子にそのわけを尋ねることができなかった。
ぼくには自信がなかった。
出会ってから、まだ二カ月しかたっていない。本当のところぼくは、翔子のことを
何も知らないのだ。
不用意に触れられたくないことを尋ねて、かえって翔子を傷つけ、嫌われることを
恐れていた。
◇ ◇ ◇
なにもできないまま四日が過ぎ、金曜日になっていた。
放課後、ぼくは図書室で時間をつぶし、図書室が閉まると体育館の前で待った。
高志が柔道の練習を終えて出てくると、やあ、と声をかけた。高志はちょっと驚い
たような顔をしたが、すぐに嬉しそうに片手を上げた。
ぼくたちは並んで自転車を押しながら学校を出た。
「浅井さんの様子が心配なんだ」
ぼくはすぐに核心に触れた。
どうした? というような表情で高志が振り向く。
「学年末テストの成績発表の日から、ずっと変だったから」
「そうかなあ。ちょっと元気がなさそうな感じもしたけど、あいつだってそういう日
もあるだろう」
高志も気付いていなかったのか。
「違うよ。ぼくはひとの表情を読んだり、言葉の裏にあるものを見抜いたりするのは、
もともと苦手だ。でも浅井さんのことならわかるんだ」
高志は小さな目を丸くしてぼくを見つめ、にやっと笑う。
「ほう、そうだったのか」
ぼくは自分の言ったことの意味に気付いて、真っ赤になった。
「そうじゃないけど……」
高志はしばらく笑っていたが、ぼくの真剣さを知って表情を引き締めた。
「ほんとうに、変だったのか」
「とても心配なんだ。前にきみは、浅井さんが変わったって言っていたよね。あれは
どういう意味なの?」
これを聞くことが、今日高志を待った目的だ。
高志は少し考えるようにうつむいていたが、やがて心を決めたように顔を上げた。
「去年の夏休みの終わりごろ、翔子が家出をしたんだ」
意外な話だった。
ぼくには翔子が家を飛び出す理由を思いつけなかった。
「なんで家出なんか」
「あいつのおふくろさんが、男の人と、その、付き合い始めて……」
高志はこういう話は苦手らしい。
ぼくも下を見たまま聞いていた。
「相手はまじめな人だし、あいつのおふくろさんだってまだ若いんだから、好きな人
ができたって不思議じゃないって、うちのおふくろはそう言っていた」
「浅井さんはそのために家出したのか」
「翔子はそのことをまったく知らないでいて、近所のおばさんかだれかに、突然聞か
されたらしい。それで余計に傷ついたのかもしれない。家出なんて、やりすぎみたい
な気がするけど、自分の母親のことになるとそういうものなのかな」
よく話してくれたと思った。
ぼくを、それを知ってもいい人間だと認めてくれた。そのことは本当に嬉しい。
しかし、気がかりはさらに増えただけだ。
「それで、いつ帰ったの」
「親子で口論みたいなことになって翔子が家を飛び出してから、夕方、おふくろさん
がうちに相談に来たんだ。うちのおふくろとは古い友達だから。夜になれば戻ってく
るだろうと言っていたんだけど、結局その日は帰ってこなかった」
「みんな心配したんだろうね」
「ああ。翌日の午後になっても帰らないので、またおふくろさんがうちに来て、学校
や警察に届けようかと相談していた。結局、もう少しだけ待ってみる、と言って家に
戻ってみたら、あいつその間に帰ってきていて、自分の部屋で布団をかぶって寝てい
たということだ」
ほっとしたような気持ちになった。
「警察なんかに届けて、大ごとになる前でよかったね」
「うん、だからこのことは学校でも知らないんだ」
ぼくは高志の目を見ながらゆっくりとうなづいた。
わかっている。決してだれにも言わない。
「でも、一晩どこにいたの。友達のうちかなんかだったの?」
「どこにいたのかは、何度きいても、どうしても言おうとしなかった。一人で帰って
きて、シャワーを浴びて、すぐに寝込んでしまったということだから、徹夜でその辺
をうろついていたんじゃないのかな」
「浅井さんはそのあともずっと、おふくろさんに反発していたの?」
「そんなことはないと思う。おふくろさんはすぐに交際をやめたそうだし、翔子は心
配をかけたことを謝った。男の人と別れたおふくろさんのことを、かえって気遣って
いたそうだ。みんなうちのおふくろから聞いたことだけど」
「浅井さんが変わったというのは、そのためなのか」
「よくわからない。でも、あのあと二学期が始まると、あいつはおれたちを避けるよ
うに、ほとんど口をきかなくなった。ハンドボール部もやめてしまった。当然部長に
なるようないい選手だったのに」
ぼくは、ハンドボールのことを聞かれてうつむいた翔子の表情を思い出した。
「あいつはあれで、結構クラスの人気者だったから、みんな心配したんだ。病気じゃ
ないかとか、失恋したんだろうとか、勝手なうわさもたったけど、二学期の終わりご
ろには、だんだん元気を取り戻してきた」
「それできみは、始業式の日、江藤たちに噛みついた浅井さんに、あんなことを言っ
たんだね。男勝りが一番似合う、なんて」
「安心したんだ。ほかの連中だって嬉しかったと思う」
そうだったのか。
ぼくは嘆息をついた。
「ぼくは何も知らないまま、浅井さんと向かい合っていたんだね」
「それがかえってよかったんだと思うよ」
心の傷に触れられることなく付き合っていられたことが、翔子の痛みを癒していた
のだろうか。
ぼくが少しでも翔子の力になれていたのだったら、それはとても嬉しいことだ。
でも、疑問はすこしも解決されていない。
「浅井さんが最初におかしくなったとき、廊下の窓から三年生が彼女のことを見てい
たんだ。よく江藤や久保井といっしょにいるやつ」
「あの背が高くてごついやつか。矢部だ。矢部洋司」
高志はすぐに答えた。
「前は野球部のピッチャーをやっていたんだけど、二年の途中から新宿あたりの高校
生のグループと付き合うようになって、悪くなった。他の部員たちとぶつかって、野
球部もやめた。体がでかいから、高校生とも対等に渡り合うらしい」
「浅井さんは矢部と付き合っていたことがあるの?」
「まさか。ときどき声をかけられたりしたらしいけど、いやがっていたよ」
「じゃ、なぜあんなに怯えたんだろう」
「きみの思い過ごしじゃないのか」
ぼくには何とも言えなかった。もともと具体的な確証があるわけではない。ぼくが
不安に感じているだけのことなのかもしれない。
「これも思い過ごしかもしれないんだけど……」
数日前から気になっていたことがある。
「浅井さんは江藤と久保井を避けているようだった。あの二人が彼女のことを変な目
つきで見ていて、彼女がそれから逃げるように教室から出ていくことが何度かあった
ような気もする」
翔子が始業式の日の例のことで、彼らに嫌がらせをされているのなら、ぼくにも責
任があると感じていた。
高志は考え込むような表情をしている。
「江藤と久保井は、さっきの家出の話は知っているの?」
「そんなはずはない。担任だって知らないんだから」
結局、翔子の異常の原因は何もわからなかった。
いつもの交差点に着いていた。
「これからおれも、翔子のことを注意して見ていることにするよ」
別れ際に高志が言った。
そこで左右に分かれて自転車に乗ったとき、ぼくは明日が終業式で、翔子のそばに
いられるのはあと一日しかないことを思い出した。
(続く)