転校生・
第二章
沢村高志はどんなに寒い日でも、学生服の下に、やや厚手の綿のシャツ一枚しか着
ていない。
「寒くないの?」
北国の寒さに慣れているぼくにも、それは驚きだった。
「寒い寒い。でも柔道は冬でも道着ひとつだからね。慣れるためのやせ我慢さ」
がたがた震える真似をして、笑う。
高志は柔道部員だった。
背は普通より少し高い程度だが、首が太くずんぐりとした体つきは、これ以上柔道
向きの体型は考えられないほどだ。
ぼくは放課後、何度か彼の練習をのぞきにいった。中学生で初段という腕前がどの
程度の強さなのか知らないが、彼が練習熱心で、指導の先生や先輩たちから信頼され
ていることも、後輩たちに慕われていることもよくわかった。
ぼくは、高志とすぐに親しくなり、多くのことで彼に頼るようになった。クラスの
生徒たちのこと、先生のこと、こまごまとした校則のこと。それに近所の地理や、う
まいパン屋まで彼に尋ねた。
柔道の練習のない土曜日は、二人で下校するのが習慣になっていた。
途中で道が別々になるところまで、二十分ほどの帰り道を、自転車を押してぶらぶ
らと歩く。
「やっぱり進学校は違うな。英語の授業なんて、みんな積極的で自分からどんどん質
問するし」
わきを通り過ぎるトラックに自転車を引っかけられないように注意しながら、ぼく
は学校の感想を述べた。
「うちのクラスだけさ」
高志はおかしそうに笑う。
「え、どうして?」
「おれたち、あの中田先生を泣かせたことがあるんだ」
「先生を?」
「去年の春、先生になって最初の授業がおれたちのクラスだったんだ。すっかりあが
って、声が裏返って」
今日の授業では、水色のワンピースに紺のカーディガンを羽織っていた、元気な若
い女の先生のことだ。
「それを面白がって、生徒たちが真似をしたんだ。最初は誰だったかな、教科書を読
むように言われたやつが、みんなふざけて裏声を出した。五人ほど続いたら、先生と
うとう泣きだして、教室を飛び出していった」
「中田先生が……」
小柄で、ときどき少女のような表情を見せる英語の先生が、職員室の机に泣き伏す
姿が目に浮かんだ。
「クラス全員で職員室に謝りにいったよ。おれは一学期の学級委員だったんで、一番
前に立って、しっかり勉強しますから授業をしてください、って」
「それでいまでも?」
「そう。中田先生と親しくなれたし、うちのクラスは学年で英語の成績が一番いいん
だ」
「たまには先生を泣かせてみるものだね」
二人で笑った。
「ああそうだ、最初に裏声を真似したのは江藤だ」
江藤明夫。最初の登校日に、ぼくにからんだ背の高い方だ。
もう一人の少し太り気味の方は、久保井徹といった。
「あのころは江藤も久保井も、いたずら好きという程度だったんだ。それがだんだん
本当のワルになってきた。きみも転校してきたとたん、いやな思いをしたな」
「女子たちに助けてもらった」
ぼくは頭を掻いた。
「おおい、少年たち、道草くっていないで、さっさとおうちに帰るんだぞっ!」
後ろから元気な声が聞こえた。顔を見なくても誰だかわかる。
長い髪を後ろになびかせて、浅井翔子が自転車でぼくたちを追い抜いていく。
「よそ見していると、電柱にぶつかるぞ」
高志がやりかえす。
翔子は少し先の十字路を右に曲がって消えた。そこはいつも高志とぼくが別れる交
差点だ。
「元気なひとだね」
「あいつ、おれのうちのすぐそばなんだ。小学校に行く前から知っていたし、どうい
うわけか小学校の六年間ずっと同じクラスだった。中学に入ってやっと別のクラスに
なったと思ったら、二年でまた同級生さ」
ぼくは高志がとてもうらやましくなった。
引越しと転校を繰り返してきたぼくには、そういう幼なじみは一人もいない。
「仲がいいんだな」
「どうだか。あいつ小さいとき健康優良児でね、体が大きくて、おれはいじめられっ
ぱなしだったよ」
「え?」
「おれたち、母親同士が昔からの友達なんだ。だからよくお互いのうちに遊びに行っ
ていたんだけど、あいつはおふくろさんからいつも、高志ちゃんを泣かしちゃいけま
せんよ、って言われていた」
ぼくは噴き出した。
翔子にぶたれて、母親のところに泣きながらとんでいく高志の姿は、とても考えら
れないことのようでもあり、なんとなくありえそうなことでもある。
笑いながら、ますます高志がうらやましくなった。
「ああいうひとって、そばにいるだけでまわりが明るくなるね」
「それがあいつの唯一の取柄だろうな」
そんな言い方をしたのは高志の照れだろう。
翔子は、クラスの男子たちの話題にもよくのぼるし、廊下などで上級生に声をかけ
られている姿をときどき見かける。
スカートを翻して教室に駆け込んでくるときの翔子は、明るくて伸びやかで、はっ
とするほどきれいだと思う。
「あいつ、父親がいないんだ」
えっ、と高志の顔を見た。
「なんかの病気で、小学校に入る前に亡くなった。おふくろさんは美容師で、遅番の
仕事の時は、帰りが夜中の十二時近くになることもあるそうだ。そんなことを考える
と、あいつもがんばってると思う」
「そうだったのか」
ぼくは、自転車で追い抜いていった笑顔を思い浮かべていた。
「やっと、もとのあいつらしくなってきた」
高志が独り言のようにつぶやいたのを、ぼくは聞き漏らさなかった。
「どういうこと? ずっと今みたいじゃなかったということ?」
高志は少し困ったような顔をした。
「ちょっとね。去年の夏休みのあと、しばらく元気がなかったことがあったんだ」
「夏休みになにかあったの?」
「たいしたことじゃないんだ……」
ぼくは、翔子の明るさの陰に秘めたものを知りたいと思った。
しかし、高志はそれを話すべきではないと考えている。彼はそういうことを話すこ
とは決してしないだろう。
ぼくは深追いはしなかった。
ちょうどいつもの十字路に着いた。
「じゃあな」
ぼくたちはちょっと片手を上げ、ぼくは左に、高志は右に曲がって自転車に乗った。
◇ ◇ ◇
「ずいぶん何度も転校したのね。勉強なんか大変だったでしょう」
昼休みの食事のあと、浅井翔子は後ろ向きになってぼくに話しかけてきた。
最初の日に、危機を救ってもらったような格好になってしまったので、なんとなく
引け目があったし、クラスの他の生徒たちからもそのように見られているのも、気が
重いことだったが、ぼくは翔子の明るい大らかな性格が好きだった。
「勉強の方は、どこの学校でも同じようなものだから、そんなに苦にならないけど、
仲良くなった友達と離れるのは、やっぱりさびしい」
翔子は、今住んでいるところから一度も動いたことがなくて、他の土地のことに興
味をひかれるようだ。
「柴田くんは東京生まれでしょう。青森で苦労しなかった?」
「最初、言葉がわからなくて、困ったこともあったよ。こっちの話すことはわかって
もらえるんだけど、むこうの言うことがわからないんだ」
「そんなに違うものなの?」
「学校でサッカーをやっていてね、ぼくの足元にボールがころがってきたんだ。そし
たらみんなが『ふめ! ふめ!』って怒鳴る。ボールを止めろっていうことだと思っ
て、靴の裏でボールを押さえたのに、みんな、いらいらした口調でまた『ふめ! ふ
め!』って」
先が聞きたくてたまらないという顔で、翔子が身を乗り出す。
「ぼくはあせって、膝を高くあげて、一生懸命ボールを踏み続けた」
「なんでよ。それサッカーだったんでしょう?」
「みんなぼくの周りに集まってきて、なにをしているんだって、呆れ顔をするんだ。
『ふめ』っていうのは『蹴れ』っていうことだった。あれは恥ずかしかった」
翔子が苦しそうに腹を押さえる。
「柴田くん、変だとは思わなかったの」
「思ったさ。でも『ふめ、ふめ』だよ。サッカーボールを必死な顔でポコポコ踏んで
いる格好は、さぞかし間抜けだったろうな」
翔子はころげ回って笑う。
「そんなに笑わないでよ。恥を忍んで告白したんだから」
そう言いながら、ぼくは嬉しかった。翔子の笑い顔も笑い声も好きになっていた。
「柴田くん、サッカー部に入っていたの?」
ようやく発作が治まった翔子が尋ねた。
「ちがうよ。普通の体育の授業」
「それじゃ、背が高いから、バスケ?」
背が少々高いというだけで、なにかの選手になれるなどということは決してない。
「まさか。ぼくはスポーツは全然だめ。浅井さんなんて、運動神経がよさそうだし、
運動部にいるんでしょう?」
「去年の夏ごろまでハンドボールをやってたけど、やめたわ」
「どうして、やめたの?」
「ちょっとね……」
翔子の笑顔がつかのま消え、少し首をかしげるような仕草で下を向いた。
怪我でもして、やめたのかもしれない。
そのことが今でも、翔子にとって悔しくて辛いことならば、深く尋ねない方がいい
と思った。
「足は遅いし、不器用だし。ぼくは運動会も大嫌いなんだ」
「どうして? あんなに楽しいのに」
翔子はすぐに元の表情を取り戻していた。
「運動会が楽しいのは足の速いやつだけだよ。ぼくは運動会の日が近づくと、大雨に
なりますようにって、お祈りをしている」
「ひどいなあ」
「運動会の競走はビリ以外取ったことがない」
「ほんと?」
「あっ、一度だけ二等賞になったことがある」
「立派じゃないの」
「そうでもないんだ」
翔子が興味深そうにぼくの顔をのぞき込む。翔子は人と話をしているとき、いつも
じっと相手の目を見ている。
「小学校の三年のとき、親父の会社の社内運動会っていうのがあって、飴食い競走に
出たんだ」
「アメクイって、飴をたべるの?」
「そう。粉の中に隠してある飴を、手を使わずに口でくわえて取ってくるやつ。やり
たくなかったんだけど、無理やり参加させられた」
ぼくは顔をしかめた。
「ぼくはスタートの直後に転んだ」
「かわいそう」
「当然、飴の箱にたどり着いたのは一番ビリだった。ところが運のいいことに箱の前
でぼくはまた転んだ」
「どうしてそれで運がいいのよ」
「他の子供たちは、顔が粉だらけになるのがいやで、おそるおそる口先で飴を探して
いるんだ。つまづいたぼくは、そのまま粉の中に顔をつっこんで、あわてて起き上が
ると、口の中に飴が入っていた。そのあとなんとか転ばずにゴールインしたら二等だ
った」
「あははは」
「あんな幸運がなかったら、ぼくは一生二等賞なんて取れなかっただろうな」
「柴田くんて、まじめそうな顔をして面白いことを言うのね」
翔子はまだ笑っている。
自分では、そんなに変わった話をしたつもりはないけれど、翔子が喜んでいるのを
見るのは楽しい。
「柴田くんて、そんなによく転んだの?」
「今でも、よく転ぶ」
「うそばっかり!」
いつまでもそばにいて笑顔を見ていたい気持ちだった。
そのときまだ、ぼくは自分が恋をし始めたことに気付いていなかった。
(続く)