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怪談・
味
みんなで怪談話をしよう、ということなので、私も体験談をひとつ。
これは、いままで誰にも話したことがありません。
十二、三年も前になるでしょうか。
サラリーマンとして、もう若手とも呼ばれなくなった頃のことです。
◇ ◇ ◇
十二月の初めだった。
私は出張で北陸のA市に行くことになった。
単調な通勤生活に飽きたとき、地方への出張はいい気晴らしになる。日本海の魚が
うまいという以外、取り立てて名所も名物もない地方都市だが、金曜日の午後に東京
を立ち、仕事が片付けば向こうで一泊して、翌日は出社しなくてよいという好条件に、
私はその日の朝から浮きうきしていた。
取引先との打ち合せを無事に終え、夜には中州の飲み屋街に繰り出してお定まりの
小宴会となった。その土地ではちょっと高級なバーで二次会も済ませた。
十時過ぎだった。そこで取引先の社員たちと別れたが、まだホテルに戻るには早す
ぎる。
コートの衿を立て、白い息を吐きながら、一人であてもなく歩いているうちに、狭
い路地に迷い込んでいた。
左右の家の軒が長く道の上にせり出している。まばらな街灯が弱々しくまたたき、
空気は重く淀んで、洞窟の中を進んでいるような気がした。
私は小さな赤提灯を見つけ、引き戸を薄く開けて首を突っ込んだ。
七、八人の客でカウンターはすでに一杯になっていた。どこの都市にもいる黒っぽ
い背広を着たサラリーマンたちが、賑やかに飲んでいる。
引き返そうとすると、灰色の頭を短く刈り込んだ店の親父が、客たちに席を詰めさ
せてくれた。
つき出しの塩辛をつまみにして酒だけを注文した。
いつの間にか、銚子を四、五本空けていた。
とっくに自分の適量を越えていることを知っていながら、なぜかやめることができ
ない。
「もう一本つけようか」
帰ろうかと思うと、カウンター越しに親父が愛想よく声をかけてくる。
「じゃあ、あと一本だけ」
さらに数本の空徳利が私の前に並んだ。
「もう一本いくかい」
「やめておくよ」
やっとその言葉が出て、ほっとしたような気分で金を支払った。
コートを着込みながら、私は親父に尋ねた。
「近くにうまいラーメン屋でもないかな」
そのとき、親父の顔が奇妙に歪み、数人残っていた他の客たちが、息を飲んでこち
らを見た。
ろれつの回らなくなった私の話し方がおかしかったらしい。私は照れ笑いをした。
「この路地をもうしばらく行くと『蓬莱軒』というのがある」
「そこ、うまいの」
「味はまちがいなくいいが、親父が変わり者でね」
他の客たちはもうこちらを見ていないが、さっきまでの賑やかなしゃべり声は止ん
でいた。
私はその先の言葉を促すように、うなづいてみせた。
「味をほめたり、質問したりするのは、よしたほうがいい」
どうして、と聞き返そうとしたときは、もう横を向いて他の客の注文に応じている。
私は引き戸を締めて、路地のさら奥に向かった。
『蓬莱軒』はなかなか見つからなかった。
路地の両側に開いている店はなく、ぽつぽつと灯る街灯の光しか見えない。足取り
がおぼつかなくなっていた。すでに十二時を回っている。
あきらめてホテルに帰ろうと思ったとき、赤いラーメン屋の看板を見つけた。
引き戸を開くと、頭が灰色になった親父が、いらっしゃい、と言った。
カウンターの前に席が十ほど並んだ、どこにでもあるような小さな店だ。四、五人
の客が黙々とラーメンを食べている。
メニューもなく、ただ『ラーメン』と書いた古びた木札が、向いの壁にかかってい
るだけだった。
私はそれを注文して、できあがるのを待っていた。
その十五分ほどの間にも、客が入れかわり立ちかわり入ってきた。さっきここを捜
して路地を歩いていたときは他に誰も見かけなかったのに、と私は首をひねった。
一切れの焼豚とメンマ、それにナルトと海苔。目の前に置かれたラーメンはごく普
通の醤油ラーメンだった。
口に入れてみても、とくにまずいともうまいとも言えないような、平凡な味だ。
この街ではうまい店といってもこの程度のものなのだろう。失望よりも、なんとな
く安堵感を抱きながら食べ続けた。
それでも、腹は満たされ、体も温まった。
残ったスープをすすっているとき、おやっ、と思った。
体の深部から、熱い官能が沸き上がるような感覚だった。
いままで一度も口にしたことのない味が隠されている。
探るように、スープを舌の上で転がした。
実にうまい。
しかし、何の味なのか。
そのとき、赤提灯の親父の言葉を思い出した。
「味をほめたり、質問したりするのは、よしたほうがいい」
私は満腹で、しかもかなり酔っていた。
「うまいね。これ」
私の左右にいる客たちが箸の手を止め、一斉にこちらを見た。さっき赤提灯で出会
った光景と同じだった。
「ありがとうよ」
当り前の返答がにこやかに返ってきた。
どこが変わっているというのか。
じっと顔を見ると、赤提灯の親父によく似ている。
「なんだろうな、この味。何か隠されているんだろう?」
私は少し調子に乗りすぎた。
周囲からため息のような声が上がったような気がした。だが、見回すとさっきまで
いたはずの客が一人もいなくなっている。
変だな、と思いながら、私は親父の笑みに引き寄せられていた。
「秘密があるんだよ」
こちらの目を覗き込むように、ゆっくりささやいてくる。
「見てみるかい」
「え?」
「こっちへ来て見な」
私は席を立ち、ふらつく足を一歩一歩踏みしめて、カウンターの端から調理場の中
に回り込んだ。
流しの脇に、麺の木箱やどんぶりなどが積み上げられ、かなり薄暗い。
親父は調理場の一番奥で手招きをしていた。
近寄ると、足元に大きな鍋が置いてある。
「これが秘密のスープだ」
自慢げに言いながら蓋を開けた。
私は危険な好奇心に誘われるまま、息を詰めて中を見た。
黒っぽいボールのようなものが茶色い液体の中に浮いているが、暗くてよくわから
ない。
私は腰を屈めて、鍋の底を凝視した。
「かぼちゃ?」
「猫だよ」
「うそだろ」
私は親父の冗談に声を上げて笑った。
「猫だよ」
親父は同じ言葉を繰り返して、ひしゃくの柄でそれを突いた。
黒い塊が一度沈んでからゆっくり浮き上がってくる。
四本の棒のようなものがスープの表面に突き出した。
「ほら、よく見てみな」
もう一度ひしゃくの柄を動かした。
くるりと半回転して現れた丸いものには、耳らしい突起が二つ付いている。
私は跳ね起きるように立ち上がって、親父の顔を見た。
その顔は何かに似ていた。
なにかの動物。
鼠だ。
そう思ったとき、私の頭はぐるぐると回りだした。
その後のことは全く覚えていない。
翌朝、気が付いたときは、ホテルのベッドの中だった。
その日の午前中、私はひどい二日酔いに悩まされながら、中州の飲み屋街を歩き回
ったが、前夜の路地を見つけることはできなかった。
◇ ◇ ◇
これが、私のお話です。
飲み過ぎたために奇妙な夢を見ただけだ。
最近までずっとそう思っていました。
しかし、去年の暮れ、私はこの東京でおなじラーメン屋を見つけたのです。
十年前のあの味でした。至福の官能が私を包みこみました。そのときはもう、うま
いとか、隠し味は何かなどとは尋ねませんでした。
翌日また、そこへ行ってみましたが、店は見つかりません。
でも、私は気が付きました。
きまった日のきまった時間に、心と体と天候がある調和に達したとき、その店を見
つけることができるのです。
それがわかれば、店はどこでも見つかります。新宿、池袋、荻窪。松戸にもありま
した。
気のせいか近ごろ、鏡に写る自分の顔が、あのときの『蓬莱軒』や赤提灯の親父の
顔に似てきたように思うのです。
(完)