部分真理と全体真理
「東洋医学は人を治し、西洋医学は病を癒す」といわれる。西洋医学は病の原因を究明し、故障部分をみつけて、これにもとづく病名を決める。病名が決まらなければ、治療方針は立たない。一方、漢方医学は「証にしたがって治す」とされているように、病名を決める必要はなく、「証」を診断することが、そのまま治療につながる。現代社会において、いずれの医学に説得力があるかといえば、いうまでもなく前者である。
18世紀以後の科学を導いた原理―それがもたらしたすばらしい成果―これが原因と結果のつながりを求める現代人の趣向をつくり、人々を西洋医学に向かわせてきた。
動的生化学の基盤をつくったクロード・ベルナールは「実験医学序説」の中で、この科学の原理を《デテルミニスム》の名で呼んでいる。デテルミニスムは「決定論」または「因果律」と訳されるが、同一結果は同一原因に結びついていることを主張するこの原理は
19世紀の科学の公理であって、無生物だけでなく、生命の科学においても侵すことのできないものとされている。ベルナールによれば「この根源のデテルミニスムはアリア―ヌの糸の如きものであって、生理現象の暗黒な迷宮において実験家を指導し、複雑であるが、常に絶対的デテルミニスムによって結ばれている機構を理解させるのに役立つ」というものである。ベルナールはデテルミニスムを唯一の規範とし、体系的哲学の科学への侵入を警戒する。彼の見解によれば、形而上学者やスコラ哲学者は、論理的に推論するのみで実験せず、論理的ではあるがなんら科学的真理性をもたない体系を組立てるので、浅薄な人たちは、しばしば、このような論理の外観によって眩惑されるとしている。
さらにベルナールは生命という言葉に対して次のような批判を加える。「あらゆる生理的現象の説明から生命などというものを完全に取り除くようにつねに注意しなければならない。生命という言葉は無知を表白する言葉にほかならぬ。我々がある現象を生命現象であるというとき、これは我々がその現象の近接原因或いは条件を知らないというにひとしい」「したがって、実験或いは推理の出発点としては、つねに正確な事実、または周到な観察を採用すべきであって漠然とした言葉を出発点とすべきではない」と。
ところが、
20世紀の科学はベルナールにとって、まったく予想外の進展を示しつつあるといわねばならない。絶対不変の科学の原理と考えられた因果律は統計的確率性とおきかえられ、因果性は多数の要素の平均的振舞いを述べたものであり、個々の要素の振舞いは確率的にしか言い表せないことが明らかにされた。現代科学は論理的な形而上学によって対象を数学化し、実験的現象と数学的構造の奇妙な対応を見せているのである。そして、ベルナールが科学の世界から閉め出したはずの〈生命〉という言葉が科学と結合して、「生命科学」は基礎的な学問の分野でも、応用分野でも、その新しい展開が注目されるようになった。 生命を対象とする科学といえば、医学、生物学、心理学など、すでにいくつもの個別科学が存在している。何故に「生命科学」といわなければならないのであろうか?
慶応大学の沢田允茂教授は「生命科学
Life Science という新しい言葉が使われはじめたということは前の表現にはなかった新しい意味とそれに対応する新しい状況が現在の社会のなかに生じているから」であり「生命の科学の名のもとに人々が問題にしようとしているものは、まさに哲学の問題である」とされている(「理想」四八二号) 沢田教授も指摘される通り、科学者たちは哲学に対して潜在的な不信感をもっており、その無意識な不信感が科学者たちをして、本来きわめて哲学的な問題を「生命科学」という名称で問題にせざるを得ないようにさせたともいえる。まさに現代社会は科学と哲学の融合を無意識のうちに求めているのではなかろうか。ベルナールにとって全体は問題外であった。現象の相対的デテルミニスムが確立されたならば科学上の目的は達せられたのであり、生命現象であろうが、無機現象であろうが、すべての現象の本態または本質は永遠に知られないだろうということのみが真理であった。比較的の真理或いは部分的真理に達し得ればその認識だけで十分であったのである。しかし、現代社会は、部分的真理で自然を支配しようとしたことが誤りであることを立証しつつある。
21世紀をめざす生命の科学は、部分と全体をともに研究対象としなければならなくなった。生命を部分に分解し、生命現象を部分的要素に還元する立場は要素主義とか還元主義とか呼ばれているが、ベルナールをはじめとする
19世紀の科学者の立場はこれに近い。これに対して、生命現象は部分の単なる総知ではなく、諸要素の全体的な関連に基づくことを強調する立場は全体論と呼ばれている。ドイツの発生学者ドリーシュがウニの胚発生の実験事実から、アリストテレス的全体論の復活を試みたことはよく知られている。現代生物学は部分論的見方も、全体論的見方も排除できないものであり、両者は相補的関係にあることを教えている。
生命の構造を分子→オルガネラ→細胞→器官→個体→社会→宇宙という階層性でとらえるならば、いずれの階層もザブシステムの集合体である。すなわち、すべての階層は部分的サブシステムを以って全体を構成しているが、同時にまた他の階層の部分的サブシステムとなる。全体は部分からなると同時に、全体は部分となるという構造である。生命はどこにあるのかと問われるならば、部分にあるのでも、全体にあるのでもなく、全体と部分が一体不可分となった関係性の中にあるとみなければならない。
アーサー・ケストラーはギリシア語の
HOLOS(全体)に粒子を意味する語尾ON(部分)をつけてHOLON(ホロン)という概念を提案している。ホロンはフォン・ベルタランフィの「一般システム理論」の変形であり「階層性と開いた系」を結合し、樹形化と網状化を有機体構造の相補原理として組み込んだ階層モデルである。階層の安定性はホロンの相反する二つの傾向、すなわち、すべてのレベルにおける自己主張と統合のバランスに依存するという。生命または社会の階層系を構成するホロンはヤヌスの顔をした存在であり、一方は頂端方向に上向きとなって大きな全体の従属部分として機能し、一方は下向きでその固有の権利のもとに自律的全体として機能する。オルガネラ、細胞、筋肉、ニューロン、器官などすべてが外部刺激なしにしばしば自発的なリズムとパターンを持ち、この自己主張的傾向はホロンの根本的かつ普遍的な特徴とされている。一個の人間は、生体という階層の頂端を構成すると同時に、社会の最下部単位である。内部をみれば自足的な独自の全体に思えるが、外部をみれば従属的な部分にみえる。したがって、人間も一つのホロン(全体子)である。ケストラーは「人間精神の変調は、しばしば全体としての仮面をつけたホロンのある部分真理を、あたかも全体真理であるかのように偏執的に追求することによって生ずる」としているが、この主張は、人間のレベルだけではなく、社会レベルにも適用できる。
社会の階層を構成する氏族、部族、民族、職業集団などのホロンは正常な条件下では、動的バランスを保っているが、ストレスの条件下で緊張が臨界を超えると過剰励起された器官のように全体の傷害をひき起こす。現代社会のさまざまの病いは、自己主張と結合のアンバランス、すなわちホロンの構造に起因するものが多いことは疑う余地がない。部分と全体の関係を探る生命科学は、これらの社会の病いの診断にも役立つに違いない。
生命科学がこのような状況に直面しているとき、部分と全体の「不二」なる関係を説く仏法のダイナミックな思考が注目される。 例えば、十界互具という考え方があるが、それを構造としてとらえると、生命の全体を十個の部分的カテゴリーに分けるだけではなく、部分的カテゴリーの中に十個のカテゴリー、即ち全体を見る。全体と部分は包含し合っており、両者を対等かつ、相補的関係で結んでいるが、これは現代生物学が明らかにした階層モデルそのものであることがわかる。また「無量義経」では三十四の「非」で不可思議な生命の実在が表現されているが、相対立する要素または概念を「非」という否定的表現で融合していることも注目すべきことである。
バシュラールがいうように、このような否定的判断によってのみ「肯定的証拠を求めて限りなく続けられる論戦に終止符をうつ」ことができるのであり、相対立する概念のあいだに立ってみてはじめて「二つの相反する哲学がもつダイナミズムをとらえることができる」からである。
アインシュタインは相対性理論について、その名前の由来を「運動というものが経験的可能性の見地からすれば、つねに一つの対象の他にたいする相対的(例えば地面に対する車の、太陽および恒星に対する地球の)運動とみられるという事実による」とし、これを短く正確にいえば「絶対的運動は存在しない」という命題に含まれるとしている。 また「かような否定的命題は我々の洞察になんら益するところがないようにみえるかもしれません。しかし、実際それは自然のあらゆる可能な諸法則に対する強い制限となります。この意味で相対性理論と熱力学とのあいだに類似点があります。後者もまた〈永久運動は存在しない〉という否定的命題に基づいているのですから」ともいっている。
このような思考方法は仏法で説く縁起観と共通するものがあるように思われる。縁起とはすべての事物は原因または条件に依存して成立するという意味であり、「これがあるときかれがある。これが生起するから、かれが生起する。これがないとき、かれがない。これが消滅するから、かれが消滅する」という表現で示されているが、この概念をシチュルバッキーは、文字通り
Relativity(相対性)と英訳しているし、日本の宇井伯寿博士も「相対性」と訳されている。最近、縁起を「相対性」と訳すことについて「間違いだとはいえない代りに、それは何ものも明らかにしていない」として批判や反省がなされているが、「絶対的なものはなにも存在しない」という否定的命題の重要性を再認識する必要があろう。「非」という否定的表現は、決して「反」ではないことにも留意すべきである。アインシュタインの相対性理論は非ニュートン的ではあっても、反ニュートン的ではなく、ニュートン力学の拡張であり、ニュートン力学を包含するものである。
仏法における弁証法的思考は、あらゆるものを包み込んで、際限のない論争に終止符をうち、有限と無限、部分と全体という対立概念を融合する実践的哲理とみることができる。現代の生命科学を導くものはこのような融通無礎の総体的思考であろう。しかし、総体的思考を原理として説くだけではあまりに漠然として問題を解決する上に役立たない。ベルナールの著書が今日においてもなお説得力を失っていないのは書斎の空論家によって書かれたものでなく、ベルナール自身の体験を語っているからである。
ベルナールは〈学説〉と〈原理〉を明確に区別し、学説をむやみに信ずることは禁物であるとする。いわく「強健なる信仰をもつべし、しかも信ずることなかれ」と。科学においては原則を固く信じ、その形式をつねに疑わねばならぬという。科学的発明とは、幸運で有望な仮説を作ることにあり、仮説が実験的方法のもとにおかれるとき、これは学説となる。学説は多少豊富な事実によって実証された仮定にほかならない。しかし、絶対的真理を承認するのはつねに仮定によるものとしている。「法華経」にみられる「法譬一体」の説話形式にも真実を知るためのモデル(譬喩)の重要性が強調されているように思われて興味深い。
1953年、ワトソンとクリックによって提案された二重ラセンの核酸構造モデルが生命科学の発展にいかに多くの寄与をしたことであろうか。ワトソンは核酸構造モデルを考える上で、L・ポーリングの「科学結合論」が役立ったことを回想しているが、ポーリングはまたこの書の序文の中にH・ポアンカレの「科学と仮説」を引用し、仮説の有用性を述べている。「確実でなくても予見することは、全然予見しないよりはまさっている」と。
数学的記号や科学記号が考案されなかったならば、実験を予見することは到底不可能であろう。これらのモデル表現(仮説)が実在と対応していればこそ、実験を導く上に役立つのである。ベルナールは実験における仮設の重要性について次のように述べている。「推測的観念即ち仮定はあらゆる実験的推理の出発点である。これがなかったならば何の探究もできないし、また習得することもなく、いたずらに無益の観測を蓄積するに止まるであろう」「実験的構想は決して勝手なものでなく、また全然空想的なものでもない。むしろつねに観察された事実、即ち自然の中に足場をもっていなければならない」と。
アインシュタインは「科学とは、我々の混沌としたさまざまな感官体験にたいして、論理的に統一ある思想体系を対応せしめようとする試み」であり、感官体験を解釈すべき理論は、人為的なもので、非常に骨の折れる適応過程の結果であり、仮説的な決して完全に終局とはならない、つねに疑問を含んだものであるとしている。仮説といえども、その理論構築は容易なことではない。また確立したと思われた理論も、つねに崩壊する危険にさらされているのであるが、今世紀最大の理論といわれる相対論や量子論には、共通する特徴をみることができる。
第一の特徴は、相対論も量子論も、帰納的方法によって生れたものではなく、演繹的な仮説的概念にもとづいていることである。
第二の特徴は、時間と空間、波動と粒子という論理的には結びつきそうになかった対立概念の間に存在する相補的関係を明らかにして、両者を数学的構造の概念によって融合していることにある。
どのようにして、相対論や、量子論のように成功が期待できる仮説を選ぶことができるのであろうか?アインシュタインは「もっとも都合がよいのは明らかに、新しい根本仮説が経験の世界自体から暗示された場合」であり、古典力学の基礎にとってかわることになった相対性理論の根本仮説も、マックスウェルの電磁場の理論を思いもかけぬほど拡大延長したもので、このカテゴリーに属するとしている。
電子の波動性を予見したド・ブロイの「物質波」の概念も、同じようなカテゴリーに属するのではなかろうか?古典物理学の法則からはどうしても説明のできないジレンマから逃れる唯一の可能な方法が量子仮説の採用であった。量子仮説の構築に重要な寄与をしたボーアは問題のより深い論理的観点を追求し、量子化された諸量の間の相補的関係に多大の関心を集中し、この相補性を他の領域へ適用することの可能性の追求に物理学的研究に劣らない重要性を与えていたといわれる。その最初の機会が
1932年にコペンハーゲンで開かれることになっていた「光と生命」についての講演である。ボーアは、そこで相補性関係が生物学でも起ることを指摘しようとしている。ボーアの講演が公刊されたとき、その論文は生物学者達に余り受けがよくなかったが、マックス・デルブリュックは印刷になった本文を読み、それについて熟考したとき、彼はその論文が生物学の広大な分野の中に開いた展望に興奮し、即座にその挑戦に応ずることを決めたといわれる。今日の分子生物学を生み出した思想的基盤がここにある。ワトソンとクリックによって提案された
DNA構造モデルにおいても、核酸塩基間の相補性が重要な役割を果たしているが、これも、核酸やタンパクの分子間力は相補的に働くことを指摘するデルブリュックらの示唆に負うところが大きい。ボーアは
1938年に人類学者が集まる会議でも講演し、人類社会の相補的性質について論じている、科学者でありながら哲学的なボーアの面目躍如たるものがあるが、彼が実験的証拠についての詳細な吟味の中で探し求めたものは、さらに進んだ研究において指針となりうる普遍的原理であった。普遍的原理といわれるものは、概して、漠然としてわかりにくいことが多いが、この相補性原理も、そのためにかえっていろいろの新しい考えを生み出す原動力になったのである。生物学の分野で他領域にまで影響をおよぼした仮説としては、ダーウィンの進化説をあげることができるのではなかろうか?キリスト教的世界観のもとでは、すべての生物は神の被造物であるとされ、自然に関する知識が増えると、それを神の計画のなかに定位することが課題となっていた。神は人間の堕落に見合うように自然を悪い状態に造り変え、ついには最終の審判にいたるという終末論的考え方を逆転させ、人間の社会が「進歩」の歴史に塗りかえられる過程で生れたダーウィンの仮説は「生存競争」や「不断の闘争」を正当化するための根拠にもされてきた。ダーウィンの進化説は、自然淘汰が長い世代に互って働くことにより、生存に有利な変異が種の中に広がることによって、生物が進化するというものであり、「表現型」レベルでの進化説であった。
しかし、生物の進化説にも変化のきざしがみえはじめてきた。この直接の原因は、分子生物学の発展によって生命の起源と進化を分子レベル、遺伝子の内部構造のレベルで研究することが可能となったためである。分子レベルの進化を数学理論にあてはめて処理すると予想外の進化像が浮かび上がり、これを説明するため、“非ダーウィン進化説”または、分子進化の“中立説”と呼ばれる新しい仮説が提出され、中立説対淘汰説の論争が展開されている。この中立説を最初に提出されたのは国立遺伝研究所の木村資生集団遺伝部長であるが、この仮説の震源地日本では欧米における論争がほとんど反映されていない。柴谷篤弘氏は、日本の生態学者がこの問題に無関心であることをその理由としてあげられるが、ダーウィンの進化説がヨーロッパで大きな抵抗に出会ったのに、日本人はすぐ信じたといわれることと一脈あい通ずるものがるように思われる。これは、科学的仮説はすぐ信じるが、哲学的原理に無関心な日本の科学者の立場を反映しているのかも知れない。
分子進化の中立説は観察事実を次の四つの経験法則にまとめている。(1)タンパクの機能と三次元構造が変わらなければ、アミノ酸置換率で表わした進化速度はほぼ一定である。(2)機能的に重要さの低い分子は、そうでないものより突然変異置換率で表わした進化速度が大きい。(3)分子の構造と機能を少ししか乱さない突然変異の置換(すなわち保守的置換)はそうでないものより進化の過程で起こりやすい。(4)新しい機能を持つ遺伝子の出現には常に遺伝子の重複が先行する。分子レベルの進化は、予想に反して、生存に良くも悪くもない突然変異が主役を演じている。シーラカンス、カブトガニ、シャミセンガイなどの生きた化石は、形態上は何億年ものあいだ驚くほど不変に保たれながら、重要性の低い遺伝子の塩基配列は大きく変化していることを予想している。
ダーウィンの進化説の立場では、進化の速い部分は何らかの重要な機能を持ち、自然淘汰に有利な突然変異をたくさん蓄積していると解釈するのであるが、分子レベルの観察事実からは、このような解釈は難しいことがわかった。また中立説では新しい遺伝子が出現するときにはどうしても遺伝子が重複しなければならないと考える。遺伝子が突然変異によって次々に新しくなって行くのではなく、いままでの生活を維持するための遺伝子を保持しながら、一方では突然変異を蓄積して行って、ついには新しい遺伝子を出現させるという。最近、アイソザイム(同じような機能を持った酵素)が、電気泳動法によって調べられるようになり、ショウジョウバエやヒトで予想外に大きな分子的変異が含まれることが明らかになった。
中立説では分子レベルで検出される多型的変異も分子進化の一断面にすぎないとみる。 生体は“積み木細工”のように分子が仮に集まったものであり、分子レベルの構造は、かなり流動的なものである。あらゆる生物の集団の内には、これまで予想もされなかったほどに大規模な偶然的変動がつねに起こっていると考えられる。
いずれにしても「遺伝子」と「表現型」の変異は必ずしも一致しないことが明らかにされた。といって、両者が無関係であるはずがなく、今後おそらく遺伝子と表現型、個体(部分)と集団(全体)、部分における偶然的変動と全体にみられる必然的変化の相補的な関係を明らかにする仮説が登場するのではなかろうか。
エンゲルスが「自然の弁証法」の中で三大発見の一つにかぞえたダーウィンの進化説にもこうして、「非」という接頭語がつけられることになったが、これこそ学説化した仮説のたどる運命である。生命科学を導くものは、創造的な仮説であって、形式化した学説ではない。学説を根本として行くならば、なんら創造的な発展はなく、教条主義に陥り、固定化、ドグマにとらわれた行き方になるであろう。部分真理と全体真理を体現する事実にもとづいた仮説のみが、実験に役立つ。実験は新しい仮説を生み、新しい仮説は、また新しい実験を導く。こうして実験と仮説との間に相補的な関係を作り出すことが科学を発展させるのである。
生命科学にたずさわる研究者にとって重要なことは、事実に秘められた生命の構造を仮説(モデル)として表現することである。この仮説が実験を導き、個別科学に寄与するのである。伝統的な学説にとらわれていると、同じ実験を行なっても、それをみる目は全く異なってくるのであって、創造的な発展を期待することはできない。生命に内在する根源の原理は、実験に基礎づけられた創造的な仮説を通じて、やがてその存在が承認されるときがくるであろう。生命の全体を知るために個別科学は不可欠である。同時に個別科学は融合して総体化され、それが再び個別化される過程の中に、生命の科学の弁証法的発展があるのではなかろうか。部分真理(科学)と全体真理(哲学)を融合しながら、両者の相補的役割を明らかにする過程で、普遍的な価値観も生れることであろう。このことから帰結されることは生命科学における学際的研究の重要性である。学際的研究こそ、限りない価値創造の場となるのだ。
大島 一元(おおしま・はじめ)