分子レベルの言語


 最近、生体に対して、さまざまの生理活性をもつペプチド(アミノ酸が数個から数十個つながったもの)が次々に見いだされ多大の関心を集めている。

 1977年のノーベル医学生理学賞はA・V・シャリーとR・ギルマンに与えられたが、それは脳下垂体系ホルモンの分泌を促進したり抑制したりする化学物質が脳内で産出されることを立証し、その化学構造がペプチドであることを明らかにした功績によるものである。1940年G・W・ハリスは脳神経系と脳下垂体を結びつける化学伝達物質が存在するという仮設を提出していた。69年、シャリーとギルマンはほとんど同時に甲状腺ホルモンの放出を促進する物質がわずかに三個のアミノ酸がつながったトリペプチドであることを明らかにした。ついで黄体形成ホルモンと卵胞刺激ホルモンの放出を促進する物質は同一物質であり、それは十個のアミノ酸がつながったデカペプチドであることが明らかにされた。

 生体リズムを支配する因子には、遺伝子として存在する内因性のリズムと、光や食物摂取などの外因性の影響をうけて変化する外因性のリズムがあるが、ペプチドは両者のリズムを合致させ、個体の恒常性(ホメオスタシス)や種族を維持するために役立っているらしい。生体の情報伝達系に、伝達スピードにおいてはるかに神経系を劣ると思われているペプチドを介在させていることには、どのような意義があるのであろうか。

 最近になって、古くから鎮痛薬として知られるモルヒネと特異的に結合するオピエート・リセプター(受容体)が生体内に存在することが明らかにされた。このようなリセプターが元来生体内には存在しないモルヒネのために用意されているとは考え難い。そこで内在性の鎮痛活性物が存在するに違いないとの考えにもとづいて探索された結果、ついにエンケフアリンと名づけられるペプチドが哺乳動物の脳組織から単離された。記憶や睡眠に関与するペプチドもその存在が予想されており、人間や動物の行動と認識を化学的に解くことができるようになるかも知れない。これらの生理活性ペプチドの存在は、生体における化学伝達物質としての役割と挙動から人間社会の言語に相当するもののように思われる。

 このような観点に立つとペプチドは、分子レベルの言語体系における一つづりの文章のようなものであろう。アルファベット26文字のかわりにペプチドは二十種類のアミノ酸によって組み立てられる。

 アミノ酸が特定の順序で酸アミノ結合でつながるとペプチド分子は特定のかたちをとり、生体に対して意味をもつようになる。すなわち、分子のかたちには一定の意味が対応することになる。ペプチド分子のかたちの多様性は、意味の多様性に対応するものであろう。

 活性区分と呼ばれるペプチドの最小単位は三ないし四個といわれているが、一個のアミノ酸でも伝達物質としての役割をはたすことができる。多くの場合、生体に対して意味をもつことができるのはL配位のアミノ酸である。

 ペプチド分子がもつ意味の解読は、生体中に散在するリセプターで行なわれる。このリセプターが故障すれば、意味の解読はできない。また、同一言語でも受け取る人のよって意味が異なるように、解読するリセプターの構造が異なれば、同一のペプチド分子でも、生体に対する意味が異なってくる。

 ペプチド鎖暗号文の意味の解読が要望されるが、そのためには、リセプターを含めた生体全体の構造解明が不可欠となろう。遺伝子レベルの全体構造が解明される日は近い。

 近年、言語という記号の体系が、不可解な人間の解明に新しいカギを与えてくれるかも知れないと多大の関心と期待を集めている。分子レベルの言語の体系は、遺伝子に秘められた情報の伝達に関与し、発生、分化、成長、老化などの生体の制御と密接な関連を持つことは疑う余地がない。進化の段階の異なる生物群におけるペプチドや酵素を分子レベルで比較することにより、生物の過去の歴史や系統発生を探る試みもなされつつある。

 分子レベルの言語の体系を知ることは、不可解な生物の構造の解明に広範な手掛かりを与えてくれるものと期待される。

松井 孝司(薬学博士)


1977年執筆

●薬は分子レベルの言語