政府とは何か?


 「政」という文字の左側は「正義」を意味しており、右側は「権力」を意味するという。文字通り解釈すれば、政府は「正義を実行する組織」であり、正義を実行しない組織は政府ではない。縦割り行政で、税金の分捕り合戦に明け暮れる組織は政府ではなく税金ドロボーだ。
政府は国民から税金を徴収し、信託に応えて国民の生命と財産を守るとされているが、これは真っ赤な嘘だ。世界各国の殆どの政府が「正義」の戦いと騙して、多くの人々の生命と財産を奪ってきたことは歴史的事実である。

 西郷隆盛は遺訓で、政府の本務を忘れた商法支配所のような組織は「政府には非ざるなり」と断じ、明治維新を成功に導いた戊辰戦争も「今となりては、戊辰の義戦も偏に私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対し面目無きぞ」と頻りに涙を流したという。戦死者を祭った靖国神社に政府は正義の人、西郷を入れなかった。
本当に正義を守るためなら、進んで生命と財産を提供することも悪いことではない。これこそ真のボランタリー・スピリットの発露というべきで、政府が為すべき正義をボランタリー活動で支えることは好ましいことである。イラクなどへの海外派遣も税金で動く自衛隊ではなく、ボランタリー・スピリットで動くNGO、NPOに任せた方が、はるかに効果的で、派遣に伴う事故や問題も少ないだろう。

 問題は政府が実行する「正義」の内容である。
戦前の日本は儒教の「尊王の思想」に影響され、万世一系の天皇制を守ることが正義とされて、多くの国民が戦場に赴き、「天皇陛下万歳!!」と叫んで死んでいった。
敗戦により日本の正義は「天皇主権」から「主権在民」へ180度転換し、米国から与えられた憲法により正義の内容を書き換え、今日では「民主主義」を守ることが普遍的な正義とされるようになった。
しかし、「民主主義」は本当に正義なのだろうか?

 民主制の元祖は古代ギリシアとされているが、ギリシアのアテネでは30万5000人の住民のうち、市民は2万人にすぎず、市民以外のすべての人が奴隷であったという。ギリシアの民主国家の実体は「平等」とは程遠いもので、貴族だけが参政権をもつ貴族的共和国にすぎなかった。民主制にもピンからキリまであり、「立憲君主制」も民主主義とする説さえあるが、「君主制」「貴族政治」に代わって登場した「民主共和制」こそ本物の民主制だ。

 当初から、一般市民に平等な参政権を付与するコミュニティーを母体として誕生した米国は民主的連邦国家成立の稀有な例である。
1831頃アメリカに滞在したフランス人貴族のA.トクヴィルは「アメリカの民主政治」について詳細な報告をまとめているが、人民主権の原理を評価せず、「アメリカでわたしが最も嫌っているものは、そこで支配している自由ではなく、圧制に対抗するだけの保障がないということである」とし、「ある人または党派が不正に苦しんでいるとき、一体それを誰に訴えたらよいのであろうか」と疑問を投げかけ、多数者による専制を危惧している。
民主制は無知な多数者による衆愚政治に陥りやすいのだ。
1812年、ボルチモアでイギリスを相手に戦争をはじめた時、戦争に反対した新聞社を住民が襲撃し、新聞記者を殺した犯人は、陪審に付託されたが無罪釈放された。
今日、イラクを相手の戦争に多くの米国民が賛同していることも多数者による専制と変わるところは無い。民主制国家での多数者による専制は過去の話しではないことがわかる。

 「平等」化を原則とする民主制は「自由」をもう一つの選択肢にしており、米国はどちらかと言えば「自由」を重視する。
近代資本主義も「自由」な市場を前提とするもので、アダム・スミスは「自由放任にしておけば、神の見えざる手が働いて、最大多数の最大幸福が達成される」としている。神の手が働かないのは、人間が勝手な規制を加え、自由を束縛するからである。

 しかし、人間が神のもとに「平等」である事が信じられない人は、「平等」を声高に要求するようになった。「自由」を放任しておけば、貧富の差が拡大し、「平等」が脅かされると考える人々も多くなり、20世紀は「自由」より「平等」を重視する国家群を輩出させた。貧乏人が多数者になり権力を握って「平等」を求める場合に、専制はより顕著になる。
共産主義国家では資本主義が「不正義」とされ、資本主義に依存する多くの人々が専制の犠牲になった。
「平等」を重視する国家は、中央集権的専制国家となって、官僚組織の肥大化により「大きな政府」となることが避けられない。社会主義、共産主義を標榜する国家では「平等」こそ正義であり、その正義を実現するためには圧制も厭わなかったが、「大きな政府」の財政負担と圧制による不正、非効率に耐えられず共産主義国家群は殆どが崩壊するか、中国のように変身してしまった。

 「大きな政府」では役人の評判が例外なく悪い。形式主義、非効率は世界共通だ。「役人の数は仕事の量に関係なくふえる」とする有名な法則を発見したC.N.パーキンソン氏は祖国英本土を離れ、税金が安く「政府」の影響が少ない英仏海峡のカーンジー島に住まいを移して、晩年を過ごしたそうだ。
国民を抑圧する「大きな政府」からは、逃避する人が続出する。「平等」をめざす福祉国家も財政破綻で維持できなくなり、変更を迫られている。「大きな政府」の非効率を是正するため、もろもろの規制撤廃と、自己責任に基づく「自由」な競争が求められようになったのである。

 この世界の潮流はわが国も例外ではない。日本政府が返済の義務を負う借金は700兆円を超える。受益者負担の経済原則を忘れたバラマキ行政は社会を狂わせ、「大きな政府」の弊害は極限に達している。「受益」と「負担」、「権利」と「義務」を一体化してモラルハザードを防止し、「正義」を取り戻さねばならない。
政府組織が肥大化しているのに、犯罪は激増し、検挙率が低下しているのは、政府が国際化、情報化が進展する時代の変化に対応できていない、何よりの証拠だ。
「官から民へ、国から地方へ」中央政府が実施してきたサービスの事業主体の移転と、「国家」から「地域」へ徴税権の移譲が求められている。「大きな政府」に対する価値観が変わり、「正義」の内容が変わったのである。

 「正義」の内容は法律で定義され、国の唯一の立法機関である「国会」が決める。重要な法律の多くが明治時代や戦後の混乱期に制定され、「正義」とは言い難い内容の法律が、数多く放置されたままだ。「国会」には国民の叡智と良識を結集し、「正義」の内容を一から問い直さねばならない。「正義」を正しく判定できる賢明な議員を国会に送らねばならないのだ。
「正義」の内容変更は、税金の取り方と使い方を変える。財産権の定義を変更し、税法の不合理を改め、新しい世紀に相応しい「正義」を日本社会に確立できれば、停滞している日本経済が再び繁栄に向かうことは間違いないだろう。
「自由」と「平等」という正義の原則は、「選択の自由」と「法のもとに平等」に読み変え、「規制撤廃」と「法令遵守」の両者を相互補完関係で結ぶことが求められる。競争は自由であるが、公正な規則に準じて行うこととし、機会均等の条件を整え、官僚による裁量行政は公平を欠くので、排除しなければならない。
政府組織が大きくなると決断は遅くなり、無責任体制になりがちであり、正義は実行されなくなる。正義を実行せず、国民に対して嘘をつき、税金を無駄に遣う政府は無い方が良い。

 民主制のもとで、正義を実行するために求められるのは決断が早い「小さな政府」と衆愚政治を阻止する勇気を持つ「賢明な政府」である。

文京区 松井孝司(tmatsui@jca.apc.org)


生活者通信第96号(2003年8月1日発行)より転載

●宗教と正義