私の四権分立論

賢明な立法府・信頼できる司法府を実現するための参議院改革試案

日本の政治家・官僚・公務員・国民の総無責任体制がもたらした中央政府・地方自治体・特殊法人の債務と隠れ借金は1000兆円を超えようとしており、この途方もない額の借金はやがて国民自身へのツケとなってまわってきます。その借金を作った責任者を明確にすることなく、金融不安、大不況を理由にさらに借金を増やし問題解決は先送りされようとしています。
この無責任な人間集団を育てたのは明治以来の集団飼育教育です。
故槌田竜太郎大阪大学教授は、「政治を良くするするためには、良い教育が必要であり、良い教育を行うためには教育権を立法、行政、司法の三権から独立させ四権分立にする必要がある」と主張されました。教育が政党と官僚の支配下に置かれ国民がこれに盲従するかぎり、悪い政治−悪い教育−悪い政治−悪い教育の悪循環はとめどもなく繰り返されるに違いないとされたのです。(「教育権は誰のものか?−四権分立論−」参照)

今日の社会では、マスメデイアの影響力が教育以上に大きく、学校教育だけ改革しても政治は良くなりません。マスメデイアが社会に及ぼす影響力は権力そのものであり、これを第四権と見做す人もいます。幼児の時からテレビ漬けの子供が親や教師の言うことを聞かなくなるのは当然の成り行きです。現代社会では正義の基準は家庭、学校教育ではなくマスメデイアが作っているといっても過言ではないでしょう。

重要なことは現行憲法のもとでは教育権はマスメデイアや政党、国家に所属するものではなく個人の権利であるという認識です。無知の人には正邪善悪を判別出来ませんし自己責任を問う事も出来ません。「知る権利、学ぶ権利」こそ教育権そのもので、この権利は個人の責任・義務と引き換えに憲法で保証される基本的人権の一つなのです。
今必要とされるのは、「個人の権利」を「個人の手」に取り戻すことです。「人間を幸福にしない日本というシステム」の改革の第一歩は、明治以来の集団飼育教育を改め、与えられる教育から自主的な求める教育へと制度を改め、個人の「知る権利、学ぶ権利とプライバシーを守る権利」を確立して個人の自立を促し、同時に個人の責任と義務を明確にすることです。

私の四権分立論は、この個人の権利「知る権利、学ぶ権利とプライバシーを守る権利」を第4権として独立させ、現在のところ在って無きがごとき存在である参議院をこの権力の代行機関としてはどうか?という提案です。

教育行政から文部科学省は手を引き、小、中、高校の教育は教育委員会(地方自治体)の自主性にまかせます。学習指導要領を忠実に守ろうとする教育委員会の改革も不可欠でしょう。
役目を終えた文部科学省は発展的に解消して参議院の部局とし、行政が占有している情報の管理を担当する部局とします。行政機関がばらばらに作成するデータベース重複の無駄を排除し、その管理維持を担当します。
具体的には旧文部省の出先機関になっていた学術情報センター(現国立情報学研究所)を改革し、ここからすべての行政機関のデータ(電子政府データ現行法令データベースなど)、自治体の住民基本台帳(住基)データなどを自律分散化してリンクし、国民共有のリソースとして有効活用する一方で、中央省庁が所有する住基ネットなど自治体と重複するデータベースは廃止し、厳格なプライバシーの保護を行ってはどうか?という提案です。
国民年金の不払いは年々増加しており税方式への転換が提言されていますが、納税者番号と年金番号をリンクし、地方自治体に管理共用を任せば行政のスリム化に役立つだけではなく、税金を正しく納めない人には年金を減額することも簡単に出来ます。
また文部科学省が許認可権を持っている宗教法人や教育研究関連の学校法人、特殊法人など税法上の特典を持つ事業体はNPO(Non-profit Organization)法人としてこれも税法上一元化し評価担当部局を参議院に置きます。成果が少なく税金を無駄使いしている国立大学や公益法人の多くも米国のようにNPO法人として自立させ行政への依存を断ち切るべきでしょう。東京大学は率先してNPO化しスタンフォード大学、ハーバード大学に倣ってベンチャー企業育成の母体となる手本を示して欲しいものです。

教育の自由のみでなく、思想の自由、学問、言論、報道、出版の自由を確保し、私人の権利を保証する権力こそ第4の権力です。
教育には多様性と選択の自由を、マスメデイアには規制をなくし自由な報道を保証すると同時に公共物であることを自覚させ、特定の権力者や業者に私物化されないように、またプライバシーの侵害を許さないように参議院という場を借りて個人代表が監視するのです。
参議院は人権の府であると同時に、良識の府であらねばなりません。議院内閣制の弊害を除き、特定の組織や特定の地域、特定業界の利益代表ではなく、国民の一人一人の良識を代表する機関にするために、参議院議員の選出はハイエクが提案している上級院のように代議機関とは全く別の原理に基づいて行う必要があります。族議員が跋扈する中、タレントをはじめ猫も杓子も立候補できる現行法では良い政治の実現は到底望めないだけではなく、税金の無駄使いです。「税金の無駄使い」は某参議院議員の体験から出たお言葉です。(^^)
参議院は民主主義を衆愚政治、利権政治から守る砦となって欲しいものです。

第四権は三権の上に位置するのではなく、いづれの権力も対等とし、相互規制により権力を相互に監視するためのシステムとすることが肝要です。個人と国家(行政)は対等とし、個人が国家の犠牲になることも、国家が個人の犠牲になることも許してはならないのです。
個人の権利を代弁する第四権は、立法権と司法権に個人の思想哲学をもって影響力を行使しようとするものといってもよいでしょう。貧困な哲学の持ち主が何人集まっても立派な法律を創造することは出来ませんし、おかしな思想に凝り固まった裁判官には正義の判決を期待できません。権力者にとって都合が良い石頭の裁判官は任命されないようにする仕組みが必要です。
立法府衆議院で総理大臣を任命するように、人権府、良識の府となった参議院で最高裁の判事を任命することにより衆議院と参議院の対等の関係を期待するのも一案です。違法行為を裁くのは国家権力ではなく、個人の良識に期待するのです。
そう出来れば実質的に行政の支配下にある司法を完全に独立させ、判事の任命権で真の社会正義が行われるように監視することも第四権の重要な役割となります。参議院に最高裁判事の任命権を移せば形骸化している判事の国民審査は廃止してもよいでしょう。数ある審議会のなかでも法制審議会は政治家や官僚の思い通りにならないユニークな(?)存在ですが行政改革では真っ先に廃止対象にされました。夫婦別性の提言、株主代表訴訟の手直し、財産権(特に土地所有と相続)の見直し、定年制撤廃など国民生活に密着する個人の権利にかかわる審議など長期的視野に立った法律の見直し作業も第四権の府に相応しいものです。
故石井紘基衆議院議員は「審議会は、利権天国のための煙幕ではないか!?」と言っていました。審議会が200以上もあること自体が異常であり、縦割り行政にとって都合の良い会議を招集している証拠です。審議会はその数を減らし、官僚と御用学者の手から切り離して執行権のない参議院に移し、利権にとらわれない公正な審議をすべきです。


小選挙区 衆議院  <− 対等 −>  参議院 全国区(年代別、少数議員、長期就任)
    (立法府)          (良識・人権の府=出たい人より出したい人を選出)
      |              |
     行政府  <− 監視 −>  司法府

     国家の権利          個人の権利

三権分立は型ばかりで官僚の支配する国家システムのなかに、個人の良識代表が割って入り、官僚が君臨する縦割りのピラミッド型システムを改め、「上下の区分が無く平等で、支配者のいない相互依存のシステム」を作ろうというのが私の提案です。

以上が私の四権分立論の概要ですが、この案の最大の難点は憲法改正が必要なことです。
ご批判、ご意見を賜りたくお願いします。

一元 居士


●教育権を主権者の手に!