教育権を主権者の手に!
1872年(明治5年)の学制改革は廃藩置県に勝るとも劣らない大改革でした。「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す」ことが宣言され、わずか数年で約2万6000の小学校が設置されました。その多くは寺子屋を転用したものですが、その寺子屋は民衆が自発的に築いた組織で幕府の監督もないが、補助もなく、一般庶民に教育への欲求があったからこそ普及した自立した組織で、庶民が求める自由な教育が行われていました。寺子屋こそわが国非営利組織(NPO)の元祖だったのです。
寺子屋に場を借りた小学校で武士の子供も町民、農家の子供も区別されず一緒に机を並べて競い合ったことは画期的なことでした。明治時代は富国強兵が国家の大方針であったため、教育カリキュラムも西欧諸国に追いつき追い越すための画一的集団飼育教育が中心でしたが、公教育を受けた平民出身の子供が社会の枢要な地位を占めるようになり、戦前の日本社会は明治初期の教育改革によって革命的な変化を遂げました。
戦後の教育も制度上、憲法改正とともに再び革命的変化を遂げる筈でした。しかし、画一的集団飼育教育は続行され、暗記中心の教育カリキュラムは殆ど変わりませんでした。憲法第26条に、すべての国民は「教育を受ける権利」を有することと「保護する子女に普通教育を受けさせる義務」を負うことを規定し、教育権は「個人の権利」であることが明記されたのですが、主権者となった国民にその自覚がなく、教育権の信託先を明確にしないまま放置してしまったからです。
憲法は主権者の意志に基づく、自由な教育を実践する権利を保障してくれたにも拘わらず、学校の設立や教育カリキュラム作成を「学校教育法」にまかせたために、事実上教育権は政府官僚(文部省)という無責任集団に渡ることになり、本来なら地域住民の公選により信託された地方自治体の教育委員が担うべき責任が曖昧になってしまったのです。
貴重な財産の信託先を間違えると破産し、家族は路頭に迷うことになりますが、教育権の信託先を間違えると個人の成長を誤らせるだけではなく国家は衆愚政治に陥り破綻します。これが現実の問題になりつつあるのは憂慮すべきことです。
昭和23年7月、「教育委員会法」が施行され、昭和27年の11月までに各地方自治体に教育委員会の設置が完了しました。教育委員制度は、公正な民意による教育行政の運営、地方の実状に即した運営、教育への不当な支配の排除を理念とし、委員は公選により選ばれました。ところが昭和31年10月全国的な教育水準の維持向上、教育の機会均等をはかるためと称して教育委員は任命制となり、政府主導の画一的教育体制が確立することになってしまったのです。故槌田龍太郎阪大教授は「教育委員の公選制が廃止されて教育の実権は完全に政府の手に帰し、小、中、高の校長は管理職手当ての目くされ金で政府の目あかしになってしまった。」「かくて私たちのたいせつな子供たちが、自民党の思いのままに飼育されようとしているのに、親たちは憤りも悲しみもしない。」「今かりに社会党や共産党が政権をにぎったとしても、第二次大戦前の教育を受けた日本人が政権をとり、同じ飼育を受けた国民がこれに盲従するかぎり、悪い政治−悪い教育−悪い政治の悪循環はとめどもなくくり返されるにちがいない。」とされ、「教育権の独立と教育委員公選復活と教育予算の確保によって、教育を政党の魔手から救い出して、主権者たる国民みずからの手に取りもどさなければ、日本民族の将来は、はなはだ危ういのである。」と指摘されました。(1959年化学10月号参照)
日本の民主主義がいつまでたっても成熟せず、政権交代の受け皿となる筈の野党も育たず、官僚の専横を許し、利権集団と化した政党による政権が長期間に亙り続いてきたのは、槌田教授が指摘されるように自立した市民の育成を怠ってきた戦前、戦後の教育に起因することは疑う余地がありません。
今日本は財政破綻の淵にたち、創造性を蔑ろにしてきた産業は衰退の危機に直面しようとしています。この危機を救う人材を早急に育成する必要があり、日本再生のために教育改革は避けて通ることは出来ない緊急の課題ですが、問題は教育をどう変えるかにあります。文部省もそれを自覚したのか、平成14年度より「ゆとり教育」の名のもとに、学習指導要領で強制する「与える教育」の内容は最小限に留め、自主的な「求める教育」への転換を模索しているようです。教育行政についても、教育長の任命承認制度が廃止されるなど、国と地方自治体が対等な立場で協力して地方教育行政を推進する制度への改革が進められています。しかし、従来の学校を中心とする公教育が教育に占めるウエイトは相対的に縮小させることが望ましいと思われます。財政難の地方自治体にとっては、無制限に教育費を支出するわけには行かなくなり、教育の費用と効果を厳しく問うことになるでしょう。現在1人当たり小学校では86万円、中学校では94万円の税金が投入されていますが、この教育費負担は地域社会にとって耐えがたい重荷となり、学校が何を生みだしているか、学校に通って得られるものは何かが問われるようになり、退屈な学校、刺激の無い学校、何事も達成することの無い学校は税金の無駄使いとして拒否されるでしょう。
一方21世紀は知識の陳腐化も早く、産業社会で求められる教育は学校教育では到底充足できないものとなり卒後教育、実社会に出た後の継続教育が重要性を増し、従来の教育システムを大きく変えることになるでしょう。費用と効果を斟酌しながら実践する教育には地方自治体の役割、地域住民の役割がますます重要性を増すことは間違いないし、又そうしければならないのです。21世紀に求められる自由な教育、教育の多様性を許容し、多彩な人材を輩出させることができるか否かを決定する責任(納税義務)と権限(学ぶ権利)は、憲法に規定される通り、地方自治体の主権者である地域住民が担っているからです。
文京区 松井孝司
(tmatsui@jca.apc.org)生活者通信第77号(2002年1月1日発行)より転載