Shadows Of The Past, Victim Of The Future


 久々に馬に乗りながら、カミューは空を仰ぐ。自分を包む大気は凛と澄み 渡って、心地良い感触を肌に与える。今回自分は虜囚として解放された身の上 であることから、カミューは自分も含めて倍に膨れ上がったこの隊の指揮を、 全てマイクロトフに一任した。
 一目で解る程に痩せてしまった彼に頼ることはやや心苦しかったが、他ならぬ 彼がカミューの体を案じてそうすることを申し出たのだった。
 正直なところ、カミューは上質な食事を供されていたし、筋肉が落ちること を危惧しての適度な運動などもこなしていた。心身共に与えられた苦痛など から幾らか痩せてしまったのは否めないが、それでもおそらくこの数ヶ月 間、マイクロトフの方が遥かに辛い思いをしていた事が一目で知れる。
「―――― マイクロトフ」
 カミューの言葉に、マイクロトフが振り返る。真摯な表情が眩しい。虜囚で あった日々の記憶が、ふと自分を苛む。彼のものではない腕や唇の記憶。
「・・・どうした?」
 整った唇から滑り出たのは、本意とは全く異なる言葉だった。
「・・・ゴルドー様はさぞお怒りだろう?」
「そんな事を心配していたのか?その前にお前が善戦したのは周知のことだ。 案じる必要などない。それでもゴルドー様が何か仰る様なら、赤騎士団員も 黙ってはいないさ。その時は俺も及ばずながら、助太刀しよう」
 端正な口元に微笑を刻んで、カミューはもう一度空を仰ぐ。高く澄みきった 空。
 どんな場所で仰ぎ見たとしても、空の青は変わらないのだと思っていた。 それでも、今はマチルダの空が懐かしい。鉄格子越しに見えたのは、これと 同じものだった筈なのに、自由を得て眺める空の何と美しいことだろう。
 部隊を指揮するマイクロトフの後姿を見詰めながら、カミューは深い安ら ぎが自らの心を浸し上げていくのを感じていた。彼の存在そのものが、自分 に至上の平穏を与える。


 ロックアックスに無事帰還して後、カミューはゴルドーに虜囚となった失態 を詫びるべく、彼の執務室へとまず向かった。誠実な人となりで知られた青 騎士団長が共に詫びることを提案したが、穏やかな微笑と共にそれをやんわり と退ける。元より、失点は自分のみにあるのであって、マイクロトフには何ら 恥じ入るものは無いのだ。
 意外なことに、ゴルドーはあっさりとカミューを許した。彼の善戦によって 無事撤退を果たした赤騎士団員達が、文字通り必死にカミューを咎めぬ様に 懇願したことも大きかったらしい。
 虜囚となったことを不問に処されたとはいえ、為すべき仕事が累積してカミュー を待っていた。再びマチルダの地を踏んだ感慨に浸る暇も無く、カミューは 業務に精励する日々が続いた。連日夜遅くまで滞っていた業務や訓練状況、 人員配置などについて報告を受け、指示を下し続けて、さすがに重い疲労を意識 し始めた、ある宵のことだった。


「―――― カミュー・・・居るか?」
 遠慮がちに扉を叩く音に、目を落していた書類を机の上に戻して扉を開ける。 長身の青年がワインの瓶を片手に、穏やかな微笑を浮かべて佇んでいた。
「今日手に入れたのだが、どうだ?根を詰め過ぎると、反って能率が落ちるぞ」
 端正な口元に思わず苦笑を刻んで、カミューはマイクロトフを招き入れた。
「・・・お前が色々やってくれていたおかげで、それでも大分少ないと思うが」
 青騎士団長として、自らの配下に収まる者達を統率しながら、それでも彼は 出来る限りのことをしてくれていた。赤騎士団の副長に陰で助言を与え、決し て表に立つことなく、自らの傘下には無い者達を浮き足だたせぬ為にと、心を 砕いていたのだろう。
「俺は大したことは何もやってない」
 硬質に整った顔に、静かな微笑を浮かべてマイクロトフが言った。
 赤騎士団長という、マチルダでゴルドーに次ぐ地位にあるカミューの私室は、 ロックアックス城の中に独り身に余る程の広さでしつらえてある。それはマイ クロトフのそれとほぼ同じ広さで、本人の寝室と居間、客人様の寝室が二部屋、 そして書斎と従卒用の控えの間などが、広々と設けられてあった。マイクロトフ とカミューは共に従卒を休ませてやりたい、という考えから、夜間にはなるべ く彼等を寮に帰す様心掛けている。元より、お互いにそれ程他人の手を煩わせ る生活をしている訳ではない。彼等二人に配属された従卒は、それぞれ暇を持 て余しており、止むを得ぬとばかりに部屋を掃除したり、軍服や防具の手 入れに没頭することで日々を過ごしている。
 グラスと、簡単な料理を供すると、カミューはマイクロトフの正面に座した。 芳醇な香りが静かに大気の中に満ちていく。ランプの仄かな明かりを受けて、 カミューの端正な顔に薄い陰翳が形成される様を、マイクロトフは胸の内で 感嘆を禁じ得ぬまま、見詰めていた。
 どれ程屋外に出ても、カミューは決してその肌の色を変えることは無い。 抜ける様に白い肌は、太陽から熱い抱擁を受けても決してその白さを失うこと はなく、最高級の陶磁器の様なその美しさは何ら変化が無かった。
 無傷で帰還したカミューについて、一部では下賎な噂が幾ばくかの悪意を抱 いて囁かれたが、他ならぬカミューの態度そのものが、その噂を打ち消していっ た。彼は柔和な物腰と、毅然とした態度を何ら崩すことなく、虜囚となった ことを恥じ入る様な態度を決して見せなかった。
 何事も無かった様なその平然とした態度に、多くの者は野卑た噂を囁いたこ とを、恥じ入らずにはいられなかった。
 マイクロトフもまた、ルルノイエで何があったのか、問い正す様な愚行を 為す男ではなかった。端正な容貌を持つこの青年に、ルカ・ブライトがいかな る暴虐を振るってきたのか、マイクロトフはその思惟そのものから自らを 遠去けている。
 他愛の無い会話を幾つか交わし、些細な冗談にカミューは声を上げて笑う。 城下の女達に溜息をつかせる、それは鮮やかな笑顔だった。
 白い指が赤いワインと鮮やかな対象を形成する。早くも酔ったのか、瞳が 微かに潤んだ。
「―――― カミュー。もう酔ったのか・・・?」
 気遣わしげなマイクロトフの言葉に、髪をやや物憂げにかき上げながら、 カミューは小さく笑った。
「・・・久し振りに飲んだからだろう」
「もう寝た方が良いぞ、カミュー。悪かった、お前の体調を考えるべきだったな」
 マイクロトフが立ち上がり、隣接する寝室の扉を開けているのを瞳に映し 出し、立ち上がったカミューの視界が不意に揺れた。
「カミュー!」
 背中にマイクロトフの厚い胸が感じられた。背後から両腕でしっかりと カミューの体を抱きかかえて、さも心配そうな声音が問う。
「・・・済まない、酔わせてしまったらしいな」
「・・・どうしてお前が謝るんだ?」
 正確に言えば酔いが回った訳ではなかった。長い間虜囚となっていた疲労、 その後も執務に精励した疲労などが蓄積した上に、久々に酒を嗜んだこと、 そういった幾つかの原因が重なった結果である。  不意に、マイクロトフが悪びれた様子もなく、カミューの体を抱き上げた。
「―――― おい、マイクロトフ・・・!」
 女の様な扱いを受けることを何よりも嫌うことを知っているマイクロトフは、 穏やかに微笑してカミューを見下ろした。
「誰に見られる訳でもないのだし、少し我慢してくれ」
「・・・酔ってる訳ではないんだ、マイクロトフ。私は歩けるから」
 カミューの言葉に、マイクロトフがふと思い当たった様に全く違うことを 言い出した。
「―――― カミューはなかなか体が戻らないな」
 マイクロトフ程ではないにせよ、カミューもまた明らかに痩せていた。解放 後も業務に忙殺されており、体調が戻る契機が無かったのだろう。
「・・・どちらにせよ、お前程ではない」
「俺はもう元に戻ったから」
 他愛無い会話を交わしながら寝室に歩み入ると、この上もなく優しい仕草で 寝台の上にカミューを横たえる。
「今日はもう休んだ方が良いぞ、カミュー」
 真摯な口調でそう言ったマイクロトフの首に、そっと両手を回す。彼が驚いて 体を強張らせたのが肌に直接感じられた。
「カミュー・・・?」
 マイクロトフの瞳が、カミューの深い翠の奥を見詰める。言葉という形を 取らなくとも、互いの心の動きが解った。
 ―――― 生き延びてきた証として、再び体温を感じたい。熱い肌に触れたいのだと。
 優しい手がカミューの体を抱きしめる。やがてどちらからともなく唇が 重なり合う。幾度となく、互いの存在を確かめる為に。
 マイクロトフの瞳には、尚もカミューを気遣う表情が浮かんでいた。昂ぶる 意識の中でさえ、彼はカミューを欲望のままに組み敷いたことは一度も無い。 常にカミューを案じ、苦痛が勝る時にはためらいなく行為を中断する、そんな 男だった。
 穏やかな微笑を浮かべて、カミューは生きていく証であった青年を見上げて いる。
「・・・カミュー」
 名を囁かれることが、かくも甘い感覚を齎すのは、この青年だけだった。 それが何故なのか、カミューには解らない。同じ日に騎士見習になったこの 青年は、何故自分の心をこれ程に捉えているのだろう。
 マイクロトフが居なければ、ルカに初めて組み敷かれた時点で舌を噛んで いただろうか。屈辱に甘んじるのを良しとせず、矜持を守るために自ら命を 絶ったかもしれない。
 マイクロトフの存在は、カミューの意識を強靭なものにしているのだろうか。 それとも、逆に脆弱なものにしているのだろうか。自分では判断を下すことが 出来なかった。
 彼等は互いに、女の柔らかい肌に触れる心地良さを知っていた。まるで母親の 胎内で眠る胎児の様に、彼女達の柔らかい胸の中で眠りを貪る安堵感を知って いる。互いの体は確かに男の持つそれであり、滑らかに体躯を覆う筋肉は、女 の持つ柔らかさとは比肩し得るものではない。
 それでも、互いの肌の中に深い安堵を感じずにはいられない。それは何故 なのだろう。何故互いの存在がかくも甘いのだろう。
 幾度も重なる唇が心地良い。互いにその由は知らぬまま、この体温と感触の 中に深い安らぎを得ている。
 マイクロトフの手が伸びて、カミューの衣服をそっと脱がせ始めた。不意に カミューの体がそうと知れる程に強張る。その理由はただ一つだけだった。
 力強くで抑えられた記憶。望まぬまま、高みへと達した屈辱。
 マイクロトフは何も言わなかった。ただ、カミューの心の動きを気付いて いるのか、優しい唇がカミューのそれに重なる。
 彼は元々饒舌な男ではない。ゴルドーの行動に怒りを覚えた時や、騎士道 などについて語る時は雄弁になることもあったが、無用な口数が多い男では なかった。
 沈黙を守ったまま、マイクロトフが自分に触れることは心地良かった。 ゆっくりとしたその仕草から、カミューに対する深い労りが感じられる。幾度 となく重ねられる唇。穏やかなその動きが、カミューの感情を楽にした。


 ―――― 重ねられた肌が、互いに深い安らぎを齎す。それぞれの心音に耳を 傾ける様に触れ合いながら、熱い体を重ね合う。


「カミュー・・・」
 穏やかな声が、自分の名を呼ぶ。その響きが心地良い。
 腕を伸ばして、マイクロトフの背を抱き締める。不意に、胸の内に激しい 感情が吹き荒れた。抱き締めた腕に力を込めたカミューに、マイクロトフが 一瞬怪訝な表情になる。それもほんの一瞬のことで、マイクロトフもまたカミュー を抱く腕に力を込めた。
 薄い闇の中、二人の影が固く重なり合って一つになる。
 ルカによって加えられた暴虐の中、本能という代物の為に高みを極めること はあっても、心が満たされたことは無論一度も無かった。名を呼ぶことも無く、 まるで物の様に扱われ、情欲のままに踏み躙られた記憶。
 この安堵感はどういうことだろう。情欲を満たすのではなく、互いの愛情 を確かめ合うことは、かくも心が満たされていくものなのだ。相手が男であ ろうと女であろうと、それは何ら変わりがない。
 窓から差し込む淡い月の光が、遠慮がちに部屋の中を照らしていた。
 ―――― 触れたい。この感情を確かめる為に。互いへの想いと、自分自身 の想いを確かめる為に、体を重ねる。
「・・・マイクロトフ・・・」
 幾度となく、彼の名を呼ぶ。彼もまた、自分の名を呼び続けている。
 カミューの端正に整った唇から、喘ぎに似た吐息が途切れ途切れに漏れて いた。女の様に抱かれている、気付くことは、それが合意の上であれ力強く であれ、しばしばカミューに耐え難い苦痛を齎した。彼は異論の余地無く美し い青年であったが、女ではない。ほっそりとした体を覆うのは紛うこと無く しなやかに発達した筋肉であり、女達の体とは比べようもないのだ。
 マイクロトフと肌を重ねている時、その苦痛を感じたことは一度たりとも なかった。無論彼は自分に比べて少なかろうとも、女を抱いた経験があるの だろうが、その代替物として抱かれているのだと感じることは決して無かった。
 互いに男であれ女であれ、おそらく彼との間に恋愛感情が成立したのでは ないか、とふと思う。
 その思惟に辿り着いた時、カミューは心の内で自らに対して苦笑せずには いられなかった。
 ―――― そんなにも、マイクロトフに惹かれているのか、私は・・・
 それは不快な認識ではなかった。





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