Shadows Of The Past, Victim Of The Future
重ねられた肌が熱い。幾度となく繰り返される情事。望むと望まざるとに
関わらず、唇の感触や肌の熱さ、高みへと引き上げるその仕草まで否応なく
刻み付けられる記憶。
生物として当然の反応を返す己の体が、自分のものとは思えなかった。救い
を求めるかの様に、腕が白いシーツを掴む。呼吸が荒くなる。青い軍服を常
に端然と身に纏い、ただ前だけを見詰めている、お前。初めて触れた唇の
記憶。何ら恥じ入ることなく、正面から自分を見詰める真摯な眼差し。
―――― お前の元に戻るために。お前の体温を感じる為に。
・・・自分の心は崩壊を免れている。この猛禽に支配され、どれ程の屈辱を
受けてきても。
お前の存在そのものが、自分の心を正気の岸へと繋ぎ留めてきた。
―――― マイクロトフ・・・・
胸の内で、いつでも。
―――― お前の名だけを呼び続けている。
「―――― 明日お前を迎えに、腰抜け共がやって来るそうだ」
情事の後で、半身を起こしたルカが言った。予定よりも少し早いかもしれない。
おそらく、率いているのはマイクロトフだという確信が、自らの内部で形になる。
「・・・その様ですね。どうやら、あなたともお別れです」
静かな口調でカミューが言う。嘲る様にルカが笑った。
「とうとう生き延びたか。まるで娼婦だな。体を売って俺から逃れたか」
ルカの言葉に、カミューは端正に整った口元に、秀麗な微笑を刻み付けた。
「・・・私にはただ一つだけ、守りたいものが在るのです。その為であれば、
如何なる屈辱でも耐えることが出来る、それ程に大切なものがね。それを
持ち得ることは、私の誇りでもあります」
彼に出会い、そしてこの想いを得た。己の存在よりも、大切に思うものが
ある。自分自身が傷付くことになっても、傷付けたくないものがある。
口元に嘲笑を刻み付けて、ルカは酒を呷っている。不意に、彼が静かな口調
で言ちた。
「・・・都市同盟の虫ケラ共にも、人並みの誇りがあるとは知らなかったな」
「・・・私は騎士道を行動の標としております。それには当然誇りも含まれて
いるでしょう」
その言葉に、ルカが哄笑した。ひとしきり嗤うと、カミューの顎を掴んで
仰向かせる。狂気に彩られた瞳に、烈しい程の怒りが渦巻いているのを見て
取り、カミューはそれをふといぶかしむ。一体何に対して、それ程に激しい
憎悪を抱いているのか。かくも激しい怒りを、何故抱いているのか。
「貴様等が言う誇りとやらは、悪意に満ちた欺瞞に過ぎないのが、まだ解らないのか?」
ルカの言う騎士道という言葉に、カミューは否応なくマイクロトフの真摯な
瞳を連想する。自分もまたその中に名を連ねる者の一人ではあったが、カミュー
にとって騎士という名を冠するにまこと相応しい者は、他ならぬマイクロトフ
だった。弱き者を庇い、そして強き者に向かっていかんとするマチルダの
騎士道は、彼の身に最も深く息付いているのではないか、と思える程に。
あの清廉潔白な気性故に、余人を以って代え難い程マチルダには必要な
人間だった。
騎士という誇りが未だ失われていない、という事実の、彼はまさしく体現者
なのだ。
深く澄んだ翠の瞳を見下ろしている内に、不意にルカは己でも理解出来ぬ
心の動きによって、誰にも決して語ったことの無いことを口にし始めていた。
「・・・騎士道が聞いて呆れる。17年前、貴様達が何をしたか、教えてやろう」
形の良い眉を微かに上げて、カミューはルカの顔を見上げている。
「その戦争が起きた時、都市同盟はこの皇都中心部まで攻め込んできた。それ
自体は別に大したことではない。ただ単に、戦略の一環に過ぎぬからな」
知識として刻み付けられたものではある。第何次ハイランド攻略戦であっ
たか?ルルノイエまで攻め込むも、皇王親衛隊はこの上もなく強力であり、
あと一歩の所で陥落出来なかった、と教えられた記憶があった。結局そのまま
ハイランドの外まで追いやられたのだ、と。
「・・・その時、皇王の居住する王宮ではなく、皇妃と皇子の住む離宮に、そ
れと知って攻め込んだ者達が居たのだ」
その知識はカミューの内部に沈んではいなかった。いぶかしげな表情をルカ
に向ける。掴まれた顎が微かに痛んだが、耐えきれぬ程では無論無い。
「―――― 俺の母は、美しい女だった。他国からこの国に嫁してきたのだが、
その美貌は遠くハルモニアでさえ知られていたそうだ」
「・・・その様ですね。私も聞いたことがあります。咲き誇る大輪の花の如く
美しい方である、と」
それは媚態などではなく、単に以前に聞いた記憶を語っているに過ぎない。
その言葉に、ルカの口元に歪んだ微笑が浮かぶ。
「―――― 戦に臨んで、下賎な輩の中にそれを求めた連中が居たという訳だ。
平時であれば顔を見ることさえ恐れ多い、何ら罪の無い高貴な女を踏み躙るこ
とを望んだ愚か者共が」
「―――― !!」
その言葉の意味を理解して、カミューの瞳に明らかな驚愕が浮かぶ。
「・・・その中で中核を担ったのは、貴様らマチルダの、自称騎士共だ。貴様
らの言う騎士道とは、戦う力も無い女を集団で組み敷いて辱め、そして年端
もいかぬ子供の首を狙って追い回すことか?それを騎士道だと言うのなら、
随分と情けないことだ。貴様らは俺を狂人と呼ぶが、貴様等の為した凶行と、
俺のやることと、どれ程の違いがある?」
カミューは発すべき言葉を、何ら自らの内に見出し得なかった。虜囚とな
ってから自分に与えられた暴虐を忘れて。ルカの情欲を全て受け容れる形と
なったカミューは、奇妙なことにその事実さえ意識の外へと追いやられつつ
あった。ただ、その美貌で知られたサラ・ブライトが味わった恥辱と、それを
多感な時期に目の当たりにしてしまったルカに対する深い感情が、自分の内部
に静かに沈殿しつつあった。
何故ルカが自分にその心情を吐露したのか、即座には理解し得なかった。
何故彼はかくも自分に固執するのか。同性である自分の体を何故かくも求めたのか。
―――― これは同情などではない。同情は彼を侮辱することだ。
ルカの受けた心の傷は、どれ程深いのだろう。幾千の夜を重ねても、決して
消え失せることのない無上の絶望。ルカが脆弱さをかくも憎悪するのは、その
姿に自分の内部に深く刻まれた忌まわしい過去の影を見ていたが故、であったのか。
その暴虐を目の当たりにしてしまった悲哀。子供にとって、母親は神聖に
して不可侵の聖域である筈である。美しく優しかったその母親を、目の前で
蹂躙された衝撃はどれ程大きなものであっただろう。理不尽極まるその暴虐に
対して、何ら抵抗する術を持たなかった自分への激しい怒り。
不意に、もう一つの事実が胸に去来した。17年前。16になったばかりなのだ、
と無邪気に笑いながら自分にそう告げた少女。
「―――― まさか・・・ジル様は・・・」
乾いた哄笑と共に、ルカが言う。
「ジルは母の子だ。他の誰の子でもない。あれは、唯一人母の血だけを継いで
生まれてきたのだ」
腑に落ちた。何故ルカはジルだけに愛情を向けていたのか。彼女はルカに
とって、人として最後の砦だったのだ。年の離れた美しい妹。母の血を色濃く
継いだ優しい気性。
「―――― だから俺は、都市同盟の人間を一人残さず葬ってやる。貴様らが
俺と母にそうした様に踏み躙り、その血で穢れた大地を清めるのだ。それを
誰にも止めさせはせぬ」
―――― 誰も母を守ってはくれない。だから、自分が守ってみせる。
・・・その為の力を得て、そして復讐を果たそう。あの出来事が無ければ、
母はあんなにも呆気なく命を失うことはなかった。
卑劣な都市同盟が、母の命を奪った。何ら罪無き美しい母を。
―――― 女子供のみならず、赤子でさえも平然と首を刎ね、その屍を踏み
躙る残酷な行為の、それが理由だった。
何と発したものか、言葉が見付からない。かくも深い絶望と憎悪に対して、
一体何が言えるというのだろう。誇り高きマチルダの旗を仰ぐ者の中に、
かつて恥ずべき行為をした者が居たという事実もまた、カミューの心を寒か
らしめた。
弱い者を守っていくこと。誇り高く生きること。それは、マチルダの旗を仰ぐ
者が最低限でも為すべきことであった筈なのに。
重い沈黙の後に、カミューはようやく口を開いた。
「―――― 何が正義であるのか、神ならぬ私には解らない。けれども、ただ
一つだけ解っていることがあります。貴方のやっていることは、第二、第三
のルカ・ブライトを作り出しているに過ぎません。貴方によって傷付けられ、
蹂躙された子供達は貴方を憎悪し、その首を取らんと欲するでしょう。それは
新たな憎しみを生むだけです。久遠に続く憎悪の輪を創り出していくに
過ぎません」
恐れる様子もなく、凛とした口調と表情でカミューは言い放つ。
ルカの瞳に烈しい炎が揺れる。
「・・・賢しげな口を利く・・・!」
ルカの手が伸びて、抜ける様に白いカミューの首を掴んだ。臆することなく、
カミューは正面からルカの瞳を見据える。
「殺したいのなら、殺すといい。それで貴方が満足するというのなら。それが
貴方の望みであるというのなら、私を殺しなさい。人をそれほどに殺めたいと
思うのであれば、それが貴方の復讐だというのであれば、私を殺しなさい」
ルカの手に力が加わる。カミューは一瞬苦しげに眉を寄せたが、再び正面
から臆することなく殺戮者の顔を見詰めた。
強い視線では無かった。ただ、無上の悲哀を沈めた瞳。翠の瞳に浮かんで
いたのは、あの悲しみに満ちた感情の波。自分が誤った行動を為した時に母が
見せた、あの哀しい瞳。
―――― ルカ・・・
優しい白い手。澄んだ翠の瞳。自分に対して母が寄せていた、深い愛情。
その愛情の下繰り返された、ささやかな幸福に満ちた日常。
同時に奇妙な感情が沸き起こる。恐れも戸惑いもなく、毅然として。常に
自分を正面から見据えているこの瞳。媚を売ることもなく、卑屈になることも
ないまま、彼はとうとう最後まで自分を拒み通した。
「―――― くっ・・・!」
小さく呻くと、ルカはカミューの体を乱暴に突き離した。何故今更この心を
乱すのか。最早自分の歩む道は唯一つと選び取り、それを望みとして生きてい
る、この時に。何故今更目の前に、この翠の瞳が現れたのだろう。
自らの体を離し、背を向けたルカに、軽く咳き込みながら問いかける。
「・・・皇子・・・」
「―――― もしまたお前に会うとすれば、戦場で、だろう。その時はお前を殺す」
子供ですら平然として殺戮を繰り返してきた男は、悠然と立ち上がって
カミューを見下ろしていた。彼の背後に、紅蓮の焔が逆巻いている様に幻視
して、カミューは思わず言葉を失う。
―――― それでも。
あなたはその道を征くというのか。
血に濡れ、屍で大地を覆い尽くし、悲鳴と泣き声を大気に響き渡らせて。
それがあなたが歩んでいく道なのか。
「・・・ええ。次に貴方にまみえるのは、戦場です」
乾いた声音で、カミューはそう応える。
都市同盟によって、美しい母が汚されることさえなければ、あなたは心
穏やかな君主になっただろう。その未来を、全て戦火が奪った。
どちらが悪いのでもない。それは戦争という狂気が生み出した、異形の落と
し児。互いに蹂躙し、汚し、そして殺戮する。何という狂気。何というおぞま
しさ。
言葉にすら出来ない、無上の悲哀を感じた。
ルカが何故この様な気性になってしまったのか、おそらく都市同盟の人間で
唯一人知ってしまったというのに、それに対して何ら手段を講じることが出来
ない。この手は何と無力であるのか。
あなたを救えない。私には、あなたを救うことが出来ない。
私の手は、あなたに癒しを与えることは出来ない。
―――― 私の手は、唯一人の青年の為に存在しているのだから。
翌日の午後、マチルダから都市同盟の先陣を切ってハイランドの捕虜が戻って
きた。同行してきたのは、赤・青それぞれの騎士団から各100名、計200名である。
ルカに与えられたこの部屋から出るのは、一体何ヶ月振りだろう。軍服は
破かれてしまったままだったので、ジルが持ってきた服の中から最も礼服ら
しいものを選び、髪を整える。朝食はジルと共に摂ったが、ルカは姿を見
せていない。
「やっとマチルダに帰れますわね、カミューさま」
我が事の如く嬉しそうに微笑しながらも、ジルの表情は一抹の寂寥感を拭い
切れぬままだった。彼女が自分の後ろに母親の影を見ていた、という事実は
さほど不快ではなかった。皇女たる身の上でありながら、彼女が一心に為して
くれた行為は、どれほど自分を慰めたことだろう。
穏やかな微笑を彼女に向けて、カミューは真摯な口調で言った。
「休戦協定が締結されたのですから、機会がお有りでしたら一度マチルダに
お越し下さい、ジル様。城下を一望に見渡せる、お気に入りの場所があるの
です。ジル様にも是非見せて差し上げたい」
カミューの言葉に、ジルは子供っぽい笑顔を浮かべる。
「・・・ありがとうございます、カミューさま。是非お伺いしたいですわ」
美しく、穏やかな気性の妹。彼女の父親は、母を汚した男の内の一人である。
それでも、ルカは彼女を愛した。唯一人、妹だけを愛して、他の誰にも心を
許すことなく。
捕虜達が到着後、早々に挙行された式典で、カミューはこの日初めてルカの
姿を視界に映し出した。彼はアガレスの後ろにさも不快げな表情で佇んでいる。
その隣にはジルが控えていた。
―――― どんな集団の中でも。
青い軍服を身に付けた者が、どんなに数多く居たとしても。
カミューの瞳は、その中にあの懐かしい青年の姿を見い出していた。
胸が熱くなる。互いの視線が、言葉よりも尚深い感情を擁して絡み合う。
他には何も見えない。何も聞こえない。ただ、お互いの姿しか見えない。
式典が挙行されたのは意識の何処かで捉えていたが、その内容に意識を集中
させることは不可能だった。
やがて滞りなく式典が終了し、歓声と共にそれぞれの捕虜たちが駆け出し、
同僚の元へ戻っていく。或る者は肩を抱き合い、また或る者は乱暴に体を叩き
合っている。感激の余り泣き出す者も少なくは無かった。
ゆっくりと、だが目を奪われずにはいられない優雅な仕草で、カミューは
この隊を指揮してきた男の元へ歩み寄る。周囲の喧騒も耳を打つことは無い。
さほど長い時間を要せず、カミューはマイクロトフの正面に立った。
久しぶりに顔を見たその人は、まるで彼の方が捕虜であったかの様な風体
だった。一目で解る程に痩せていたし、顔色は酷く悪い。カミューの姿を映し
だした瞳だけが、生気に輝いている。
「―――― 久し振りだな、マイクロトフ」
穏やかな、深い情感を込めた声がそう告げた。不意に強い腕が自分を抱き
寄せる。痛い程に自分を抱き締めるその体は、微かに震えていた。
「・・・・カミュー・・・!」
幾度となく自分の名を呼ぶその人の体温に、胸が熱くなる程の懐かしさ
を覚える。それでも、余りにも強く抱かれた体が苦痛を訴え始めたので、
カミューは穏やかな口調で彼を諌めた。
「・・・・マイクロトフ、痛いぞ」
カミューの言葉に、慌ててマイクロトフが腕を放した。まじまじとカミュー
の顔を見詰める瞳が、微かに滲んでいる。手が伸ばされ、この上もなく貴重な
ものであるかの様に、カミューの白い頬に両手が優しく触れた。互いの姿を
瞳の中に映し出し、確かにそこに存在することを確認する。
「―――― もっと良く顔を見せてくれ、カミュー。お前の顔を見たいんだ」
彼の傍にこそ、自分の戻る場所がある。
「・・・お前が来てくれると思っていたよ」
透明な笑顔を愛しい人に向けて、カミューは静かに告げた。その言葉に、
マイクロトフが再び強くカミューを抱き締める。
「・・・カミュー・・・お前が居ない間、俺はずっとお前のことばかり考えて
いた。どうすればお前を救い出せるのか、そればかり考えていたよ」
「―――― お前にもう一度逢う為に、俺は生き延びてきたんだ」
あの屈辱に耐えられたのも、お前が居たから。こうして再びお前の体温を
感じる為に、屈辱の中、生きてきた。決して自ら死を選びはしない、と。
不意に、マイクロトフが自分に口付けた。周囲の目を気にしつつも、久し
振りに味わったその感触が無上の愛しさを自分に齎して、カミューは抵抗
しなかった。
「―――― カミュー・・・」
マイクロトフの囁きは、周囲の喧騒の中に埋もれていった。
さも不快げな表情で、ルカは父親たる男に告げる。
「―――― もういいだろう。俺は戻る」
身を翻したルカに一瞥をくれて、アガレスは小さく溜息をついた。ジルは
そっと長身の後姿に視線を向ける。目を伏せた白い頬には、憂愁の翳りがあった。
壇上から眺めたに過ぎず、正確に顔は把握し得なかった。
ずば抜けた長身を青い軍服に包み込み、気負いも萎縮も無く悠然と佇んで
いる青年。カミューを救う為に、敵国に乗り込んできたのだろう。或いは、
この下らぬ休戦協定が締結された背景には、あの男が絡んでいるのかもしれ
なかった。単身で侵入する様な愚を犯さぬ判断力はあるらしい。
―――― それが、カミューの心を捉えている青年だった。
馬鹿馬鹿しい程に真っ直ぐな男なのだろう。今までに何ら挫折を味わうこと
もなく、騎士道とやらが本当に存在すると信じて。
或る意味では、カミューに相応しい男であるかもしれなかった。
ふと自分の心の動きをいぶかしむ。俺は一体何を考えているのだろうか。
我知らず、苦笑が漏れた。
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