Shadows Of The Past, Victim Of The Future


 ハイランド皇王アガレス・ブライトは、戦いを好む人物ではなく、それ故に アナベルの申し出を即座に受け容れた。その段になって初めて、マチルダ 騎士団赤騎士団長たる青年が、このハイランドに虜囚となっていることを知る。
「その様に重要な人物であれば、他にも取引の材料になったであろうにな。 なにゆえ報告を怠ったのだ?」
 僅かな逡巡の後、その忠誠心故に皇王に絶大な信頼を誇るキバは、彼らしか らぬことにやや言葉を選びながら、言った。
「・・・その者は、現在ルカ様が・・・・」
 最後まで言わなくとも、今までの行動故に、父である皇王には即座に理解 できた様である。
「・・・またか。全く、ルカにも困ったものだな。それにしても、マチルダに 女騎士が居たとは・・・」
「・・・いえ、陛下。・・・男でございます」
「・・・・」
 大仰に溜息を吐き出すと、アガレスは苦笑を浮かべた。
「女に困っている訳ではなかろうに、どうした風の吹き回しであろうな。その 様な戯れに興じずとも、そろそろ妃を娶ることを真剣に考えて貰いたいものだ」
 ルカは今年27になる。皇位継承権第一位の人間でありながら、未だ正式な 妃も側室も娶ってはいない。歴代の皇王が20歳前後で妃をたてていることを 考えると、異例なことであった。次代皇王たる身の上であるから、妃を娶り、 子を成し、ブライト家の血を継承していくのが責務の一つである。ルカがまだ 子供であった時分から、大貴族を始めとして妃候補は星の数程も名前が挙がっ た。皆異論の余地無く美しい少女達であり、咲き誇る花の如く可憐な彼女達に、 ルカは全く興味を示さなかった。
 戦場での殺戮と共に彼が行う暴虐は、アガレスの耳にも無論届いており、 いたく常識的な父親の悩みの種でもあった。敵対する都市同盟の人間とはいえ ども、何ら罪なき女性を暴行し、場合によっては行為の最中にその相手を殺す ことも多々ある、ということは明らかに常軌を逸していた。
 彼の気性をそれと知って、それでも尚添い遂げたいという女性もまた多か ったが、ルカは決してそういった女性達に手を出すことはなく、依然として 暴虐を繰り返してきた。
 その挙句に、敵の高官たる青年を、半ば愛人の如く囲っている、と聞いたの では、アガレスの悩みは更に深まらずにはいられなかった。
「・・・やはり、サラのことが傷痕として心に残っているのであろうな」
「アガレス様・・・・」
 自嘲地味た笑顔を浮かべる皇王に、キバもまたやるせない気分になる。


 緻密な彫刻が施された廊下の端に追い詰められて、壁の冷たさを背中で感じ ながら、目の前の兵士に視線を向ける。彼等が構えた剣から血が滴り、大理石の 床の上に小さな赤い池を形作っていた。
「手間をかけさせやがって、このガキ!」
「残念だったな、もう逃げられないぜ!」
 野卑た笑みを浮かべながら、剣を構えて近寄ってくる卑しい兵士たち。
「心配するな、俺達の用が済んだら、お前の母親もすぐに同じ場所に送ってやるからな」
 下品な哄笑が沸き起こる。頭がかっと熱くなる。こいつらが、母さまを 傷付けた。誰よりも優しくて美しい、母さまを泣かせた。
 許さない。絶対に、許さない。
 その刹那、皇王の近衛隊が先を争う様に飛び込んできた。怒号と剣のぶつかり 合う音が交錯し、激しい争いの後に打ち倒される兵士たち。真っ先にルカの下 へ駆け付けたキバは、皇子を守る様に立ち塞がる。キバの振るった剣によって そのまま敵兵が斬り倒されると、ルカは動かぬ骸が手にしていた剣を掴み、 弾かれた様に駆け出した。
「―――― ルカさま!」
 争う大人達の間をくぐり抜けて、必死に走り続ける。胸の中は、ただ一つの 思惟で満たされていた。
 ―――― 母さまを早く助けなくちゃ。僕が助けなくちゃ、誰も母さまを助 けてあげられない。父さまは母さまを助けに来ない。だから、僕が行かなく ちゃ。早く、早く!
 ルカの目的を察したキバが慌てて後を追う。母の部屋に飛び込むと、未だに 母を傷付けている男達が居る。全身を熾烈な波動が駆け抜けた。赦さない。 絶対に赦すものか!生まれて初めて手にした真剣の重みを感じる暇もなく、 ルカは卑劣な敵兵達に斬りかかった。
 それからどうやって彼等を倒したのか、ルカは記憶にない。少なからず キバが手を貸したのは間違い無い筈だった。どれ程の時間が過ぎたのか、弾む 呼吸を繰り返しながら、赤い血に濡れる剣を手に母親の寝台の上に佇んでい る自分に気付く。額を汗が伝い、同時に瞳から熱い液体が幾筋もこぼれ落ち ている。薄い紗のガウンを羽織った母が、美しい瞳に涙を浮かべて自分を見 詰めていた。足元には動かぬ死体。
「―――― ルカ・・・」
「・・・もう大丈夫、母さま。悪い奴らはやっつけたよ。だから、泣かないで、 母さま」
 泣かないで。僕が守るから、泣かないで。
 そのまま意識を手放して崩れ落ちたルカに、サラが小さな叫びを上げた。
「ルカ!」
 キバが慌てて駆け寄ってくる。額に手を当てて、軽く嘆息した。
「ショックを受けられたのでございましょう。すぐ医者を呼んで参ります、 サラさま」
「お願いね、キバ。それと、陛下はご無事かしら?」
 一途なサラの瞳に、キバはいたたまれぬものを感じながら、答える。
「・・・はい、陛下はご無事でいらっしゃいます。どうぞご安心下さい」
 安心した様に胸に手をやるサラを、痛ましい思いで見詰める。自らが暴虐を 受け、さぞ傷付かれたであろうに、それでも尚夫であるアガレスを案じて。
 その日からほぼ1週間に渡って、ルカは高熱にうなされ続けた。元より感受 性の鋭い子供であったから、サラは影響をひどく心配して、夜通し看病して くれた。
 意識を取り戻した時、ルカの瞳は静かに沈んで何ら感情の波を伺わせぬ子供 へと変貌を遂げていた。ただサラにのみ心を許し、いつでも傍に居る様になっ た。あれ程嫌がっていた剣の稽古を自ら進んでやる様になり、その目は常に 冷たい感情の波を湛えて。


 力が欲しい。誰よりも強くなりたい。強くなければ、大切なものも守れない。
 守りたい。大切なひとを、守りたい。
 大切なひとを守るためにこそ、絶対的な力が要る。


 ルカの執務室に足を運んだアガレスに、彼の長子は僅かに眉をしかめた。
「都市同盟と休戦協定を結ぶことにした」
 開口一番そう言った父親に、息子は言葉を失う程驚いた表情になる。
「・・・休戦協定だと・・・?都市同盟の虫ケラ共が、かつて何をしたのか 忘れたのか、皇王!何故あやつらと仲良く手を結ぶ必要がある!」
「民はみな戦に疲弊しておる。そろそろ潮時であろう。戦を止めることが出来 るなら、これに勝る喜びはあるまい」
「馬鹿な!休戦など屈辱以外の何物でも無い!」
「これは皇王命令だ、ルカ。不満があるなら、お前が皇位を継承してから 正すが良い。よいな?」
 沈黙を余儀なくされた息子に一瞥をくれて、アガレスはふと思い当たった様に 続ける。
「・・・そういえば、そなたはマチルダの騎士を一人囲っているそうだな。 まもなくマチルダから迎えが来る。戯れはもう終わりだ、ルカ」
 衛兵を従えて、部屋を出ていった父親に、射る様な強い視線を向ける。
 母を救えなかった男。玉座に安穏と座し、それに何の疑問も持たぬ男。その 地位が故に、守らなくてはならぬものがある筈なのに。犯した罪に見合う 償いを、いつか必ず味あわせてやる。
 あの日、自分の内部で燃え上がった赤い焔は、父親であるアガレスをまず 焼き尽くさんと欲している。アガレスは父ではなく、激しい憎悪の対象だった。 心穏やかな死など、絶対に与えるものか。苦悶と絶望の狭間での死こそが、 あの暴虐から母を守れなかった上、市井の女との間に子を為した男に相応 しい報いなのだ。
 顔を見たことも無いが、ジルと大差ない年齢の筈である。男だと聞いている が、果たして無事に成長しているのだろうか。生きようが死のうが、さほど 関心の無いことだったが。
 今となっては、ジルがあの男の血を継承していないことは幸いだった。
 ルカにとって、ジルは母の子だった。他の誰の血も継承しない、ただ母だけ の血を引く妹。


 扉を開けた時の皇王の反応は、或る意味でジルに非常に似通ったものだった。 言葉を失った様に佇むアガレスの瞳に、ひどく懐かしげな表情が浮かぶ。
「・・・そなたがマチルダの赤騎士団長か。此度は済まぬことをしたな」
「いいえ。この様な姿で御意を得ますこと、お許し頂きたいと存じます」
 優雅な程の仕草でそう挨拶するカミューを、懐かしそうに見詰める。
「・・・そなた、生まれは何処だ?」
「グラスランドでございますが、何か?」
「いや、どことなく似ておるのでな」
「―――― サラ様に、ですか?」
 不思議そうな表情になった皇王に、苦笑混じりに告げる。
「ジル様に伺いました。私は母君に似ている、と」
「・・・男と女の違いがあるから、完全に、という訳ではないのだがな」
 苦笑地味た微笑を浮かべながらも、アガレスの瞳は懐かしげな光を湛えていた。
「マチルダから連絡が来ておる。捕虜交換の隊は、数日前に出発したそうだ。 あと幾日かでハイランドに到着するであろう。間もなく故郷に帰れると思う。 長らく苦労をかけた様だな。済まなかった」
 アガレスの言葉に、カミューは一瞬にして意識が羽根を得たのを感じた。
 帰れる。マチルダへ、お前の元へ。お前の体温を感じ、声を聞き、そして お前に触れることができる。
「―――― ルカがそなたに酷い真似をしたのは、謝って済む問題ではないが。 いずれ何らかの形で詫びをしたいと思う」
「・・・お気に為さらず、皇王陛下」
 カミューにしてみれば、今はただマイクロトフの元へ戻れる、という無上の 歓喜に満たされている故に、今まで受けた暴虐でさえも忘却の彼方へと投じ られる思いだった。
 マイクロトフは必ず自分を迎えにやってくる。それを知っている。言葉に などしなくとも、自分はそれを解っているのだ。マイクロトフは自分のために 青騎士団長の地位さえ投げ打つことになってもやって来る、ということが。
 それは必然だった。互いにそんな仮定話をしたことも無かったが、自分は それを知っている。おそらく、マイクロトフとて同様だろう。
 自分達が10年以上という長い年月をかけて育んできた互いへの想いは、 言葉になどする必要は無かった。
 解っている。彼が自分をどれ程に愛し、そして自分もまた彼をかくも深く 愛している、ということを。



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