Shadows Of The Past, Victim Of The Future


 ―――― この猛禽の手に落ちてから、一体幾度肌を重ねたのだろう。数え 切れぬ程のその暴虐の中、自分はいつでもマイクロトフのことだけを考えて いた。彼の肌の熱さ、唇の感触、そして甘い囁きを思い出すことだけが、自分 を正気と生存の欲求に繋ぎとめていた。
 逢いたい。彼に逢う為だけに、自分は生きている。
 ―――― 生きているということ、それがどんな屈辱を意味するとしても。
 彼に、マイクロトフに逢うために、どんな傷を負ってでも生き延びる。
 ―――― カミュー・・・
 自分を見詰める、真摯な眼差し。騎士としての誇りを重んじる、清廉な生き様。
 ―――― お前でなければ。
 お前以外の一体誰に、私は愛情を抱いただろう。男でありながら、同性であ る者の腕に抱かれることを受け容れたのは、お前だからなのだ。


 王族の私室よりはさすがに狭いのだろうが、虜囚となって与えられたこの 部屋は、カミューが騎士の端くれである頃に住んでいた部屋などとは、比べも のにならぬ程に広いものだった。壁には緻密で美しい模様が彫り込まれており、 寝台そのものにも見事な細工が施されている。品の良い調度品が配置され、 カミューですらその美しさは認めるものであった。
 広いこの空間は、淡い光で満たされていた。蛍の群れは呼吸する様に揺らめき、 穏やかな光を放っている。
 蛍は、死者の魂が天に召される光だという。幼い頃に聞いた記憶。呼吸する 様に揺らめくのは、命の残滓が瞬いているのだ、と。
 ―――― だから、蛍を殺してはならないのだ、と戒められた記憶。


 ふわふわと舞う薄い光の下、白い肌をした青年が固く唇を噛み締めている。 ルカは殊更ゆっくりと、彼の手に落ちた獲物の体をまさぐっていた。
 幾度となく繰り返された暴虐という名を冠した情事の中で、カミューは一度 も声すらあげたことは無い。主として齎された苦痛を耐えることは、そう困難 なことではない。騎士団に名を連ねる道を選び取った時から、怪我は日常茶飯 事であり、それに耐えられなければ軍人たり得ることは出来ない。一般に男は 女よりも苦痛に弱い、と称されるが、カミューは戦場で負傷した時でも喚いた りはしなかった。それはまさしく驚嘆に値する程に見事なもので、豪胆な男が 余りの苦痛に失神することさえあるその傷ですら、カミューは端正な眉を僅か にしかめたのみで、黙然と耐えていた。手当てをした軍医は驚き、そして言葉 も無かった。
 強靭というよりも柔軟な印象を与える容姿、女性に対する紳士振り、そして 動揺した姿を決して他者に見せないその物腰の柔らかさなどから、カミューは 冷静沈着極まりない気性であり、また柔和な人となりであると周囲に認識され ていた。熱血とすら称し得る青騎士団長との、見事な対照。熱く直情的な青、 大局を把握することを第一とする、冷静な赤。色彩から受ける印象とはまるで 逆の、それは鮮やかなる対極だった。
 カミューが取り乱した姿を見た経験を有する者は、ただ一人だけだった。 長身を青い軍服に包み込み、マチルダの旗を仰ぎ、その思想を自らの内部に 沈めることを何よりも誇りとしている、その青年。取り乱す契機を与えたのも 彼なら、それも目撃したのも彼のみだった。
 彼に貞節を捧げようと欲している訳ではない。自らに初めて触れた男は、 彼では無かった。こうして敵国の王となる男に組み敷かれ、その肌の感触を 否応なく認識せざるを得ないこの状況で、どうして自分は貞節を守り得ると いうのか。
 ただ、決してこの暴虐に屈しまいとするだけだった。彼に、マイクロトフに のみ捧げたこの感情を、他の誰にも侵されたくはない。
 抵抗を封じられた手が、もどかしく動く。幾度となく重なる唇は、否応なく 懐かしい人の記憶に直結する。堅く目を閉じて、カミューは意識を一点にと 集中させていた。ただ一人、想いを捧げた彼に。
 ルカの唇が肌の上を滑り落ちていく。緩慢なその仕草に、否応なく呼吸が 荒くなる。片足に結び付けられた鎖が、乾いた金属音を響かせた。ともすれば、 その感覚の中に陥ってしまいそうになる。
「・・・無理はしない方がお前の為だ」
 微かな微笑を刻み付けて、ルカが悠然と言う。屈辱に、秀麗な頬に朱が差す。 本能という代物が、かくも忌まわしいものだとは思わなかった。力で捻じ伏せ られることに耐えるのは、さほど苦痛ではない。無理に体を開かれたとしても、 それに耐えることは難しくなかった。
 屈辱というのは、まさしくこの状態を言うのだ。恋人がそうする様に愛撫 され、そしてその中に耽溺することこそが屈辱だった。矜持という名の、この 堅固な鎧で何処まで防ぎ得るだろうか。
 虜囚の身となってから初めて、カミューは心の中でマイクロトフの助けを 求めていた。いつか必ず彼が来る、という確信故に、今まで心の中でさえ彼の 助けを求めたことは無い。
 自分が矜持を手放すことへの危惧が、自らの内部に雪の様に降り積もる。 墜ちる訳にはいかない。ルカの唇がカミューの小さな突起に触れた。白い体を 大きく波打たせて、カミューはその感覚に耐える。軽く舌で転がされると、 堪えきれぬ熱い吐息が唇から滑り出た。
「・・・ろ・・・せ・・・」
 苦しげな呟きに、ルカが残酷な微笑を刻んだ。唇でカミューの耳朶を愛撫 しながら囁く。
「―――― どうした?」
「・・・殺せ・・・・!」
 屈辱に震えながら、カミューが吐き捨てる様に言う。再び小さな突起を口 に含むと、軽く歯を立てる。これでマチルダではNo2の立場に在るとは俄かに 信じ難い、しなやかな体が薄い闇の中で大きく撓う様を、ルカは残酷な喜び の中で見下ろしていた。抵抗し、足掻く獲物を捻じ伏せること程喜びを齎す ものは、この世界に存在しない。
「・・・殺しはせぬ。お前にはまだ愉しませて貰うぞ。最も、恥じ入って自ら 死を選ぶというのであれば、止めはせぬがな」
 この屈辱の中、それでも死を選ぶことなく生き延びる気概が在るのか?それ でも、その男に逢いたいと欲するのか?
 不意に、ルカの指がカミュー自身に触れた。体を震わせて、それでもかろう じて唇を噛み締める。今まで一度もこんな真似をした事は無かった。ルカは 己の快感のみを追及し、カミューを到達させようという意思は微塵も無かった からである。カミューの手を抑え付けていた手を放して、ルカは体を屈した。
「―――― !!」
 口中に含まれて、大きく目を見開く。
「―――― やめ…!!!」
 本能とでも言うべき反応を返す自分の体を、心底憎悪した。ルカの体を押 し退けるべく伸ばされた腕は、空しくルカの胸に爪を立てるだけだった。
「くっ・・・・!」
 思わず声が漏れる。自由になった指を堅く噛み締めても、自らの内部から、 苦痛とは相反する感覚が緩やかに沸き起こっていく。白い喉を仰け反らせて、 カミューは大きく喘いだ。
 体の反応を忌まわしく思いつつも、痛い程の快感が背筋を這い上がるのを 止めることが出来ない。ルカの指が秘められた場所に静かに侵入し、カミュー は己の指を堅く噛み締めた。白い皮膚が破れ、赤い血が滴る。その血がカミ ューの薄い唇を伝い、シーツの上に滴り落ちていく。
 ゆっくりと指を動かされて、カミューは激しく首を振る。甘い感覚が全身を 走り抜けていく。これは愛情故の情事ではない。蹂躙されているというのに、 この感覚はどういうことだろう。荒ぐ呼吸。
 ―――― マイクロトフ・・・
 胸の内で、さながら神の名を呼ぶ聖職者の如く、マイクロトフの名を呼び 続ける。
 彼は自分にとっての救いだった。いかなる時であろうとも、彼の存在さえ あれば生きていける。世界中の人間が自分を糾弾したとしても、お前さえ私 を信じてくれれば、それだけで。
 舌と指で慣らされた部分に、ルカが静かに欲望の証を突き付けた。顔を反 らしたカミューの手首を捻り上げ、指を噛めぬ様に抑えつけると、残酷な微笑 を刻む。
「―――― さて、どれ程保つかな?」
 殊更ゆっくりと侵入されて、白い体が大きく波打つ。慣らされた部分が、 多少の苦痛は伴いつつも、ルカを柔軟に受け容れる。ゆっくりと動かされて、 全身を激しい感覚が走り抜けた。
「―――― くっ・・・!」
 先程の血が唇の上にまだ残り、それはまるで女の引く紅の様に見えた。白皙 のかんばせに、赤い血が鮮やかな対照を形成する。ルカはカミューの唇を自ら のそれで覆った。口を抉じ開ける様にして舌を侵入させ、カミューのそれと 絡ませ合う。大きく体を波打たせながら、カミューはルカの唇を拒むことが 出来なかった。
 やがてルカが唇を離した時、カミューの翠の瞳は熱で潤んだ様に濡れ、そし て端正な唇が熱い吐息を吐き出していた。抵抗は尚も続いていたが、それは 最早大人に対する子供のそれ程の勢いも無い。手を伸ばして、カミュー自身 に手で愛撫を繰り返す。一瞬目を見開いたカミューは、それで意識を取り戻し たかの様に再び唇を噛んだ。瞳に別な光が満ちる。蹂躙されていることよりも、 それに反応を返す自分の体に対して憎悪を向けているのだろう。
 激しいその動きに、カミューは白い喉を仰け反らせ、耐え切れずに声を 上げた。
「ああっ・・・!」
 それはルカに残酷な充足感を与えた。更に激しく突き上げると、美しい唇 から喘ぎとも抵抗とも付かぬ声が、途切れ途切れに漏れる。いかに抵抗を繰り 返したとしても、カミューの内部は確かにルカの欲望を受け容れていた。
 獲物を征服した深い満足感の下にルカが達した時、カミューはルカの手の内 に白い飛沫を放っていた。
 高みに到達した刹那、カミューの端正な顔は息を呑む程に妖艶な表情を 湛え、ルカに残酷な快楽を齎す。互いに荒い呼吸を繰り返している体を離すと、 ルカはワインの瓶を手に取る。グラスに注ぐこともせず、そのまま喉を潤す。
「・・・恋人の顔でも浮かんだか?」
 カミューは答えなかった。荒い呼吸を繰り返す体は抜ける程に白く、良く 見ればあちこちに騎士らしく傷の跡があったが、全体としては何処から見ても 極普通の青年に過ぎなかった。
 そんなカミューの顔を見下ろして薄く笑うと、ルカは己の服の中から銀色に 光るナイフを取り出してカミューの傍に放り出す。
「―――― 自害するか?俺の様な男に抱かれて、それを愉しんだのだからな」
 翠の瞳が、ぼんやりとナイフを見詰めていた。やがてカミューはゆっくりと 体を起こすと、そのナイフを手に取る。柔らかい蛍の光を弾く銀色の刃をしば し見下ろすと、不意にカミューは俊敏な仕草でルカに斬りかかった。
 造作もなくその手首を捻り上げると、悠然と笑う。
「そんな状態で、俺を殺すことが出来ると思うのか?」
 猛禽めいた微笑と共に、再び白いシーツの上にカミューを押し倒す。
 先程までの潤んだ瞳ではない、烈しい焔を沈めた瞳が心地良い。
「――――・・・」
 重ねた唇を不意にカミューに噛まれて、ルカはさも楽しげに嗤う。赤い血を 吐き捨てて、カミューの細い顎を持ち上げる。
「何故今更そんな真似をするのだ?あんな顔を見せておきながら?」
 再び猛るものを感じて、ルカはカミューの体をまさぐり始めた。



 カミューを救い出す為に、マイクロトフは一日に何度となく白騎士団長を 務めるゴルドーの執務室を訪れ、捕虜交換の申し出を行う様進言し続けた。 自らの利益と保身にのみ力を傾けるゴルドーと、気高い騎士道精神を何よりも 重んじるマイクロトフの関係は、元より騎士団の末端に連なる者達でさえ噂 する程に悪化していたが、この事件で決定的な亀裂を生じることになる。
 ゴルドーの方でも、己の騎士道のみを行動の標とするマイクロトフを疎まし く思っていた。それ故に、カミューの不在自体が痛手でありながら、解放を呼 びかけることに難色を示し続けている。
 ゴルドーでは埒が開かぬと見て取ると、マイクロトフは速やかに都市同盟の 盟主たる地位にある、ミューズ市長アナベルの元へ友人の一人としての資格で、 使者を送った。マチルダのみではなく、都市同盟としての捕虜交換の可能性 を探ったのである。
 ミューズ市長アナベルは、市民の生活を守ることに最も重きを持つ、優れた 行政手腕を発揮している女丈夫だった。その行動力や、柔軟な発想、集団を 統率していく力、並の男では到底太刀打ち出来ない。
 アナベルとは果たして友人であるのか否か、認定は難しい所である。ただ、 彼女は飾らぬ人柄で、豪胆とすら称し得るその気性が故に、マイクロトフは 感嘆の念を禁じ得ず、騎士団に名を連ねる者としては当然の感想を得た。
 ―――― 即ち、「女にしておくのが惜しい」と。それをカミューに言った ところ、美しい眉を微かにしかめて、友人は「それは女性全般に対して失礼な 発言だぞ、マイクロトフ」と言った。
 カミューを救い出したい、というマイクロトフの一途な思いは、思いがけぬ 方向へと流れを変えた。アナベルはハイランドに使者を送り、休戦協定を 結ぶことを提案し、皇王アガレスはそれに応じた。協定の証として、互いの 捕虜を国に返すことを約束して。
「―――― 赤騎士団長の件は、特に念入りに要望を出しておいたよ。あんな色 男を見殺しにしては、夢見が悪くなるからね」
 使者が持ち返った、私人としてのアナベルの手紙を私室で読みながら、マイ クロトフは苦笑を禁じ得なかった。結果としてゴルドーを無視し、アナベルの 助力を求めたことになる。おそらく更にゴルドーの不興を招くことになるだ ろうが、その程度であればマイクロトフには全く苦ではない。
 カミューを、おそらく自分自身よりも大切な彼を救うためであれば、何でも 出来る。
 皇都ルルノイエに潜伏している間者から、マイクロトフの元へ逐次情報は もたらされていた。ルカはカミューを殺してはいないこと。のみならず、王宮 の一室に監禁されており、夜毎にルカがその部屋を訪れている、ということ。
 それが何を意味するのか、無論マイクロトフには解っている。
 その思惟に辿り着く度に、意識の奥深い場所がかっと熱くなり、その後急激 に冷えていく。こんな地位になければ、何を置いても駆け付けるものを。
 団長がハイランドの虜囚になったことで、赤騎士団員の動揺も極めて大きい。 不安に浮き足立つ赤騎士団をも、マイクロトフは気遣わねばならない。
 口さが無い連中の間で、カミューの人格自体を傷付ける様な、野卑た噂が 流れていることだろう。目の前でそんな馬鹿げた事を口にする者が居たなら、 即刻ダンスニーで斬り捨ててやる。いささか物騒であるが、本気でマイクロ トフはそう思っていた。
 カミューは俺が守る。そして、彼の名誉をも、守っていくのだ。この騎士の 誇りにかけて。
 食事は殆ど喉を通らなかった。彼の側近たる年長者達が気遣うので、無理に でも昼食は口にしているが、味など認識し得ない。まるで他人の口の様だ。 体力の低下は否めず、それを防ぐためにとせめて睡眠をと心がけてはいるの だが、頭の芯が痛む程の疲労を意識しているのに、眠りに落ちるのには酒を 必要とした。徒に酒量だけが増え、身の回りの世話をしている従卒たる騎士 見習いの少年を心配させている。
 カミューが不在である以上、マイクロトフは平時以上に自らを律し、二つの 色彩に彩られた軍服を身に纏う部下たちを統率し続けた。傍目から見ても痛 ましくなる程に、マイクロトフは焦燥と自制の狭間で、かろうじて立つ事を 可能としていた。
 目に見えて肉が落ち、その中で烈しい程の眼差しを執務室の窓から遥けき ハイランドの方向へと向けるマイクロトフの思惟は、一刻も早く休戦協定が 締結されないか、というただ一点だけに集中していた。その報告に備え、 ハイランドの虜囚達を集めさせ、即座に出発できる様に手筈を整えてある。
 一日でも、否、一刻でも早く。お前を救い出す。今はただ、噂に聞こえた ルカ・ブライトの暴虐が、異なる方向へと向かわぬことを祈るのみだった。



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