Shadows Of The Past, Victim Of The Future


 殺すのなら、早くそうすれば良い。何故この男は自分を殺さないのだろう。 夜毎に自分を蹂躙し、その度に抵抗するのを眺めて楽しんでいる様に見える。 暴虐の限りを尽くしてきたルカらしい行動ではあったが、違和感は拭いきれ ないままだった。マチルダでもルカの暴虐は広く知られており、気紛れな 行動がいつ自分を殺すのか解らない。この様な屈辱を味わってまで、何故 自分は生きているのだろう。
 ―――― 俺が必ず助けに行くから・・・
 彼はそう思っている筈だった。だから、自ら死を選ぶ訳にはいかない。
 滅入りそうな気分の支えになったのは、ジルだった。彼女は毎日の様に この部屋を訪れ、何くれとなく面倒を見てくれた。食事は元々運ばれていた が、昼食を彼女と共に摂る事が多くなった。
 うら若く、しかも王族の女性が男と二人きりで部屋に居るのは余り感心した ことでは無い、と思うのだが、彼女はそれを気にしている様子は全く無かった。
「余りこんな場所まで来るものではありませんよ。妙な噂が立ったらどう なさいます?」
 そう言うと、彼女は小さく笑ってそんな心配は要らない、と言うのだった。
「お兄さまのことを、さぞ恨んでいらっしゃるでしょうね」
 ジルの言葉を即座に肯定する程、自分は子供では無い。
「・・・いいえ。彼にも彼なりの立場や考えがおありなのでしょう」
「私には、良き兄なのです。早くに母を亡くしましたし、父上はいつもお忙しい 身の上ですから、私は兄と一緒に育ちました。本当に優しい兄でした」
 過去形で語ったことに、カミューは微かな疑問を覚える。ジルは淋しげに 微笑して、話を続けた。
「戦いに馳せ参じる様になって、兄は変わりました。妹の私にも、兄が本当は 何を望んでいるのかは、解らないのです」
 赤い血と、もの言わぬ骸で大地を覆い尽くすことが彼の望みなのだろうか。 戦場での彼を見る機会は無かったが、その残虐非道な戦い振りはマチルダでも まことしとやかに噂されていた。
「・・・彼は昔は違う気性だったのですか?」
「子供の頃は、とても優しい方だったとキバ将軍がおっしゃっておりました わ。何かをきっかけに、あの様に恐ろしい気性になってしまったのでしょう。 けれども、その理由は私には解らないのです」
 続けようとした時、乱暴に扉が開放されてルカが入ってきた。ジルは臆する 様子もなく、兄を見上げている。
「・・・今日の執務はもう終わりまして?お兄さま」
「・・・部屋に戻れ、ジル。そして二度とこの部屋に来てはならぬ。これは命令だ」
「その様な命令は、聞けませんわ」
「―――― ジル・・・!」
「カミュー様を解放して差し上げて下さい、お兄さま。こんな酷い待遇を なさって、これを口実に都市同盟が攻めてきたらどうなさるおつもりですの?」
「俺にとっても良い口実だな。返り討ちにしてくれるだけだ」
 皇女たる女性は呆れた様に首を振ると、静かな口調で言った。
「・・・この様なことをしても、死んだ方は戻っては参りませんわ、お兄さま」
 その言葉に、ルカの顔色が変わった。他の者であれば、即座に首を刎ね られているだろう。しかし、彼はジルに対して言葉を荒げることもせずに 言った。
「・・・部屋に戻れ、ジル」
 無理に感情を押さえ込もうとしている、乾いた声だった。妹は澄んだ瞳に 哀しげな表情を湛えて、立ち上がる。
「・・・お兄さま、カミュー様を一刻も早くマチルダに帰して差し上げてね」
 ジルが出ていって後、ルカに視線を向けたカミューは、微かな驚きを意識 せずにはいられなかった。狂皇子と称された男は、うなだれた様に床を 見据えている。
 やがて彼は乱暴に歩み寄ってくると、カミューの手を掴んでそのまま押し 倒した。重ねられた唇が微かに震えている様に思ったのは、気のせいであった だろうか。相変わらず、ルカの行為は乱暴だった。
 強引に押し入られて、苦痛に眉をしかめる。激しく突き上げられ、白い喉を 仰け反らせてその痛みに耐えた。
「・・・くっ・・・!」
 ルカの唇が喉から胸へと滑り落ち、赤い印を残していく。乱暴な仕草では あったが、平時の彼とは明らかに異なる行為。
 確かに自分はこの行為に慣れ始めている。苦痛の奥底から、異なるものが 沸き起こってくるのを、霞む意識の中で感じていた。
 その刹那、カミューの意識を捉えたのは、恋人である青年の腕だった。
 自分の名を呼ぶ優しい声音。
 ―――― カミュー・・・
 愛している、と囁く声。優しい口付け。
 彼を抱き締めるために、腕を伸ばしかけて我に返る。この男はマイクロトフ ではない。一瞬であろうとも、何故そう思ったのだろう。
 重なる唇。強く抱きすくめる腕。
 この仕草のせいだ。蹂躙し、傷付けるためだけの行為とは明らかに異なる。 だから自分は彼の腕を思い出した。
 ジルの言った言葉に、彼は何故かくも変貌を余儀なくされているのだろう。


 ―――― 神が本当に存在するというのなら。
 今すぐに母を助けて。それが出来ないのなら、神はこの世には存在しない。
 この世界は血と暴力で成り立っている。強きものが弱いものを蹂躙し、そ して栄えていく。それがこの世の理なのだろうか。
 言葉も出ず、動くことも出来ずに。呆然と立ち竦む。
 不意に、母がはっきりとした言葉で叫んだ。
「―――― 逃げなさい、ルカ!こちらに来てはなりません!」
 お父さまは何をしている?何故お母さまを助けに来ない?誰よりも強い と聞いていたのに、それは嘘だったのか?
「―――― 皇子だ!殺せ、アガレスには他に嫡子は居ない!そのガキを殺れば、 ブライト家は終わりだ!ハイランドは落ちる!」
「―――― 逃げなさい、ルカ!」
 母の悲痛な叫びが耳にこだまする。血が滴る剣を構えて、獣じみた表情の 男達が近付いてくる。
「・・・・お父さま・・・どこ・・・?」
「・・・ルカ!早く!」
 体を翻し、無我夢中で駆け出す。男達がその後を追う。
「待ちやがれ、このガキ!」
 あらん限りの力を振り絞って走る。いつの間にか、涙が頬を伝っていた。 命を狙われているという恐怖ではなく、絶対的な悲哀と絶望の末に流れた涙。
 これが現実というものなのか。
 穏やかな日差しの下、親子3人で摂った昼食。
「・・・男の子なのだから、もう少し気が強くても良いのだぞ、ルカ」
「あら、この優しさは陛下に似たのですわ。それでも良いではありませんか」
「お父さま、お母さま、僕は喧嘩は嫌いです」
「それで良いのよ、ルカ」
 頬に感じた、母の優しい唇の感触。
「―――― 殺せ!絶対に逃がすな!そのガキの首を落として、城門に晒すんだ!」
 喧嘩は嫌いだ、大嫌いだ。誰かを傷付ける喧嘩は大嫌い。
「―――― 殺せ!皇子を殺すんだ!」
 誰かが傷付くのは嫌い。血を見るのも大嫌い。


 ―――― 神はもうどこにも居ない。
 救いなど、有りはしない。この世にあるのは、ただ血と剣だけ。


 赤騎士団長の地位にある青年は、自らの隣で寝入っている男に一瞥をくれ、 小さく溜息をついた。いつもは行為の後は自分の寝所に戻るのだが。余程 疲れてでも居るのだろうか。
 半身を起こして、無防備な寝顔に視線を落とす。
 こうして見ていると、確かに妹と血の繋がりを感じた。白皙の肌、端正に 整った顔立ち。黙ってさえいれば、ハンサムと称して過言ではない顔立ちである。
 幾千人もの命を奪い、今自分を凌辱する男には見えなかった。子供の様な 寝顔。
 手を伸ばして、頬にかかる髪をそっと払ってやる。何をしているのだろう、 とふと思う。こうして無防備に寝入っているのだから、逃亡するにはまたと 無い好機であるのに。
 ―――― それには足を縛り付けている、この鎖を外さねばならない。鍵は この男が持っていったが、今持っているとは思えなかった。
「―――― 母さま・・・・」
 思わずカミューが我が耳を疑ったのは、無理からぬ話であろう。暴虐の限り を尽くし、他者の屍の上に生きるこの男の口から、よもや母親を求める寝言 が滑り出すとは思えなかった。
 母親が居るのは当たり前のこと。彼の母親は、その美貌で知られたサラ・ ブライトと記憶する。10年程前に病に倒れ、故人となったが、大層美しい 女性であると、遠くマチルダでも有名だった。
 アガレスは決して好戦的な気性ではなく、サラも穏やかな女性であったと 聞く。それなのに、何故この二人の間に生を受けたルカは、かくも残虐な気性 に育ってしまったのだろう。
 そんな思索を繰り返しながら、傍らに寝入った暴君の黒い髪を指で梳いて いる自分に気付いた時、カミューは自嘲気味に微笑せずにはいられなかった。
 自分は一体何をしているのだろう。
 一体いつになったら、マチルダに帰れるのだろうか。生きて帰れるのなら。
 切実な程、マイクロトフに逢いたいと思う。彼の声が聞きたい。彼の体温を 感じたい。
 彼は今頃血眼になって自分を救う術を探っている。食事はきちんと摂ってい るのだろうか。睡眠は?
 必ず戻ってみせる。彼に逢うために。



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