Alone Act.4
夕方から降り始めたこの冬の初雪は、夜半に入っても一向に止む気配を 見せなかった。このまま根雪になるのではないか、と城下の人間達は外套の 襟を立て、身を凍えさせながら噂しあっている。
暖炉で使用する為の薪を抱えた人々が慌しく行き交い、ロックアックス城 付近は急速に冷たい冬へと向かっていく様だった。
岩山の上に築かれた、通常は殺風景なロックアックス城は、今や全体的に 白い雪に包まれて、一種の華麗な美しさを醸し出していた。
険しい山脈の中に在る、この地の冬は厳しい。暖炉に火を灯しても、芯から 凍える様なその寒さは、なかなか暖気にその座を譲り渡そうとはしない。 雪と風に覆われる厳しい冬は、遅い春が訪れるその時までロックアックスに 居座るのだ。
カミューがロックアックス城に戻ったのは、夜も大分更けた時刻のことだった。
この部屋のただ一人の主人を迎えた部屋の大気は、死んだ様に動きが無い。 音もなく、ひっそりと降りしきる雪が窓の向こうに見える。それでも、今は 暖炉に自ら火を入れる気にはなれなかった。
夕食を摂っていないことを誰から聞いたのか、食事を手に部屋を訪れた従卒 の少年が、尊敬する団長の為にと火を灯さなければ、おそらく彼は暖炉どころ かランプでさえ使用せぬままだったろう。
それでも、新たな薪を補充しておらぬので、暖炉は小さな焔を微かに揺ら めかせているのみである。部屋の大気はさほど暖められてはおらず、しんと 冷えていた。
微かな焔が揺れる暖炉に視線を向け、無言のままみじろぎもせず座していた マイクロトフは、扉を遠慮がちに叩く音に、ゆっくりと顔を上げた。
立ち上がって扉を開けたマイクロトフの視界に、鮮やかな緋色が飛び込んで くる。
赤騎士団長の礼装を改めもせず、カミューが扉の前に佇んでいた。重い闇の 帳に包まれた、冷たい灰色の廊下の中で、不意にその部分だけが生気を孕んだ かの様に、カミューの姿は鮮烈な印象を自分に与える。
「…少し話があって来たのだが、入っても構わないか?」
静かに笑うカミューの柔らかい髪は、しっとりと重く濡れている。慌てて部 屋の奥に招き入れながら、マイクロトフはカミューが自室にさえ戻らずこの部 屋に来たのだと思い当たっていた。
「暖炉の近くへ行け、カミュー。風邪を引くぞ」
乾いた厚手の布を彼の頭にかけてやると、新たな薪を暖炉に放り込む。 次いでマイクロトフは体を温める為の酒を棚から取り出した。カミューが好む 口当たりの良い酒も部屋に用意してあるが、冷えた体の為には普段マイクロト フが飲む強い酒の方が向いているだろう、とそちらを準備する。
「…結構降っているよ。このままだと、根雪になりそうな勢いだ」
「…大分、遠かったのか?」
芳醇な香りを立ち昇らせる酒をグラスに注ぎながら、マイクロトフが静かな 口調で問うた。
「…いや。遠くは無かった。あの森の近くにある村のひとだったよ」
濡れた手袋が容易に外れず、幾度か試みて後、諦めた様に唇で抑えると、す るりと脱ぐその一連の仕草は、優雅な程に鮮やかだった。両方をそうして 外しながら、カミューは穏やかな声音で応じる。雪に濡れた髪を布で乾かす様 にして拭いながら、カミューは静かに続けた。
「…お前に謝っておいてくれ、と言っていた」
「―――― そうか…」
グラスを差し出しながら、マイクロトフは乾いた声音で応じた。受け取ろう としたカミューの手がマイクロトフのそれに触れ、氷の様に冷たいその指に、 マイクロトフはどきりとした。
「…おい、カミュー!」
その言葉には応じず、冷たい指をそっと伸ばして、カミューはマイクロトフ の手を覆っている包帯に触れた。穏やかな微笑を刻んで、黒曜石の瞳を見上げる。
「…痛まないか、マイクロトフ」
「―――― 俺の痛みなぞ、あのひとの痛みに比べたら痛い内に入らない」
微かに強張った声音が、そう告げる。それでも、その中に悔恨めいた感情 は微塵も沈んではいないことを、極自然にカミューは感じ取っていた。彼の 内部に沈む痛みは、全く別なものだ。
あの刹那、己の赤い血が迸った瞬間、年若い女の美しい顔に狼狽と驚きが 揺れたのを、マイクロトフは見逃さなかった。本来心優しい気性であるのだろ う、他者を傷付けたことへの激しい怖れが容易に見て取れた。斬り付けられた 痛みよりもなお、そうしなければいられぬ程に彼女を追い込んでしまったのだ、 という事実が、この真摯な青年の心に重い影を落としていた。
マイクロトフは無言のままゆっくりと手を伸ばすと、己の手のひらの中に冷 えたカミューの両手を包み込んだ。同じ様に剣を握っているとは思えない、そ の手の感触にカミューは微かに苦笑する。同性であり、同じ騎士という日々を過 ごしているとしても、カミューとマイクロトフの体の造りには大きな差異があった。
少年時代、彼等の体格は殆ど同じだった。むしろ、一つ上である分、カミュー の方が少しだけ背が高かった筈である。戦場へと正式に馳せ参じ始めた頃から、 マイクロトフはあっという間に背が伸び、その体を覆う筋肉も驚く程の速度で 発達していった。背が伸びる速度はそう変わらなかったが、カミューの体は 幾ら鍛錬を積んでも、御世辞にも逞しいものにはならなかった。筋肉は確かに 成長し、しなやかに彼の体を包んではいたが、それは瑞々しい若木を思わせる もので、決して屈強な男の持つそれではなかった。成長した今、面立ちはさす がにかつての少女めいたものではなくなっていたが、柔和な印象は相変わらず である。端正な顔立ちや優美な所作は、成人してからの方がより明らかに人目 を惹いているのもしれなかった。
鍛え抜かれた鋼の如き強靭な肉体を得、重い防具を苦も無く身に纏うては 戦場に馳せ参じていくマイクロトフの姿は、時としてカミューに微かな苛立ち を感じさせることもあった。
幾ら望んだところで、自分には彼と同じ肉体を得ることは出来ないだろう。 早々にそう諦めると、カミューは装備を軽量化し、通常より軽い剣を用いて 剣技を向上させ、赤騎士団長という地位を得た。
かつてハイランドの脅威にマチルダとして備えていた頃、マイクロトフ 率いる青騎士団は重厚な装備と剣を以って敵陣を切り崩し、カミュー率いる 迅速極まりない赤騎士団が浮き足だった敵兵らを掃討するのを常とした。
それぞれの長所を生かし、短所を補う為にと彼等自身が望んだ陣容だった。
漠然とした思惟から、強いて自らを引き上げる。カミューは包帯に覆われ たマイクロトフの手に、そっと唇を押し当てた。微かな血の匂いが鼻先を掠 める。鮮やかに色付いた紅葉に包まれた光景の中、青い礼装を身に纏った彼が 負傷した光景が記憶の淵から鮮明に蘇り、それはカミューの意識を例えようも無く寒からしめた。
赤い血。マイクロトフの流した血。
―――― 私もつくづく身勝手な男だな…
自らに対して、自嘲めいた苦笑を向けずにはいられなかった。
この手は、今までに何人のハイランド兵を殺めてきたのだろう。初めて戦場 へと馳せ参じた時から、彼はユーアイアを以って数え切れぬ程の人間の命を絶ってきた。
互いの信じる正義がぶつかり合い、生への執着が交じり合う中で、いつか 感覚がぼんやりと麻痺していき、ひとはかろうじて狂気を免れる。そうでなけ れば、一撃で死に切れなかった敵兵が、命を失うその刹那まで弱々しく母の名 を呼び続ける光景に、まともな人間であれば耐え切れる筈など無い。
たった今殺めた人間は、故郷では家族や恋人、友人が彼の帰りをじっと待ち 続けているのだろう。それと知ってもなお、自分は血と戦塵にまみれ、異なる 旗を仰ぐ者たちを殺め続けてきた。一瞬の躊躇は即ち死に直結する。彼等に 信じる正義や護りたいものが在るのと同様に、自分にも決して失いたくない ものがあるのだ。
それはおそらく他者にとっては、身勝手極まりない理論でしかないのだろう。 それでも、決して。
―――― 何を失うことになっても、唯一人この男だけは失いたくは無かった。 地位も、名誉も、カミューにとっては執着すべき価値は無い。そんなものは、 所詮いつか消え失せていく、実体の無い泡沫の夢に過ぎないのだから。
彼の存在は、そうではなかった。漆黒の瞳の奥に沈む、強い意思を秘めた光。 決して変わることのない、ただ一つのもの。
彼を、マイクロトフを失いたくはない。この世界に生きるもの全てから非難 を受けることになったとしても、彼が自分を信じてくれさえすれば、それだけ で生きていける。
…彼女はマイクロトフを斬ることは出来ないだろう、という冷静な判断を 下している自分が居た。戦場で、或いはロックアックス城で開かれた軍議で、 常にカミューを支配してきた冷静な自分が、あの光景を眺めていた。同時に、 もう一人の自分もまた見下ろしていた光景。
―――― 彼を失うことを怖れ、武器らしい武器を持たぬ、か弱い女を斬ろう と欲して。
マイクロトフがまたそうである様に、戦場以外の場所でカミューは人を斬っ たことはない。
自分はマイクロトフ程潔癖な人間ではない。必要があれば、女子供であろう と、武器を持たぬ人間であろうと、眉一つ動かさぬまま斬り捨てることが出来 るのを、カミューは知っていた。幸いにも、と称すべきか、一度たりとも そんな機会は無かった為、カミューはその冷たい氷の刃を振るうことなく、 現在に至っていたが。
都市同盟にとって最大の脅威であったあの男、ルカ・ブライトと同じ獣が自 分の内部にも棲んでいる。無辜の民を踏み躙り、この世界の全てを、赤い焔で 焼き尽くそうと欲したあの男と、同じ獣が。
暖炉にくべられた薪が、微かにはぜる音がする。
不意に、マイクロトフは傷を負わなかった腕を伸ばして、その中にカミュー を抱きとめた。
「…済まない、カミュー」
夕刻と同じ様に、もう一度繰り返された謝罪の意味を、カミューは痛い程に 理解した。
マイクロトフの熱を与えられた指が、彼の背をゆっくりと抱き締める。
「―――― 解っているよ、マイクロトフ。お前はそういう男だ」
自らマイクロトフに口付けて、カミューは静かに微笑んで見せた。
実直で真摯なこの青年が、名も知らぬ女の前に命を投げ出すよりも前に、カ ミューは彼であればきっとそうするだろう、と解っていた。卑屈になるのでも なく、罪におののくのでもなく、ただ男を失った女のために。
自らを抱き締める腕を感じながら、カミューはふと目を閉じる。
「…そうでなければ、私はお前に抱かれなどしなかったよ」
…巧言を用いて相手を説き伏せようと試みたり、或いは騎士道という名を冠し た、己の正義を振りかざして他者を蹂躙する男であれば、カミューはこの男に かくも惹かれはしなかった。
この世界には、誠実な気性の男も、強靭な肉体を持つ男も、星の数ほど居るだろう。
だが、これ程に真摯であり、鋼の如き強さを併せ持ち、己の歩む道の重みや 痛みをかくも理解している男が、他に居るだろうか。
かつて彼は己の理想と現実の狭間で、焦燥にも似た苦しみを味わった時期も あった。信じる道を貫き通せぬ苛立ちに、黒い瞳に怒りを滾らせたことも多々 あった。
この地を覆い尽くした戦いの中で、彼は大きく成長していた。少年が青年へ と成長するそれとは明らかな差違が在ったが、自らの意思で道を選び取って きた大人の男であった彼が、ひととして新たな局面を迎えたのである。
それは確かに成長であったろう。己の感情を隠すことを覚え、自分の歩む 道はひとの嘆きの上に存在するものであることを、粛然として受け留めた。
他者に責任を押し付けることなく、自分の為した行動に責任を持ち、それを 声高に吹聴することさえなく。それでも、他者の痛みの前に自分の命を差し 出そうとする姿には、以前と何ら変わらぬ誠実さが在った。
―――― それが、カミューが惹かれた男だった。
この戦いの前には、己の感情をすぐに表に出すマイクロトフを宥める時、 カミューは自分が一歳年長であることを必要以上に感じることがあった。こ の真摯な青年の背中を眺め、歩んでいく道の手助けをすることは、カミューに とっては常に心地良い感覚を齎すものだった。
時に年長者として、時に戦友として、肌を重ねる者として。己の騎士道を追い 求める余り、マイクロトフが危うい立場に立たされぬ様、気を配り続けてきた。
…それを重荷に感じたことはない。
「…少しだけ、反省してくれないか、マイクロトフ。お前は私を置いていこう としたのだから」
静かな口調で、カミューはそう言った。
「―――― 悪かった…」
再びそう謝罪したマイクロトフに、カミューは静かな微笑を向けた。それは、 夕刻彼がマイクロトフに向けた微笑に酷似するものだった。微かな胸の痛みを 再び感じて、マイクロトフはカミューを抱き締める腕に力を込めた。
ひとの感情が降り積もる様に、静かに雪が降る。BACK NEXT
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