Alone 
Act.3


 青騎士団長であった頃、マイクロトフは単身馬を駆り、領地を巡ることが 多々あった。部下に任せておけばそれで済むことであったが、暇を見て彼は 領地を回っては何か困ったことが起きてはおらぬか、領民に直接問うのを常と していた。すらりと背の高い、優雅な物腰の赤騎士団長もまた予定が合えば 彼と同行することも多く、ゴルドーの顔を見たことはなくとも、年若い二人の 騎士の顔に慣れ親しんでいる領民は多かった。マチルダ騎士団の歴史上、かく も若い年齢でその地位に就いた者はただの一人も居なかったが、彼等ほど領民 に近しい場所までやってきた団長もまた例が無い。
 団長の礼装に身を包み、馬を駆っていく二人の姿は、その年若さと見事な 長身、優美な赤、硬質な青、全てが領民の目を捉えて離さなかった。
 同時に団長に遇せられた二人の年齢は、領民たちを言葉も無い程に驚かせる には十分過ぎる程であったが、穏やかな物腰を決して崩すことの無いカミュー と、真摯に己の騎士道を守ろうとするマイクロトフの姿は、やがて彼等の不安 を消していくにもまた十分だったのである。
 それ故に、その報せが入った瞬間、マチルダの領民が怖れたことは「マイク ロトフ様とカミュー様に見捨てられた」ということであった。ゴルドーが己の 利害にのみ興味を示す人間であることは誰もが知っていたから、年若い二人は 領民にとっては騎士団の象徴とも言える存在だった。
 その二人が、マチルダを去った。彼等に従って、多くの騎士もまた騎士団を 出てしまったという。
 不安に上擦った噂はたちどころに領地を駆け抜け、不安な面持ちで語り合い ながら、領民たちはそれぞれの心情を吐露し合っていた。
「…マイクロトフ様のことだ、何かお考えがあってのことだろう」
「あの方の人となりについては心配は要らないが、それにしてもマチルダは どうなるのだ。あのルカ・ブライトが攻めてきても、お二人無しに持ちこたえ ることが出来るのか?」
 彼等を不安に陥れているのは、ハイランドという王国ではなく、やがてその 国を継いでいく皇子の凶行であった。トト・リューべ・ミューズを落とし、 女・子供ですら踏み躙っていくその残虐な刃が、自分達に向けられる恐怖で あったのだ。不安に沈黙した人々の輪の中で、一人の老人が飄々と言った。
「―――― 儂は信じておるよ。マイクロトフ様も、カミュー様も我々を見捨 てる筈など無い。この村にお見えになる時、お二人はいつも我らの生活を心 から案じて下さっていたではないか」
 この村で最も年輪を重ねてきた老人は、古ぼけた杖に手を載せて一片の不安 も無い表情で続ける。
「…ゴルドー様は、騎士団を頼って逃げ出してきた流民達が、目の前でルカ・ ブライトに虐殺されている光景を見ても、眉一つ動かさなかったという話では ないか。そんな非道に、マイクロトフ様のような騎士の中の騎士たる方が耐え られる筈は無いよ。あの方々は、今はもっと大きなものの為に戦っておいでな のだ。それが終われば、必ずや我らの元に戻ってきて下さる。お二人は、絶対 にこのマチルダを捨てたりなど為さるものか」
 青い空を見上げて、老人は笑顔を浮かべる。
「…儂も少しばかり長く生きてきたが、あの方々ほど騎士たることを重んじ、 そして領民を大切にして下さる騎士様を知らん。何も心配は要らんさ」
 そう言って笑うと、老人は煙草を取り出して悠然と吸い始めた。


「…帰ってきて下さるよ。必ずな。我らのために」


 城に戻って後、マイクロトフ達がまず行ったことは、旧マチルダ領を回って 領民達の言葉に耳を傾けることだった。
 長身を青騎士団長の礼服に包み込み、毅然と背を伸ばして佇んでいる青年の 黒い瞳には、以前と何ら変わらぬ光が沈んでいる。ただ、かつて内部に燃え 上がっていた烈しい程の焔は、綺麗に消え失せていると誰もが見て取った。
 この戦いのさなか、成長して久しい大人の男でさえも、それぞれが新たな 成長を遂げたのだろう。少なくとも、自分たちの前に現れた青年の瞳は、自ら の感情を多少なりとも包み込んで隠すことを可能とした様だった。
「…マイクロトフ様とカミュー様がお戻りになられた…」
 囁きが小波の様に人々の間を走り抜けていき、領民たちは複雑な感情を宿し た視線を二人に向ける。ロックアックス城攻防の際、騎士団に残った者の中に は、同盟軍との戦いで命を落とした者も数多い。その家族たちは、やはり素直 に帰城を喜ぶことは出来ないのだろう。
「…この地には、新たな国が立つことになります。マチルダという国は無くな りますが、落胆なさらないで下さい。とりあえず、新しい国の軍隊が定まって いない状況ですので、騎士団があなた方の生活を護ることを御約束します」
 張りのある、だが淡々としたマイクロトフの声は、静かに領民の中に吸い込まれていく。
「…マチルダは、無くなるのですか、マイクロトフさま」
「…新たな国が、この地を治めることになります。旧都市同盟領と、ハイラン ド領全てが統一され、ハルモニアの脅威に備えることになりましょう。しかし、 領民の方々を困らせる様なことは、絶対にありません。これも、御約束します」
「マイクロトフさま、儂らはこの国にどんな旗が翻るのか、そんなことはどう でも良いんです。ただ、儂らは生きていかなきゃならないし、そのためには 食っていかないといけない。食うに困らないんでしたら、儂らはどんな国が 立っても構わないんです」
 マイクロトフは微かに笑って頷く。訴え出た男は、安堵の溜息を吐き出した。
 如何なる旗の下に納まるのか。それは騎士たる自分たちにのみ意味が在るこ とであり、領民にそれを強いることは出来ない。
 たとえマチルダという国が失われ、騎士団が瓦解していく運命にあろうとも。 最後の瞬間まで、自分はこの国に忠誠を捧げ尽くしていきたいと望んでいるのだ。


 不安におののいていた領民達は、概ね彼等を好意的に迎えている様だった。 一度マチルダを捨てたこと、更にはロックアックスで戦いを行ったこと、幾つ か自分達への不満があるとしても、それを不安が遥かに凌駕しているからだろう。 国が失われていく不安。その中で、自分たちの生活がどうなっていくのかという、 漠然とした怖れ。
 マイクロトフとカミューは精力的にそれぞれの村を回り、時には詫び、時には 激励し、領民の不安を取り除くことに心を砕いた。同時に騎士団の再編成 を行い、差し当っての任務を旧領地の自衛などに留めておくことで、新たな国 への移行が順調である様にと配慮した。
 木々が鮮やかな色彩に彩られているさまを楽しむ暇も無く、彼等は連日領地 を歩き続けた。やがて領民達の間には、一様に諦めと期待が入り混じった感情 が広がる様になり、その中で「お二人がお考えになったことであるのなら、 従うつもりだ」という声が大勢を占める様になっていた。


 その日、空は重い帳の如き印象を与えていた。鈍い鉛色の雲が天蓋の様に空を 覆い尽くしており、時折身を切る程の冷たい風が頬を撫でていく。
「…雪が降りそうだな」
 空を仰いでカミューが口にした言葉に、マイクロトフが苦笑する。冬を余り 好いてはいない彼の心の動きを理解したからである。
 マチルダ領の中では、最も多く人が住む街を訪れての帰路であった。ハイ ランドの手に落ちた際、地位を返上してきた騎士達がその街には相当数住んで おり、彼等は二人が戻ったのであれば再び騎士として忠誠を捧げたい、と申し 出ていた。
 二人の存在がかくも騎士達の中で大きいことを目の当たりにした街の人間たち は、それ程までの信頼に足る人間達であるのなら、これからのことを任せても 良いだろう、と思った様である。
 赤や黄の葉が、色鮮やかな絨毯の様に森の道を彩っていた。その中を進む馬の 蹄の音は、厚い落葉に吸い込まれて、森に生きる生き物たちを驚かせることは ない。
 森の出口近くに、一人の女が立っていた。近付くにつれて、彼女の視線が 自分たちに向けられる。この森を抜けてしばらくいったところに、小さな村が あるのは知っていたが、それにしてもこの様な場所で、うら若い女性が何を しているのだろう。カミューが柔らかい微笑と共に、彼女に問い掛けた。
「…この様な場所で、どうかなさいましたか?お嬢さん」
 女の目は、射る様な激しさを沈めて、一心にマイクロトフのみを見据えている。
「…青騎士団長、マイクロトフ様でいらっしゃいますわね?」
 マイクロトフは微かに怪訝な表情になった。漆黒の髪と瞳をした、美しい 女であったが、記憶にない面立ちである。身を躍らせて馬から降り立つと、 マイクロトフは女の前に歩み寄った。
「…そうですが、何か?」
「…アレクセイという白騎士団員を、ご存知でいらっしゃいます?」
 青騎士団員の殆ど、或いは赤騎士団、白騎士団の中にも名を知っている者は 数多く居たが、その名は記憶には無かった。心から申し訳なさそうな表情に なって、マイクロトフは女に告げた。
「…真に申し訳ないが、存じ上げません。彼が、どうかしたのですか?」
「仕方ありませんわ。幹部でも何でもない、騎士の端くれに過ぎなかったのですもの」
 白い顔に、皮肉な微笑が浮かんだ。女の意図するところを図りかねている マイクロトフと裏腹に、やはり馬から降り立ったカミューが穏やかな口調で 彼女に語りかける。
「彼を探していらっしゃるのでしたら、申し訳ないが城に戻ってからでないと 今何処に居るかは解りかねます。戻ってからお調べする、という形でも宜しい でしょうか?」
「―――― その必要はありませんわ。…彼は死にました」
 むしろ静かな表情と口調で、女はそう告げた。マイクロトフは極僅かに眉を 上げる。彼の顔に視線を凝縮させて、女は続けた。
「…ロックアックスに、マイクロトフ様たちがお戻りになった時に、アレクセ イは戦死しました。あなたがたと戦って、死んだのです」
 不意に、女の言葉が激情を孕んだ。無理に抑え付けていた感情が沸騰し、 行き場を失って溢れ、それはマイクロトフに向かって叩き付けられた。
「―――― 何故戻ってなぞ、来たのですか!一度我らを見捨てられておきな がら、おめおめと戻った挙句、かつての仲間を斬るのは、どんなお気分でし たの!?彼は、アレクセイは、貴方のことをとても尊敬していたのに!!」
 女の白い頬を、熱い涙が零れ落ちていく。マイクロトフのそれと同じ、漆黒 の瞳の内に激しい怒りと憎悪が渦巻いていた。
「…あなたが、私のアレクセイを殺したのよ」
 彼等に従っていた数人の幹部達が、一様に青ざめた顔で若い女を見詰めている。 表情を変えていないのは、マイクロトフとカミューのただ二人きりだった。 カミューは沈黙したまま、静かな視線をマイクロトフと女に向けている。端正 な顔には、何ら表情の波を伺わせるものはなかった。
 マイクロトフもまた、無言のままだった。彼は臆する様子も、威嚇する様子 もないまま、唇を堅く引き結んで女を見下ろしている。
「―――― 人殺し!!!返して、私のアレクセイを返して!!!」
 不意に、女が隠し持っていた小さなナイフでマイクロトフに斬りかかった。 咄嗟にそれを避けるべく伸ばされたマイクロトフの手を、銀色に光るナイフ が掠める。
 鮮やかな赤い血が迸った。
「―――― マイクロトフさま!!!」
 慌てて剣に手をかけた部下たちに鋭い一瞥をくれると、激しい口調で一喝する。
「…手出しをするな!」
 漆黒の瞳が彼等を睨み付けると、部下たちは沈黙を余儀無くされた。マイク ロトフがこんな表情を見せた時、誰一人として意見することが出来る者は居ない。
 滴り落ちる血に構わず、マイクロトフはダンスニーに一度手をかけた。一度 その感触を確かめて後、ある事に思い当たって手を止める。ダンスニーは、マ チルダ騎士たちが使用している通常の剣の約2倍もの重量があることを思い出したのだ。
 そのまま振り返り、カミューの名を呼ぶ。
「―――― カミュー…」
 マイクロトフが何をしようとしているのか、我が事の如くに理解したカミュー は、沈黙のままゆっくりと首を振った。白皙の顔に浮かんでいるのは、静かな 拒絶であった。しばし彼の顔に視線を凝縮させて後、マイクロトフは諦めた様に青騎士団副団長を顧みた。
「…剣を貸してくれ」
 怪訝な面持ちで、彼は剣を差し出した。血で濡れることを嫌ってでもいるのか、 と不思議に思った部下たちは、マイクロトフがその剣を彼女に差し出したのを 見て、言葉を失う程驚いた表情になる。
 不思議そうに眉をしかめた彼女に、静かな口調で告げる。
「―――― あなたには、俺の命を奪う権利があります。この命を差し出した ところで、彼が戻る訳ではありませんが、それで多少なりともあなたの気が 済むのでしたら、どうぞお好きになさって下さい」
「―――― マイクロトフ様…!!!」
 唖然とした部下たちに一瞥もくれることはなく、マイクロトフは女の前に 立った。静かな表情のまま、気負う様子も無く静かに佇んでいる。
 カミューもまた深く沈黙を守ったまま、真摯な表情で女に向かい合うマイク ロトフを見詰めていた。端正に整った顔は、何ら感情を湛えることはなく、さ ながら彫像の如くに無表情である。部下たちは焦燥と困惑の狭間で、激しく 揺れ動いていたが、マイクロトフの表情は凪いでいた。
 剣を握り締め、マイクロトフの前に立った女は、その重みに驚いた様であった。 彼女の婚約者が命を落とす原因を作った青年の顔には、萎縮も無く、恐怖も無 かった。黒曜石の瞳には、彼を死に至らしめた事実そのものへの悔いがあると しても、己の選び取った道への悔恨は全く無いことが、初めて間近で顔を見た 女にも容易に見て取れた。
 …それでも、自分によって殺されても構わぬ、という一種達観した意思が青 年の顔には明確にあり、それは逆に女の手を震わせた。
 この方は、本当に何処までも騎士以外の何者でも無いのだ。
 手だけではなく、女の細い体が大きく波打った。やがて彼女は剣を取り落と し、その場に倒れこむ様にしてうずくまる。呆然とした眼差しでマイクロトフ を見上げた女は、何ら迷いの無い黒い瞳を視界に映し出して、我知らず薄い 唇を噛み締めていた。
 生気の無い、白い唇が微かに震え、やがてその震えは全身にと広がっていく。 細い腕で自分自身を抱き締める様にすると、彼女は激しく慟哭し始めた。
「―――― アレクセイ、アレクセイ…!!!」
 痛々しい程に泣きじゃくり、今はもうこの世界から消えてしまった男の名を 呼び続ける彼女の小さな肩に、豊かな黒髪に、天から白いものがふわふわと落 ちてきた。
 子供の様に泣き続ける女の他には、誰もが言葉と動きを忘れてしまった様な 光景の中で、やがて赤騎士団長たる青年がゆっくりとした足取りで彼女に歩み 寄る。カミューは静かに自らが纏うてきた外套を脱ぐと、優しい仕草で女の 小さな体を覆った。白いうなじに指が触れ、それは手袋越しでも酷く冷たい感 触をカミューに伝えてくる。彼女は随分長い間、自分達を待ち構えていたのだろう。
「…御自宅までお送りしましょう、お嬢さん。風邪を召されますよ」
 泣き止まぬ彼女を抱き上げて、カミューは己の馬に向かった。赤騎士団副 団長に手伝わせて彼女と共に馬上の人となると、カミューは静かな微笑を 彼等に向ける。深い琥珀色の瞳は、マイクロトフを避ける様に部下に向けられた。
「―――― マイクロトフの手当てを頼む」
 手綱を握ったカミューの名を、慣れ親しんで既に久しいその声が呼ぶ。応じ て顔を向けた彼の瞳は、漆黒の瞳に幾つもの感情の波を宿して自分を見上げて いるマイクロトフと、正面から向かい合う形になった。
「…済まない」
 たった一言が擁する、様々な謝罪の意思を正確にカミューは見て取った。そ うと知ってもなお、自らの内部から靄の様に涌き上がるその思惟を無理に封じ ると、カミューは静かな微笑を浮かべ、マイクロトフに向けて軽く手を振って みせる。端正な顔に浮かんだその微笑は、マイクロトフの記憶には無いもの だった。胸の奥が鈍く痛むのを感じながら、かつての青騎士団長たる青年は、 駆け去っていく馬の後姿に強い視線を向けている。
「…御手当てを、マイクロトフ様」
 部下の声でうつつに引き戻されたマイクロトフは、硬質に引き締まった口元に 苦笑を刻み、軽く首を振る。
「…大したことは無い。大丈夫だ」
「…なりませぬ。カミュー様が心配なさりますぞ」
 簡単な手当てを済ませると、マイクロトフはその長身を翻した。
「―――― 城に戻る」
 重く垂れ込めた鉛色の空から降りしきる白い雪は、今では本格的なものに なりつつあった。冷たい風が時折吹き荒れ、それはマイクロトフの青い礼服を 大きくはためかせる。
 身を躍らせて己の馬に乗ると、マイクロトフは先程カミューが消えていった 方向に一度だけ視線を向けた。無論彼の姿は遠く駆け去ってしまっている。極 僅かな時間、そうして黒い視線をその方向へと投じて後、マイクロトフは 手綱を握り、馬を走らせた。
 …女に切られた手の傷が、微かに痛む。先程カミューが見せた表情が記憶の 内から鮮やかに蘇り、マイクロトフは堅く唇を噛み締める。
 城に戻るまでの道中、マイクロトフは終始堅く唇を引き結んだままだった。
 道を彩る鮮やかな緋色や黄色の葉の中、激しい風と共に降り始めた雪は、 次第にその量を増しつつあった。



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