Alone 
Act.2


 ロックアックス城は、背後に険しく連なる山脈を控える、天然の岩山を用い て建造されている。三方を山に囲まれたこの城を落す為には、正面から攻め入 るより他に方法がない。それを想定し、城に登る道は僅か一本、それも非常に 狭く造られ、大軍で押し寄せてもここで脚止めを食らう様に設計されていた。 まさに天然の要塞とでも称し得るもので、東にハイランド王国、北にハルモニ ア神聖国と隣接し、常に緊張状態にあるマチルダに相応しい、堅固な造りの 名城である。
 持久戦に備え、兵糧も必要にして十分な量を蓄えられる様、巨大な倉庫を城の 中に持ち、城の内部に篭っても数ヶ月は攻撃に耐えることが出来る。地位が 次第に上がっていくにつれ、この城の造りを細かく知る権利を得ては、マイ クロトフは先人の知恵に感嘆を禁じ得なかった。
 高地に造られた城は、例えばミューズなどに比べて1月早く冬が訪れ、春の 訪れは1月遅いと言われている。実際、この場で生活していれば、それは否応 なく認識する事実だった。凛と澄み渡ったこの大気は、マイクロトフの肌には 良く合っていた。清冽な大気に晒されていると、否応無く意識が明瞭になって いくのを彼は感じ、その感覚を好いていたのである。底冷えのする冬の朝でさ え、彼はその大気の中での早朝訓練を欠かしたことがなく、剛直で真摯な気性 の団長に心酔する青騎士団員達にとっては、唯一頭が痛い問題であった。


 己の馬を進めながら、マイクロトフは懐かしいその城を仰ぎ見る。この城な れば、たとえハイランドが攻め入ってきても、そう容易く落ちることはないと 信じていた。それが、ゴルドーは戦うことさえせず、あっさりとハイランドの 前に降伏し、誇り高きマチルダの旗に代わって、この城にはハイランドの旗が 翻った。この城に攻め入り、ハイランドの旗を焼く為に城の内部を駆け抜けた 時、胸の内に激しい嵐が吹き荒れていたものだった。
 同じ落ちるにしても、せめて戦って落ちたのであれば。そうであれば諦めも ついたのではないかと、マイクロトフは強く思わざるを得ない。
 今回は戻るためにと率いてきた元マチルダ騎士達が騎乗している馬が、砂塵 を宙に巻き上げている様が、遥か後方まで続いていた。
「マイクロトフ」
 穏やかな声音が響き、優雅な長身を緋色の礼服に包み込んだ青年が、己の馬 を歩ませて彼の傍に近寄ってきた。
「…帰ってきたな」
「…ああ」
 マイクロトフの口元に、静かな微笑が浮かぶのを確認し、カミューもまた穏 やかな微笑を浮かべる。多くの言葉を語らずとも、互いの胸の内は解っている。 エンブレムを捨て、騎士たる地位を投げ打ってこの城を出た。一度戻った時は 戦う為であり、慣れ親しんだ城の内部を戦いの為に駆けたことは、苦い想いで 胸を浸した。
 再びこの騎士団を再建することは、果たして可能だろうか。元より、この 城を捨てた自分たちは、本当にマチルダに必要な人間であるのだろうか。
 ミューズ周辺に広がる森で見掛ける木々は、未だ深い翠の色合いを殆ど変え てはいなかったが、ロックアックス城の周囲を取り囲む樹木は、既に鮮やかな 緋色や黄色に染まっていた。森閑とした深い森も、この時ばかりは自然の鮮や かな色彩を纏い、人の目を楽しませる。
 騎士たる地位を捨てた時、森は鮮やかな緑に萌えていた。それが、今やかく も鮮やかな色彩に彩られている。この辺りの秋は短い。遥か下方に位置する村 の民が紅葉を楽しんでいる頃、ロックアックス周辺は初雪が舞い始めるのだ。
 硬質な唇を引き結んで、マイクロトフは馬を進めていく。共に騎士たる身分 を捨てた者たちの中には、相次ぐ戦いで命を落した者も決して少なくはない。
 自分が罪を犯したとは思わぬが、少なくとも彼等の命に対する責任が在る 筈だった。それ故に、こうしてマチルダに戻ってきたのだから。
 マチルダの城門前に、それぞれの色彩に彩られた軍服を纏うた者たちが、 剣を掲げて、整然と並んでいた。
 マイクロトフは微かに眉を上げる。部隊に僅かな緊張が走った。カミューだ けが静かな表情のまま、悠然と手綱を握っている。
「―――― 心配は要らないさ、マイクロトフ」
 端正な口元に秀麗な微笑を刻んで、カミューは静かな口調でそう告げた。
 軽く頷くと、マイクロトフはゆっくりと馬を歩ませていく。反逆騎士たる 身分になった自分を、彼等が受け容れないというのであれば、マイクロトフは そのまま帰るつもりだった。ただ、自分に従ってきた騎士達だけでもこの地に 戻してやりたい、と強く思う。
 ―――― 例えこの地に、自分たちが生きる場所が無くとも。
 マイクロトフが城門前まで馬を進めていくと、整列したマチルダ騎士たちが、 一斉に剣を掲げた。
 高く澄み渡った秋の空の下、騎士たちが捧げた剣が陽光を弾き、乾いた金属 音を響かせる。
 ―――― マイクロトフとカミューの帰城に捧げるための、それは彼等の儀式だった。
 迎える側、戻った側、共に高揚した熱気が陽炎の様に立ち昇る。
 やがて陽光を弾く剣の間から、白騎士団で副団長を務めていた男が、軍人 らしい足取りで歩み寄ってきた。彼は深い感情を込めて敬礼を施し、だがむし ろ静かな口調で告げる。
「―――― よくぞ、御戻り下さいました。マイクロトフ様、カミュー様」
 穏やかな微笑を刻んで、カミューが静かに応えた。
「―――― 留守中、手間をかけたな。済まなかった」
 二人を見上げる騎士たちの表情には、期待と安堵に満ちた表情が浮かんでい た。進むべき道を見失い、忠誠の対象をも失って、彼等は途方にくれていたの だろう。二人の名を呟く声が、歓喜を擁した熱い渦となって、自分たちを包み 込んでいく。


 かつてゴルドーが権勢を誇るために改装を施した豪奢な執務室を、二人が 使用しては如何か、という申し出を即座にマイクロトフは辞退した。贅を尽くした 調度が並ぶこの部屋がマイクロトフには苦手であったし、カミューもまた「高 価なものだが、私の趣味には合わないな」とやんわりと皮肉ったものだ。
 彼等がかつて使用していた執務室は、新たな主人を一度見い出したものの、 殆ど手を入れられないままだった。それぞれのかつての執務室をそのまま使用 することで話はまとまり、居室もそのまま使うことになった。
 城に戻った多くの騎士団員の部屋の割り当てや、厩舎の使用等、残った騎士 たちは準備を整えて彼等を迎え入れてくれた為、入城に際して殆ど混乱は見 られなかった。元より、つい何ヶ月か前まではこの城に居た者ばかりである。 元に戻った、という感覚の方が正しいのだろう。
 …マイクロトフ達に従い、戻ってきた騎士を加えても、かつて騎士の誓いを 立てた者達のほぼ3分の1にも満たぬ程、数は減っていた。戦死した者、ハイ ランドの旗が翻った様を見て騎士たる地位を捨てた者、家族が戦乱に巻き込ま れた為に故郷に戻った者。極少数ではあったが、同盟軍に所属していた時知り 合った女と結婚し、マチルダに帰らなかった者も居る。
「―――― とりあえずは、あちこちに散った連中を呼び戻すことから始めるか」
 カミューは静かな口調でそう告げ、黒曜石の瞳を持つ友人に悠然と微笑んで 見せた。


 その日の夕食後、マイクロトフはカミューの私室を私人としての資格で訪れた。 礼服から私服へと着替えを済ませていたカミューは、穏やかな微笑と共に彼を 部屋に招き入れる。
 カミューが赤騎士団長であった頃に住んでいたこの部屋は、執務室同様 新たな主人を迎えたのであろうが、その人間の痕跡は全く残ってはいない。 マイクロトフの部屋も同様であり、城で働く女たちが清掃を手掛けてくれた だけとは思えない程の、心地良い落ち着きが残っている。
「…晩には、もう大分冷えるな」
「…ああ。じき、冬だ」
「どうせなら、春になってから戻りたかったな。此処の寒さは、私には少しきつい」
 端正な口元に、穏やかな苦笑を浮かべながら、カミューはそう冗談めかして 言った。彼はマチルダ領に移り住んでからもう15年以上になるが、此処の冬だ けは少しきつい、とかつて語ったことがあるのを、ふとマイクロトフは思い出す。
 マイクロトフは立ち上がると、寝室から厚手の毛布を持ってきた。そのまま カミューの肩口にそっとかけてやる。
「…戻った早々に、風邪を引くなよ。皆に笑われるぞ」
「…御心遣い、痛み入るね」
 暖炉にはまだ火が入ってはいなかったが、その前に置かれた敷布の上に座し て、二人はふと口をつぐむ。沈黙の帳が降りた室内に、酒場からと思われる賑 やかな喧騒が微かに響き渡る。再会を祝して杯を重ねているのだろう、騒がし い中にも陽気な明るさが含まれているのが、遠くからでもはっきりと解った。
「…カミュー」
「…何だ?」
「…お前は、俺に何か隠していることがあるだろう?」
 黒曜石の瞳に、真剣な光が宿っている様を一瞥すると、カミューは小さく笑う。
「…そうだな。そろそろ話しても良いだろう」
 ランプの焔が微かに揺れ、カミューの端正な顔の上で薄い影がゆっくりと揺れる。
「―――― 私は、お前が遅かれ早かれゴルドーと袂を分かつことになるのは 解っていたよ。だから、悪いとは思ったが、事前にそれなりの準備は整えて いた。無論そんな真似をしているのが明るみに出たなら、私もお前も余り愉快 では無い立場に置かれるから、十分気をつけてはいたが」
「…準備を?」
「―――― 私たちがマチルダを出た後のことだ。最初に考えていたのは、お 前と私が騎士の地位を投げ打つことになるだろうから、傭兵にでもなるか、 それとも何処かの国で新たな主君を見い出すか、どちらかだろうと思っていた」
 微かな驚きと共に、マイクロトフはカミューの顔を見詰めている。いずれ自分 がマチルダを出ることを予想されていたことよりも、共に騎士の地位を投げ 打つ考えをずっと以前から抱いていたのか、という驚きがある。
「…同盟軍のことを聞いた時、お前ならいずれ共にその中で戦うことを望むの ではないか、と思った。ならば話は別だ。お前が同盟軍と共に戦うのなら、 共に剣を取ろうとする者が、数多く居るだろう?」
 穏やかな口調で、カミューは話を続ける。
「青騎士団員は、お前に心酔している者が多い。お前が同盟軍に属すれば、青 騎士団員のかなりの数が流れるだろう、と私は踏んでいた」
「…それは過大評価だ、カミュー。俺は指導者としては失格な人間だぞ?」
 謙遜ではなく、本心から彼はそう言った。いかにもマイクロトフらしい言葉 だと胸の内で思いながら、カミューは苦笑を浮かべる。
「―――― お前らしいよ、マイクロトフ。だからこそ、青騎士団員も、お前に 付いていくんだ」
 静かな微笑を浮かべて、カミューはふと思い当たった様に問うた。
「何か飲むか?…残っていれば、の話だが」
 優雅な仕草で立ち上がり、壁に備え付けられた棚に向かう。その中を探って、 カミューはさも嬉しげに笑った。
「…ああ、まだあった。飲んでもいいと言っておいたんだが」
 まだ手を付けられていない葡萄酒の瓶と、グラスを二つ手にして、カミュー は再びマイクロトフの横に座した。慣れた仕草で封を開け、ゆっくりとグラス に注ぐ。芳醇な香りがゆっくりと立ち上る。
「…誰かに飲ませる予定でもあったのか?」
「残った連中に飲んでおいてくれ、と言っておいた。戻れるかどうか解らなか ったし、無駄にしては惜しいだろう?」
 マチルダではありふれたものだったが、国を出てからは殆ど嗜む機会が 無かった酒だ。懐かしい味だ、とふと思う。マチルダを離れてからどれ程の 時を重ねてきたのか、ふと現実感が失われる。
 感情を共有したのか、カミューもまた沈黙の淵に佇んでいる。
 幾度となく大きな会戦を経て、多くの命が失われ、それと同時に嘆き悲しむ 人々の姿を見詰め続けた。軍人たるもの、戦いは日常の中に埋没した光景で あった筈だった。それでも、歴史という大きな流れの中に巻き込まれていく 多くの人の姿を見詰め続けることは、マイクロトフにとって時に耐え難いもの を齎した。女性が戦いの場へと馳せ参じていくことさえ、信じ難いことである と思っていた彼には、未だ幼い少年である指導者や、彼を案じ続ける姉たる 少女、共に戦う子供達を見詰めていることが、時に激しい感情を齎した。
 何故、こんな子供が戦場へと馳せ参じなければならないのだろう。
 疑問を常に抱きながらも、戦いは勝利を得た形で終焉を告げ、そして子供 たちはそれぞれ自分の未来を紡ぐべく、散っていった。後に残された大人たち には、果たすべき責務がある。
 僅かな時間、沈黙を守っていたカミューは、静かな口調で続けた。
「…お前がもし騎士団を出た場合、青騎士団は殆どお前に付いていこうとする だろう。赤騎士団はどうかは解らないが、半分程は出ていくかもしれない。 もしそうなった場合、マチルダの戦力は最低でも3分の1、場合によっては 半数以上失われるかもしれないと私は踏んだんだ。半分以上失われたとなれば、 おそらくルカ・ブライトは必ずや騎士団領に攻め入ってくるだろう。それに、 反逆する騎士の残された家族が、何らかの処罰を受けることも避けなくてはならない」
「…そこまで考えていたのか?」
「…性分なのでね。お前には悪いことをした」
 ランプの微かな光を受けて、カミューの端正な顔は、さながら名工が丹精に 彫り込んでいった彫刻の如き、非現実的な美しさを感じさせる。幾度となく 肌を重ね、その焼け付く様な熱さを知ってもなお、マイクロトフはカミューの 姿に見惚れていることが多々あった。
「―――― お前がエンブレムを捨てた後、私はずっと以前から準備していた ことを実行した。青騎士団員が殆ど出ていこうとしたのは当然だが、赤騎士団 の連中も殆どマチルダを出ようとしていたとは、多少計算外だったけどね」
 空になったカミューのグラスに酒を注ぎながら、マイクロトフは一歳年長の 青年の顔を見詰めている。
「…その半数を、残した。白騎士団長クリンスマンは信頼に足りる男だったし、 口にはしていないが、ゴルドーの遣り方に不満を持っていることも知っていた。 それから赤騎士団の幹部を数人残して、マチルダを守ることと、去った連中の 家族にゴルドーが処分を加えない様頼んでおいた」
 驚きを隠し遂せぬ表情で、マイクロトフはカミューを見詰めている。
 結果として、自分たちについてきたのは赤・青騎士団のほぼ半数だった。 それ以上に、自分たちと志を同じくしている者たちが居たのか。
「…何故そこまでしたのだ、カミュー?そんな面倒なことを、どうしてお前が?」
 静かに立ち上る芳香を楽しみながら、カミューは笑う。
「…帰る場所がなくなったら、困るだろう?結果的には、無駄になってしまった 様だが、失望してマチルダを去った者達でも、巧く説得できればまたこの地に 戻ってくるかもしれない。そうやって人を揃えていけば、再興はさして難しい ことだと私は思わない」
「…お前は、自信家だな、カミュー」
 苦笑を浮かべたマイクロトフに、カミューは悠然と微笑した。
「―――― お前が居れば、大丈夫だよ、マイクロトフ。お前が戻ってきたの なら、領民も、騎士たちも、さぞ安心しているだろう」
「…何故俺が?」
 心底不思議そうな表情だった。今度はカミューが苦笑し、マイクロトフの グラスに酒を注ぐ。
「…お前は、それだけの信頼を得ている人間だからだ」
「それは、カミューの方だろう。俺は知っての通り、後先を考えずに行動する 人間だからな。お前こそ、今のマチルダを率いていくのに相応しい、と俺は思う」
 衷心からの言葉だった。ひとを妬むこともなく、己を誇示することもなく、 極自然に彼は真直ぐに佇んでいる。
「…私は、お前の手助けをしている方が性に合っている。これは私の本心だ」
 静かな微笑を刻んで、カミューはそう告げた。
 微かに立ち上る芳醇な香りと、静かに揺れるランプの仄かな明かりの中、 カミューは静かに自分を見据えていた。その光景は、マイクロトフの記憶に 深々と刻まれ、遥か後々まで忘却の彼方へと投じられることはなかったので ある。





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