Alone
 Act.1


 長きに渡り、人心を疲弊させ、多くの嘆きを生み出した戦いが終焉を告げ ようとしていた。
 かつて都市同盟の中枢を担ったミューズは、それ故に都市としての発展も 著しく、ティントからハイランドまで広がる新たな国の丁度中間に位置し、 基盤を築き上げていくには、適した場所といえる。ただ、この場所はかつて 狂皇子ルカ・ブライトが、多くの人々の命を「獣の紋章」への供物として捧げ た場所であり、そういった場所を新しい国の中枢に据えるのは余り望ましい ことではない、という意見も多々あった。しかし、今現在は新たな秩序を構築 する最中であり、それが完成して後に首都を別な場所に見い出せば良い、とい うのが秀麗な美貌を持つ軍師の意見だった。
 一方、かつてただ一人の少年の下、多くの力と人が集うたノースウィンドの 城は、閑散とした印象を拭い切れぬ程に人が減っていた。目的を果たした後、 共に戦い抜いた多くの人間たちは、それぞれ己の故郷や新たな目的地へと 散っていったからである。
「輝く盾の紋章」を宿した、黒い髪と瞳をした少年は、かつて赤月帝国を打ち 倒した少年がそうであった様に、新しい秩序を地に齎して後、いつの間にか姿 を消していた。
 この長き戦いの果てに見い出された玉座は、彼にこそ相応しいものであると 皆が信じていた。同盟軍を統べる役割を与えられた時から、ずっと己の心を 殺し続け、血の繋がらない姉が斃れた時にも、黒い瞳の奥に頑なと称し得る程 に感情を隠し続けていた少年は、初めて皆のその望みを拒んだ。
「許す者の印」を生まれながらにしてその身の内に抱いているのだろう、自ら が辿った過酷な運命に繰言を言うでもなく、ただ黙然と戦場に馳せ参じ、敵を 打ち倒してきた少年に、これ以上無理強いをすべきではなかった。


 新たな国を創造するに当り、かつて都市同盟の中でそれぞれ名を持っていた 国々を、どの様な形でまとめていくのか、それは極めて困難な問題であった。 昼夜を徹しての議論の中、自治権を強く認めるべきとの意見もあったが、そ れはかつての都市同盟の形態と何ら変わるものではない。通貨や税制、刑法、 学問などは統一されて然るべきだった。
 元来、全く異なる習慣を持つ住民達を、果たして同じ刑法で裁くことは有益 であるのか?それぞれ、必要とされる学問は異なるのではないか?議論は白熱 し、なかなか一つの場所へと帰着する気配を見せなかった。
 この地に、統一された意思を持つ、強大な国を造り上げること。それは争い を回避するたった一つの方法だった。かつて都市同盟が、それぞれの利害を 優先する余り、意思統一を図れずにルカ・ブライトの猛攻を止めることが出来 なかったことを考えれば、人心を一つに束ね上げるのは、必ずや為さねばな らぬ命題だった。
 ハイランドの脅威に抗すべく、同盟軍はかつて南に広がるトラン共和国と 盟約を結んでいた為、現在の彼等にとって最も注意を払うべきは、旧マチルダ 領からハイランド王国領に至るまで、北に広く隣接するハルモニア神聖国であ る。新たな国を築き上げる歩みが遅々として進まなければ、おそらくかの国は 組し易しと判断して、一気に攻め込んでくるだろう。
 ハルモニアに抗する為、或いは旧都市同盟及びハイランド領の市民達に不安を 与えぬ為、一刻も早く新たな秩序を打ちたてる必要があったのだ。


 マチルダ騎士団で武勇を誇っていた二人の青年は、領地に戻る暇も無いまま、 旧騎士団の代表として、日々新たな秩序を作り上げる作業に追われていた。
 ロックアックス城が同盟軍の手に落ちて後、騎士団領では混乱が続いて いることを、二人は部下からの報告で知っていた。自分が生きてきた国、守っ てきたものが、砂で造られた楼閣の様に脆くも崩れ落ちていくことは、マイクロ トフにとって半身が崩れ落ちていく様に耐え難いことであった。それでも、彼 はその事実に対する感情を何ら表に出すことはなく、新たな国を作り上げてい く作業に没頭している。
 その心の中に吹き荒れている、激しい嵐の存在に、唯一人カミューだけは 気付いていた。
 彼は騎士団を愛し、領民をも愛した男であったから、失われていく国と、 民の心を慮らぬ筈は無かったのである。部下たちもそれを知ってはいたが、少 なくとも表面上は完璧にその感情を隠し遂せていたマイクロトフに、あえて 騎士団の話題を供する者は居なかった。
 繁忙な業務のさなか、マイクロトフは遠くマチルダに広がる山脈の連なりに、 強い視線を向けていることが幾度もあった。今現在自分と共にこの場所に居る 部下たちを、マチルダに帰してやりたいという思惟、残った騎士たちや領民の 不安、様々なものが彼の心を捉えつつも、マイクロトフはただこうして故郷の 方向を見詰めていることしか出来なかった。
 青騎士団長であった頃から、彼は部下も連れずに馬を駆り、領地へと赴くこと は多々あったが、本質的に自分の役割というものを善く理解している男だった。 自分は今マチルダの代表としてこの場所に居るのであり、それを投げ打って 領地に戻ることは、逆に故郷の為には得策ではないのだ。
 マイクロトフの考えは正しい、とカミューも首肯してはいる。それでも、いつ かはマチルダに帰るべきであるとも考えていた。
 ―――― 彼は、マチルダに帰るべき人間だった。


 マチルダ騎士団領で白騎士副団長を務める男から、ミューズで執務に精励す る二人の青年の元に使者がやってきたのは、空が高く澄んだ秋の午後のことだった。
 指導者を陰で支えることが本来の姿である軍師たるもの、表に立って統べて いくことは、おそらく彼にとっては本意ではないのだろう。元マチルダ騎士団 赤騎士団長と青騎士団長を執務室に呼び出したシュウは、最近彼の常となり つつある険しい表情を隠そうともせぬままだった。
「お久し振りです、マイクロトフ様、カミュー様」
 白騎士団で幹部を務めている男は、さも懐かしげな表情で二人に敬礼を施した。
「…白騎士団副団長が、戻ってきて欲しいと言っているそうだ」
 静かな口調で、シュウはそう告げる。形の良い眉を微かに上げて、カミュー は軍師たる男に視線を向けた。黒曜石の瞳を持つ青年は、無言のまま使者に 一瞥をくれる。使者たる白騎士は、真摯な口調で訴えた。
「…戦わずしてハイランドに降伏した時、騎士団を離れていった者も数多く、 残った者たちも、戦いによって戦死した者が多数おります。最早騎士団という 形が失われるのは致し方ないことですが、領民の間に不安が広がっているのは 決して看過できるものではないでしょう。どうか、お二方に御戻り頂き、騎士 団を再建して頂きたいと、皆が望んでおります」
「……」
 硬質な唇を更に堅く噛み締め、無言のまま佇むマイクロトフを気遣わしげに 見詰めると、カミューは静かな口調で切り出した。
「…今更我らが戻ったところで、卿らの役に立つことは出来ないだろう」
「…カミュー様…」
 沈黙の淵に佇んでいたシュウが、冷静極まり無い口調で言う。
「…出来れば二人には、旧マチルダ領に戻って貰いたい。今後は、あの地もハ ルモニアとの最前線になる。その場所が安定しないのは、余り感心したことで はないからな」
「…シュウ殿…しかし、我々は…」
 彼らしからぬことであったが、マイクロトフの言葉には極僅かな逡巡があった。 彼はエンブレムを捨てた時、最早自分はあの国には必要とされぬ人間であると 思っていた。
 マチルダの旗の下へ集い、騎士の誓いを立てた時から、マイクロトフは己の 内部で騎士たる定義を確固たるものにしており、それは騎士団長という地位を 捨てた今でも胸の内から消え失せてはいない。
 カミューを始め、多くの騎士たちが自分に信頼を寄せ、地位や名誉、全ての ものを捨ててまで、同じ道を歩んでくれた。その事実は、常にマイクロトフ の感情を深く浸し上げていたが、同時に多くの人間達の人生を狂わせたのだ という苦い痛みも、決して消え失せることはなかった。
「…一晩ゆっくりと考えたら良いだろう。どちらにせよ、誰かがマチルダを 再建しなければならないのだから」
 シュウが静かな口調でそう告げ、使者たる白騎士は深々とこうべを垂れた。
「…お待ち申し上げております、マイクロトフ様、カミュー様」
 黒い瞳に、複雑な感情の波が揺れている様を、カミューは無言のまま見詰め ている。やがてカミューは穏やかな声音で使者を労って後、マイクロトフと共 に部屋を出ていった。


 彼等はそれぞれ狭いながらも隣接する部屋を与えられていたが、殆どの夜を どちらかの部屋で共に過ごすことが多かった。
 その夜、マイクロトフの部屋を訪れたカミューは、闇の帳が降りた室内の中、 明かりも灯さず椅子に座して身じろぎもせぬ彼に、苦笑めいた微笑を浮かべる。
「…明かりもつけていないのか、マイクロトフ」
「…ああ。…考え事をしていた」
 静かな口調だったが、今やさして迷いは無い様に思われた。騎士団が脆くも 瓦解し、領民が不安におののく現状で、彼にマチルダを棄てることなど出来る 筈はないのだ。
 不意に、マイクロトフの腕が伸びてカミューを抱き寄せる。闇の中、彼の 唇がゆっくりと自分に触れた。熱い感触が、互いの体温を伝えていく。カ ミューもまた、マイクロトフの頬にそっと手を伸ばした。


 肌を重ねる様になったのは、いつからだったろう。同じ日に騎士見習いに なり、同じ理想を仰いで共に歩んできた自分たちが、こうして互いの肌の熱さ を知ったのは、いつだったのか。
「…マイクロトフ…」
 端正な唇が、彼の名を紡ぎ出す。彼の唇がカミューのそれに重なり、言葉を 塞いでしまう。彼と肌を重ねる度に、甘い罪悪感と苦い充足が自分を緩やかに 包み込む。
 悦楽故に、薄い闇の中でもなお鮮やかな白い喉を反らしたカミューに、マイ クロトフの手が彼を堅く抱き締める。幾度となく重ねられる唇。
 同性に抱かれる、微かな嫌悪感。それを更に上回る、彼への深い感情。
 決して、悦楽のみを求めているのではなかった。言葉を重ね、穏やかな微笑 を交わし合い、そして唇を重ねる様に。互いの肌を重ね合う。それは日常の中 に極自然に溶け込んだ光景だった。
 甘い波がカミューを浚う。繰り返し、幾度も。腕を伸ばし、マイクロトフを その中に抱き締める。既に慣れ親しんだものへと変貌を遂げつつある、彼の引 き締まった体躯を感じた。


 ―――― これが罪だというのであれば。


 熱く火照った肌を、静かな夜の大気がゆっくりと冷やしていく。マイクロト フの心音に耳を傾けて、カミューは静かな口調で告げる。
「…マチルダに帰るのだろう、マイクロトフ?」
 その言葉に、マイクロトフは驚いた表情でカミューを見下ろした。静かな 微笑を刻んで、彼はもう一度口を開く。
「お前のことだ。マチルダを見捨てることなど出来ないだろう?それに、私 たちに付いてきた人間も、マチルダに帰してやるべきだろうし」
 ハイランドに降伏した時、騎士団から離脱した騎士が少なからず居たという 事実を、カミューもまた知っていた。誇り高きマチルダが戦わずして落ちたと いう屈辱故に、城を去った者も多く、ロックアックスが同盟軍の手に落ちた時、 最早騎士団は消滅したと称して過言ではない状況にあった。白騎士団で副団長 を務めていた男が未だ城に残り、様々に手を尽くしているのだが、何分にも 一度失われた騎士団への信頼を取り戻すには、残った騎士の数自体が少な 過ぎる。
 国を守る立場にあった騎士団が存在しない状態で、領民の不安も極めて大きい。 その不安、或いはロックアックスを同盟軍が落したことで、自分たちに対する 不満をも彼等は抱いているだろう。この小さな火種は、いつか巨大な焔とな って新たな国を焼き尽くすかもしれない。
 それを防ぐために、そしてあの国で生まれた者として、マイクロトフはマチ ルダに帰ることを考えている筈だった。一度捨てた国であろうとも、彼はあの 国を愛しているのだから。
「―――― 帰ろう、マイクロトフ。私たちには、まだやらなくてはならない ことがある」
 不意に、マイクロトフがカミューの頬に口付けた。自分を抱き締める腕を 感じて、カミューはふと目を伏せる。
「…ああ。そうだな。俺たちには、まだやらなくてはならぬことがある筈だ」
 またカミューに背を押されたことを感じて、マイクロトフは闇の中、微かに 苦笑を浮かべる。ずっと、そうだった。常に自分は先走り、怒り、そして迷う ことを繰り返してきたのだが、常に傍にカミューの存在を感じていた。
 優雅な容貌を持つ赤騎士団長たる青年は、自分に対して賢しげな助言を 与えたことは無い。時に困った様に微笑し、時に端正な眉を微かにしかめる ことはあったが、自分の行動を否定したことは一度もなかった。
 彼の為す行動、全てが自分に力を与えてくれた。彼が傍に居るということ、 それは自分にとってどれ程大切なことであるのだろう。


 ―――― 帰ろう。マチルダへ、お前と共に。



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