しいや研究室−真田太平記TOP                                         

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 それぞれの夏

「本日、父安房守ならびに弟左衛門佐は徳川家より離反と相成った」

 昌幸謀反の報は、信幸の手ですぐさま徳川家へ伝えられた。だが、家康の陣に赴いた信幸を見つめる諸将の目は冷たい。

 東軍から西軍に寝返ったのは、真田本家のみだった。真田は表裏の者、分家の信幸もいつ裏切るか知れたものではない−、そんな視線を、信幸はただ耐えるしかなかった。そんな中で、ただひとり、信幸の忠誠を心から信じて疑わない人物がいた。ほかならぬ、徳川家康であった。

 八月に入って、徳川軍はいよいよ西へ進軍を開始、信幸は中仙道を経て美濃へ向かう徳川秀忠(中村梅雀)の軍に組み入れられた。その中仙道と昌幸が立てこもる上田とは、目と鼻の距離である。

「もし上田攻めとなれば、徳川への忠誠を示すためにも先鋒を願い出ねばならぬ。そのとき、わしは……」

 信幸の、本当の意味での試練は、いま始まったのである。

 そして、そのころ、上田城では草の者お江が、幸村に最後の別れを告げていた。

「わたくしの女も、今夜が限りでございます」

 お江は西軍を勝利に導くため、ただ一人家康の本陣を襲い、家康と差し違える覚悟を固めていた。

 主家、武田家の滅亡から十八年。昌幸、信幸、幸村親子は、結束してたび重なる苦難を乗り越え、真田家を信濃の一豪族から上信二州きっての戦国大名にまで興隆させてきた。だが、天下分け目の決戦を前に、それぞれの信念を胸に、別々の道を歩み始めようとしている。そして一ヶ月後、真田父子は、上田で敵味方としてあいまみえるのだった。

 

 これからの展開

 八月二十四日、宇都宮を出発した徳川秀忠率いる徳川第二軍は、信州小諸に進出。上田城に立てこもる昌幸へ、信幸を使者に立てた。城を明け渡せば、今回の謀反は不問に付すというのである。

 昌幸は、わが子の勧めとあらば、−と快諾し、三日の猶予を要求した。だがそれは、秀忠軍を上田に引き止め、関ヶ原への参戦を遅らせるための策略だった。

 昌幸の企みを知った秀忠は、怒りにまかせて上田城攻撃を開始した。その先鋒には信幸が命ぜられた。しかし秀忠勢は真田親子の巧みな軍略に陥り、またしても撃退された。そのため関ヶ原の決戦に間に合わず、秀忠は家康から激しい叱責を受けることになるのである。秀忠の“真田憎し”の思いは、さらに深まり、徳川軍の中での信幸の立場は、いっそう厳しいものとなっていく。

 一方、お江は長良川を渡河中の家康をたったひとりで急襲、いま一歩のところまで追いつめるが、甲賀忍び猫田与助(石橋蓮司)に阻まれてしまった。

 昌幸は確信していた。「草の者ならば家康の首を必ずや討ちとるに違いない。そのうえ、わしは秀忠を上田に引き止めた。西軍が負けるはずがない」−。

 だが、西軍は大敗、お江は深手の傷を負い、又五郎は目的を果たせぬままに関ヶ原で戦死した。昌幸の野望は、むなしくついえたのである。

 そして、徳川家から真田本家に対し、昌幸、幸村の切腹命令が下る−。

 

 

 

 

 

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