しいや研究室−真田太平記TOP                                         

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真田太平記 9月のあらすじ

 

 

 会津討伐命令

  慶長五年(一六〇〇)太閤秀吉(長門裕之)が死んで二年−。それまで秀吉の比類なき威光を前に、じっと耐え忍んできた徳川家康(中村梅之助)が、いよいよ天下人の座をめざして牙を剥き始めた。

 家康は豊臣家臣団の内紛に乗じて、反徳川の急先鋒・石田治部少輔三成(清水紘治)を近江佐和山に退かせると、前田利長、浅野長政、細川忠興といった豊臣の実力者に謀反のぬれぎぬを着せて、強引に屈服させてしまったのである。

 秀吉の遺児・秀頼を主とあおぐ豊臣恩顧の大名は、まだ多い。だが、これまで今川義元、織田信長、豊臣秀吉のもとであらゆる辛酸をなめつくしてここまで生き抜いてきた家康であるその獅子のごとき大胆さと狐のごとき狡猾さに、豊臣方大名は次々と切り崩されていく。そしてその矛先は、会津の上杉景勝(伊藤孝雄)に向けられた。

 慶長五年六月二日、再三の上洛要請にも応じようとしない景勝に対し、家康は全国の諸将に討伐命令を下したのである。

 この討伐命令は、真田昌幸(丹波哲郎)、幸村(草刈正雄)を大いに動揺させた。というのも、十五年前の天正十三年、真田家が徳川の精鋭部隊を上田に迎え撃ったおり、昌幸は自分がさんざん裏切りを繰り返してきた上杉景勝に助けられているのだ。それだけではない。景勝は、人質として越後に送られてきた幸村をかわいがり、戦国武将の心得や、上杉家の優れた兵法を惜しみなく伝授したのである。

「源二郎、景勝様の御恩、忘れまいぞ。−わしは忘れぬ!」

 そのとき昌幸は、幸村に何度もこうつぶやいたものだ。その景勝に、どうして槍など突きつけられようか。

 もしこのとき、景勝から援軍を請われれば、昌幸・幸村父子は何ら迷うことなく景勝のもとに駆けつけただろう。

 だが−、上杉からは何の知らせも寄せられなかった。

「仕方あるまい……」

 昌幸は、さびしげにつぶやいた。

「大恩ある上杉を攻むるには忍びないが、いまは家康に逆らえぬ……」

 その横顔は、無念の思いに満ちあふれていた。一方、沼田に分家した信幸(渡瀬恒彦)とて、思いは同じだった。だが信幸は、秀吉亡きあと頼みに思うは家康のみ−と思い極めている。そしてそれは、いまや確固たる信念として信幸を支えていた。

 

 犬伏の別れ

  六月十六日、上杉討伐のため家康が大坂城を出陣した。それに応じて昌幸、幸村は上田を、信幸は沼田を出陣、徳川軍に合流すべく日光街道へと軍を進めた。

 その間、京、大坂で思わぬ異変が突発した。近江佐和山に蟄居していた石田三成が、上杉景勝と謀って、家康を倒すため決起したのだ。家康の専横を憎む大名が次々と大坂に結集し、五大老のひとり毛利輝元(中山昭二)が西軍の総大将として大坂に入城した。関ヶ原の決戦に向けて、いよいよ東西の大名が動き始めたのである。

 下野国犬伏に滞陣中の昌幸は、三成の密使からこの西軍決起の報を受けるや、にわかに顔色を上気させた。割り切れぬままに徳川に従軍したものの、いまこそ景勝に味方する決心がついたのだ。

「しばらく猶予をくだされ」

 昌幸は三成の使者を下がらせると、すぐさま信幸、幸村を呼び寄せ、徳川に反旗を翻す決意を打ち明けた。

「お断りなされませ」

 信幸は、言下に言い放った。

「恐れながら、治部とのにては先行きが危うございます」

 事実、西軍はまとまりを欠いていた。三成に人望がないのである。西国で諸将の動きを探っている又五郎(夏八木勲)、お江(遙くらら)ら真田の忍びたちも、そのことを危惧し始めている。だが、その知らせは犬伏にまだ届いていない−。

 信幸は、一歩も引かなかった。

「父上はこれより先、ふたたび天下とりの戦乱が続くことを望んでおられまするか? もしや父上は、戦乱に乗じて世に出ようと−!?」

 これは、昌幸の胸の奥底にひそむ野心を、まさに見透かしたものであった。

「もうよい、豆州」

 昌幸の表情が、ゆるんだ。

「これで、決まったのう」

 真田家は、ついに分裂したのだ。

「親子、兄弟が敵味方に別れるのも、あながち悪しゅうはござるまい。のう兄上」

 沈痛な空気を。幸村が破った。

「そうかの−」

「もし兄上、沼田が立ちゆかぬ時は、わたくしの上田がございます」

「−! 上田がいかぬ時は、沼田……」

 瞠目する信幸を見つめながら、幸村がニヤリとうなづいた。

 

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