〜3〜
MAY
暖かい‥‥懐かしい感覚に、レイヴはぼんやりと身を任せていた。
確かに覚えがある感覚‥‥しかしいつ感じたものだったろう。
何とか思い出そうと考えているうち、何かに引きずり上げられるように意識が浮上する。
次第に感覚が戻って来ると、不思議な事に、あんなにも酷く全身を苛んでいた傷の痛みがない。
―――俺は‥‥死んだのか?
痛みがないとするとそれしか思いつかない。
ふと、自分の上に何かがある感触に気付く。
柔らかく、そして不思議に懐かしい何か‥‥それを確かめるためにゆっくりと目を開いてみる。
真っ先に視界に飛び込んで来たのは、柔らかい黒髪だった。
見覚えがある、しかしこの場にいるはずのない人の姿に、レイヴは一瞬、混乱した。
しかし、レイヴに縋るようにして覆いかぶさっている体は、確かに質量を持った現実の物だ。
だとすれば、これはやはり現実なのか?
「ラビエル‥‥!」
抱え起こそうとして、その背にあの美しい翼がない事に気付く。
代わりに、二つの大きな傷が真っ赤な血を流している。
傍らにはかつてレイヴが贈った鋼の剣。血に濡れたそれと、鋭利な傷を見れば、おおよその見当はつく。
だが何故‥‥何故彼女は自ら翼を切り落とすような事をしたのだろう。
「ラビエル!」
呼んでも何の反応も見せないラビエルの顔は蒼白だった。
その手足は氷のように冷たい。
対して、レイヴが負っていた傷はほとんど消えてしまっていた。
この状況を見れば、ラビエルが何をしてくれたのかはすぐに分かる。
天界に帰ったはずの彼女が何故‥‥しかしそれよりも、彼女の傷はどうすれば癒せるのだろう?
レイヴが唇を噛んだ時。
薄暗い森の中を眩しい光が照らし出した。
まばゆい光の中、ぼんやりと女性の姿が浮かび上がる。
しかし光があまりに眩し過ぎ、相手の姿は逆光になってシルエットしか見る事が出来ない。
《‥‥騎士レイヴ、ですね?》
深い慈愛の籠もった、優しく、静かな声が言った。
「‥‥あなたは?」
レイヴにも分かる、慈愛に満ちた彼女の中には、堕天使すら相手にならない程の強大な力が秘められている事が。
《私は大天使ガブリエル。そこのラビエルをインフォスに遣わした者です》
「大天使‥‥!」
レイヴは呆然とつぶやいた。
が、すぐにその表情が厳しくなる。
「インフォスの危機にも姿を現さなかったあなたが、何故ここにいるのだ?」
《このインフォスにはもう、天界の干渉が許されません。『天使』が地上にいてはならないのです》
「ラビエルを‥‥連れ戻しに来たと言うのか?」
《だと‥‥したら?》
傷ついたラビエルは、天界に戻れば癒されるのかもしれない。
しかしレイヴはもう、ラビエルと別れる事など考えられなかった。
誰にも渡さない、渡したくない。そう、たとえ神が相手であろうとも。
自分の中に、こんなにも強い独占欲があったとは‥‥レイヴは自分自身が意外だった。
「たとえ大天使、あなたでも‥‥ラビエルは渡せない」
一度別れて、諦めたような気になっていた事がかえって彼女の存在を大きくしたのかもしれない。
たとえ何があろうとも‥‥もう二度と、ラビエルと離れ離れになりたくなかった。
そんなレイヴの心の動きまで分かっているのか、ガブリエルは静かに続けた。
《ラビエルも地上に戻る事を望んでいました。しかし私は許さなかった‥‥ラビエルは私の言い付けを破り、この地上へと降りました。全ては騎士レイヴ、あなたを救うために》
レイヴは唇を噛んだ。
自分の危機が、不注意が、彼女にこんな決意をさせたと言うのか。
《かつて、同じように人間と恋仲になって地上に降りた天使がありました。しかし彼等は、力を求める魔物達の手にかかって命を落とした‥‥私は、愛する子供達にこれ以上不幸な死を迎えて欲しくありません。たとえ今苦しかったとしても、死ぬよりはましです》
レイヴはラビエルの体をそっと横たえ、立ち上がった。
光に包まれたガブリエルを真直に見上げる。
「その人間は、多分何も後悔していなかったと思う。愛する人のためならば、どんな危険でも怖くはない。たとえ魔物に殺されたとしても、きっとその人間は幸せだっただろう」
きっぱりと言い切るレイヴに、ガブリエルは考え込む素振りを見せた。
《‥‥ならば、私にその決意を示しなさい。私に傷を負わせる事が出来たら、ラビエルに地上で生きる事を許しましょう》
意外な言葉に、レイヴはためらった。
あまりにも強大な、そして侵すべからざる存在である大天使に刃を向けても良いのだろうか。
《どうしました?早くしなければ、ラビエルの命の炎は消えてしまいますよ》
ガブリエルの言葉に、レイヴは思い出してラビエルを見下ろす。
そうだった、ラビエルは今にも死に瀕しているのだ。
レイヴは、覚悟を決めて剣を抜いた。
戦う相手として見た大天使は、ちっぽけな人間など触れる事も許されないような強大な存在に見えた。
だが、負けられない。
自分にとって何が一番大切なのか、それを身をもって示さねばならない。
剣を構え、レイヴは精神を集中させた。
大天使に小手先の技など通用しないだろう。
となれば、全身、全霊を懸けた自分の最大の技で挑むしかない。
裂帛の気合と共に、レイヴはガブリエルに真っ向から斬りかかった。
あらゆる精神力、いや生命力さえも、剣のただ一点に集中した技。
これで両断されない物はない。そう‥‥たとえ堕天使であろうとも。
必殺の剣がガブリエルに触れる直前。
強大な攻撃力の全ては方向を変えられ、そっくり跳ね返された。
「――っ!」
皮肉にも、レイヴは磨き抜かれた自分の技の威力を、自分自身の体で確かめる事になった。
とっさに眼前に構えた剣で受け流そうとしたものの、凄まじい威力にレイヴの体は飛ばされ、大木の一本に叩きつけられる。
ダメージの大きさを物語るように、大木の幹には亀裂が入っていた。
「う‥‥」
崩れ落ちそうになる体を、剣を支えに必死にこらえる。
内臓までダメージを負ったのか、レイヴは込み上げて来た血の塊を吐いた。
《それで、終わりですか?》
静かな言葉に、レイヴはガブリエルを睨みつけた。
「いや‥‥まだだ」
口元の血を拭い、フラつく足を踏み締めて、レイヴはもう一度剣を構える。
《勝てると‥‥思いますか?》
ガブリエルの言葉に、首を振る。
「あなたが本気でいる限り、俺に勝機などあるはずがない。だが言ったはずだ‥‥愛する人のためならば、どんな危険でも怖くはない、と。たとえそのために命を落としても、それで十分満足だ」
もう一度‥‥レイヴは技を繰り出した。
傷付いた体はさっきの半分の力も出す事は出来なかったが、それでもレイヴは正面からガブリエルに斬りつけた。
と‥‥ガブリエルの姿が光に溶け、レイヴの剣に引き裂かれるように四散した。
「?!」
慌てて辺りを見回す、しかしガブリエルの姿はどこにもない。
呆然とするレイヴを光の粒子が包み込んだ‥‥。
はっ、と、レイヴは我に返った。
彼はラビエルの体を抱いて、大木に寄りかかったままだった。
ガブリエルに技を跳ね返されて負った傷は跡形もない。
「夢‥‥?まさか‥‥」
《騎士レイヴ、あなたの覚悟は見せてもらいました》
ガブリエルの声に、レイヴは辺りを見回した、しかしそれらしい気配は何もない。
《インフォスに、大天使である私が降りれば世界のバランスが崩れてしまう‥‥だからあなたの意識の中に直接、私のイメージを送り込みました。話し始めてから、ほとんど時間は経っていませんよ》
「‥‥‥」
あの強大なプレッシャー、そして傷の痛み‥‥あれが全部頭の中でだけ感じていた物だったと言うのか?
《私には、愛する天使を癒すために力を使う事は許されていません。‥‥これが、最後の助けと思いなさい》
レイヴの目の前に生じた光の粒子は、一カ所に集まると不思議な色の液体の入った小さな瓶の形を取る。
光の具合によって美しい翼が浮かび上がって見えるそれは、天界でのみ作られる薬だ。
レイヴもかつてラビエルから貰った事がある。どんな傷でも一瞬で治してしまうと言う脅威の回復薬だった。
瓶の蓋を取り、レイヴは薬を口に含む。
抱き上げるようにして、レイヴはラビエルと唇を合わせた。
こくり、とラビエルの白い喉が動く。
ラビエルが薬を飲み込んだのを確かめ、レイヴは唇を離した。
薬の効き目は絶大で、出血は瞬く間に止まり、うっすらと傷が残るだけになる。
ほぅ、とレイヴが安堵のため息をついた。
《幸せを祈ります、私の愛する子供達よ‥‥》
ガブリエルの言葉が、優しく聞こえたような気がした。
「‥‥ガブリエル様‥‥‥」
ラビエルの唇が小さく動いた。
意識がなくとも、彼女はガブリエルの存在を感じたのかもしれない。
全ての気配は消え、森の中は耳が痛い程の静寂に包まれる。
レイヴの腕の中のラビエルは、まだ意識を失ったままだった。傷は癒されても、失った血が戻る訳ではない。無論、失った翼も。
華奢な体を、レイヴは優しく抱き締めた。
一度は諦めたその人が、自分の腕の中にいる‥‥それは、まだ現実とは信じられないような幸せだった。
もしも手を放してしまえば全てが夢になってしまいそうな気がして、レイヴはラビエルを抱き締めたまま、ずっとその場を動かなかった。
END
すいません、最後ラブシーン逃げました。バトルで力尽きてしまった‥‥。元々は、すんなり結ばれるなんてつまんない!(いぢめっこ)と思って作った話なんですが。大体、ラブストーリーを目指したのに何でこんなに血が飛び散ってしまったんだ?しかも、変に長いし。ラブストーリーの影も形もないですねぇ。