〜2〜
MAY
『この地上に残れるように、お願いしてみます』
彼女は、見とれるような暖かい微笑と共にそう言った。
地上に残ってほしい、そして自分の側にいてほしい‥‥我が儘な自分の言葉に、彼女は一瞬、驚いた顔をして‥‥そして、嬉しそうな笑顔を見せてくれたのだ。
堕天使との最後の戦いの前に、レイヴはラビエルに告白した。
無論、そう心に決めるまでには相当悩んだし、中々言い出せなかった。
しかし生きて帰れるかどうかも分からない強大な敵との戦いを前に、今の自分の気持ちを告げて置きたい、そう決心した上での告白だった。
それまでの悩みはどこへやら、一旦口にしてしまうと気分は楽になった。
彼女が答えてくれるのかどうか、それよりも、彼女が自分の言葉を拒絶しないでくれた事が嬉しかった。
そして、彼は堕天使との最後の戦いに勝利した‥‥。
―――――――
堕天使との戦いを終え、ラビエルは報告のため天界へ戻って行った。
そしてレイヴは、故郷ヴォーラスへと戻った。
どこから漏れたのか、このインフォスを救ったのがレイヴだと言う話になっていた。
確かにガープを倒したのは自分だが、それは天使の加護があったからだ。
各地で他の勇者達が時を歪める原因を取り除いてくれた事もある、自分だけの手柄ではない。
しかしそんな事は、平和を喜ぶ人々には何の関係もない話だった。彼等にとっては、そこまでの経過よりも結果が全てだったのだ。
いくらも経たないうちに、レイヴは騒ぎ立てる人間達の相手に疲れ果ててしまった。
その上国王まで強力にレイヴを近衛騎士団長に、と望んだ。
しつこい程の誘いを固辞して、レイヴは早々に辺境警備への配置替えを申し出た。
猶も残念がる国王を半ば強引に説得し、レイヴはやっとヴォーラスを後にしたのだ。
そんな雑事に忙殺されているうち、瞬く間に一月近くが過ぎ去っていた。
そんな、ある日。
任務も訓練もない午後。レイヴは宿舎の裏の小高い丘の上で休んでいた。
何もない時は、こうして一人でいた方が気が休まるのだ。
そこに、唐突に妖精のシェリーが姿を現す。
「あ‥‥あの‥‥」
姿を現したものの、言葉に詰まっているシェリーに、レイヴは彼女の言いたい事を読み取った。
いや、この場にラビエルでなく、シェリーが姿を現した時にレイヴには分かった。
「来ないんだな、ラビエルは」
責める口調にならないよう、レイヴは必死に自分の心を落ち着ける。
「‥はい‥‥その‥‥もう、来られないんです、天使様‥‥」
どう言ったらいいのか‥‥シェリーが悩んでいる事は良くわかった。
「天使様‥‥ごめんなさい、って。お別れの言葉も自分で言えなくて、本当にごめんなさい、って‥‥」
シェリーは、まるで自分が悪いかのように、泣きそうな顔で言った。
「‥‥そうか」
その答えは、いつもと同じ平然とした様子で言えたと思う。
「勇者様‥‥」
あの律義な彼女が自分で別れも言えず、妖精に頼んだのである。きっと彼女が帰ってから何かあったのだ。
「大変‥‥なんだろうな。お前も、ラビエルも‥‥」
むしろ静かなレイヴの言葉に、シェリーは言葉を飲んだ。
「俺は、元気にやっている‥‥だから何も心配するな」
レイヴは、微笑して見せた。
「はい‥‥また‥‥来ますっ!」
それ以上我慢出来なくなったのか、シェリーが顔を背けて姿を消した。
いつも明るく元気、が取り柄な彼女は、泣き顔を見られるのが嫌だったに違いない。
彼女が消えると、レイヴは太い木の幹によりかかった。
ショックがないとは、言えなかった。
いや、自分でも驚く程落ち込んでしまっていた。
天使――本来ならば触れる事も憚る神の使い。
しかし実際に彼女と言葉を交わし、戦いに赴き‥‥いつしか手を伸ばせばすぐに届く、そんな気がしていた。
妖精に会いたいと告げれば余程でない限りすぐに会いに来てくれる。
そんな関係があまりにも当たり前になってしまって‥‥いつの間にかレイヴは、子供じみた錯覚に陥っていたのかもしれない。
そう、天使は自分の言葉を何でもかなえてくれるのではないか、そんな勝手な思い込み。
我ながら、随分とうぬぼれていたものだと思う。
人間である自分が、天使である彼女と結ばれたいなど‥‥ほんの一時とは言え、そんな夢が見られただけでも幸運だったのかもしれない。
一陣の風が、大木の枝を揺らした。
明るい緑の葉が、心地良い音をたてた。
レイヴの前髪が風に揺れる。
爽やかな風は、あの純白の翼を‥‥ラビエルを思い出させた。
レイヴは、鎧の内側から一枚の羽を取り出す。
どんな動物の物とも似ていない、眩しく輝くような白い羽根。ラビエルの残してくれた物‥‥。
レイヴは、純白の羽根にそっと口付けた。
「ラビエル‥‥」
愛している。
今までも‥‥これからも、ずっと。
辺境警備兵の日常は、どちらかと言えばのどかな方だった。
堕天使が滅ぶと、それまで出没していたほとんどの魔物達は、嘘のようにおとなしくなった。
ヘブロンを脅かしていたファンガムも、堕天使の手先として働いていた大臣がクーデターの後に倒され、今は国交を結ぼうと言う動きすら出ていた。
おかげで彼等は、ある程度訓練に励み、そして時折、まだ人間達を襲う魔物の討伐に向かう程度だった。
そしてレイヴは、普段は経験の浅い騎士達の育成に当たり、魔物の話が出るとその討伐に積極的に赴いて日々を過ごしていた。
そんな、ある日。
レイヴは、村の回りに出没する魔物の討伐を依頼され、管轄外の、少し離れた村まで来ていた。
腕の立つレイヴは、魔物が手強そうな場合には各地から呼ばれていた。
なにしろ堕天使をも倒した彼の腕前は折り紙付きである。
もっとも、だからと言って彼が戦ってばかりいた訳ではない。
レイヴはかつてラビエルの導きで、リュドラルと言う友人を得ていた。
堕天使についてまで竜族一の力を欲したマキュラを実力で下したリュドラルは、今や竜族の長となっていた。
魔物が村を襲うと言っても、リュドラルによればほとんどは野生動物と同じ、人間と生活範囲が重なってしまう事が大きな原因なのだと言う。
しかもその大半は人間の側が彼等の生活圏に踏み込んだ事が原因だった。
そんな時は、レイヴはリュドラルの助けを借りて魔物達と人間の妥協点を探し、争いが起こらないように収めていたのだ。
しかし今回は、少し様子が違っていた。
リュドラルに訊いても、その魔物の話は知らないと言う。
そして魔物の被害は、まるで堕天使がいた時のように残忍で、凶悪なものだったのだ。
村では、もう何人も被害に遭っていると言う。
さすがに村の中までは被害が及んでいないが、何かの用事で出掛けた村人は必ず惨殺されるのだ。
リュドラルが手を貸そうかと言ってくれたが、レイヴは断った。
もしも戦う事になった場合、彼を魔物と戦わせたくなかった。
リュドラルがいなくても、実際に会ってみれば相手が本当に生き物に害を及ぼす存在なのどうかは分かるだろう。
ラビエルと長くいたためか、レイヴは相手の害意を読むのに慣れて来ていた。
魔物をおびき出すために、レイヴは村から少し離れた小さな山に踏み込んでいた。
小動物や薬草など、この山には村人達の副収入源が多くあった。ここに立ち入れなくなる事は彼等にとってかなりの問題だったのだ。
山道を歩くレイヴは、まるっきりリラックスした様子に見える。
しかし目のある者が見れば、一点に緊張していないその様子がどんな状況にも対処出来る隙のない構えに見えるだろう。
と、レイヴの足が止まった。
うっそうと茂る木々が途切れ、少し開けた広場のようになっている場所。
向こう側に続いている林の中から、凶悪な気配が感じられる。
こちらの気配を伺っている。
襲いかかる隙を伺っている。
成程、村人であればさして気にも止めずに進んで行ってしまったろう。そして待っているのは死、だ。
レイヴは、ゆっくりと歩を進め、広場に出た所で足を止めた。その手はさりげなく剣の柄に添えられている。
不意打ちが出来なくなった事を知った相手の気配が揺れる。
レイヴは、気配の方向を睨みつけたまま微動だにしない。
と、薮の中から、大きな影が飛び出した。
人間の倍以上の大きさの獣‥‥狼にも似たその獣は、狂的な光を湛えた瞳を向けて来る。
人の血の味に狂ったのか、或いは何者かに操られているのか。
全身から殺気を発散させている魔獣は、説得する事も、適当に叩きのめして諦めさせる事も不可能だろう。となると、倒すしかない。
既に剣を抜き放っていたレイヴは、油断なく魔獣を睨みつけた。
―――――――
魔獣の強さは、かなりのものだった。
堕天使が滅びたにもかかわらず、こんなにも強力な魔物がまだいたとは意外だった。
それとも、何者かから力を得ているのか?
だとすれば、この魔獣は捨て石で、力を与えた何者かはこの戦いを見守っているのだろうか。
もしもそうならば次の戦いに力を温存しているべきなのだが、そんな手抜きを許さない程に魔獣は強かった。
既に何カ所かの傷を負わされた魔獣は、怒りに燃えた瞳でレイヴを睨みつけ、大きく咆哮した。
そして這いつくばる程に姿勢を低くする。
一瞬、力を溜めた後、魔獣は全身をバネにして地を蹴った。
高々と跳び上がった魔獣は、レイヴを目がけ、渾身の力をもって襲いかかる。
真正面から魔獣の牙が迫る。
これで最後、との気迫の籠もった攻撃は、中途半端な攻撃で叩き落とす事は出来なかった。
同じくレイヴは、自らの最大の力と技をもって剣を振るう。
堕天使ガープをも倒した最大の技は、魔獣を唐竹割りに叩き斬った。
強大なエネルギーの余波が、魔獣の骸を塵と変える。
「‥‥‥」
レイヴは、大きく息を吐き出した。
と、その時。
凶暴な殺意が辺りに満ちる。
人間と同じ位の大きさの魔物が、木々の間から姿を現した。
「サスガハ‥‥堕天使ヲスベテ倒シタ者‥‥‥」
金属をこすり合わせるような耳障りな声だった。
「貴様は‥‥?」
人間型の、しかも人と同じ言葉を発する事の出来る魔物は、堕天使を倒して以来初めて見る。
爬虫類に似た皮膚、長い尻尾‥‥直立したトカゲのようなその魔物の頭部は、むしろ人間に近い造作を備えていた。
額の辺りには滑らかに磨き上げた石のようなものが不気味に光り、瞳孔のない真っ赤な眼が殺意を湛えてレイヴに向けられている。
人間の物に近い手足には肉食獣のような鋭い爪が生えている。
「堕天使ヲ倒シタ貴様ヲ倒シ、ソノ血肉ヲ我ガ身ニ取リ込メバ‥‥我ハ堕天使ト同ジ力ヲ得ル事ガ出来ル‥‥」
魔物の言葉に、レイヴは眉を寄せた。
この魔物の狙いは自分だったのか?
魔物が簡単に力を得るためには、強いものの血肉を食らう事だ、と聞いた事がある。
とすれば、堕天使を倒した自分が狙われる事はあり得る話だった。
どうやら自分は、意図しないままに最良の選択をしていたらしい。
あのままヴォーラスに留まって、街にレイヴ目当ての魔物が現れるようになっていたら大変な事になる所だった。
「貰ウゾ‥‥貴様ノ命‥‥‥」
魔物の爪が長く伸びる。
魔獣との戦いで、レイヴはかなり力を使い果たしてしまっていた。
それが狙いでこの魔物は魔獣を先に差し向けて来たのだろう。
しかしレイヴも、むざむざやられる訳には行かない。
少なくとも、レイヴをおびき寄せるためだけに村人を殺したこんな魔物には負けられなかった。
―――――――
強力な魔獣を操るだけあって、魔物の強さは群を抜いていた。
しかもレイヴは魔獣との戦いの直後である。
ほとんど気力だけで保っている状態だったが、それでもレイヴは辛うじて勝利する事が出来た。
「馬鹿ナ‥‥コノ、我ガァ‥‥ッッ!」
力の源である額の石を破壊され、心臓もろとも胴体を両断され、ようやく魔物は力尽きた。
「‥‥‥」
魔物が事切れたのを確かめ、ようやくレイヴは全身の力を抜いた。
大きく息を吐き出し、レイヴは大木の一本によりかかるようにして体を支える。
が、最早立っている事も辛く、レイヴはずるずると座り込んだ。
鎧の左の肩当ては粉々に砕かれ、深い傷が口を開けていた。おびただしい血は手首の辺りまでじっとりと濡らしている。
小さく咳き込んだレイヴの口元から、鮮血が散った。
鎧の胸部分は、強力な魔法を受けてひびが入っている。
鎧では遮れなかったダメージで、肋骨が数本、へし折られていた。
そのままで戦っていたため、内臓に傷がついているかもしれない。
他にも、そう深くはないもののあちこちに傷を負っており、それらの出血がレイヴの全身を紅く染めていた。
今まで、強敵を相手にする時はほとんどラビエルの援護で戦っていた。
おかげで、すっかり、自分のダメージを気にせずに戦う癖がついてしまったような気がする。
とりあえず傷に手当をしなければ‥‥そう思っても、もう動く気力が湧いて来なかった。
一人で魔物の討伐に来て、こんなにダメージを受けたのは初めてだった。
無論今まで、これだけの強敵を、しかも二匹も相手にするような事はなかったためだ。
「見通しが‥‥甘かったな」
これ程の敵ならば、一人で来るべきではなかった。
戦うのは彼一人としても、回復のために援護要員でも連れて来るべきだったのだ。
考えてみれば、堕天使が滅びた今になっても人間を惨殺しているような魔物は、かなりの力を備えているか、或いは何か別の狙いがあるか‥‥当然、そこまで考えるべきだった。
もうラビエルはいないのだ、今までと同じ無茶は出来ない。わかっていたはずなのに‥‥。
―――このまま行けば、死ぬかもな‥‥。
肩の傷からはまだ血が流れ続けている。
止血だけでもしなければ、血が足りなくなって死ぬだろう。
いや、それより先に野生の獣にでも襲われれば、もう反撃する力は残っていない。
それらの事を、レイヴはまるで他人事のように考えていた。
自分は、こんなにも諦めの早い人間だったろうか。
いや、違う。ラビエルともう会えないと知ったあの日から、自分はどこか変わってしまったのだ。
毎日をいい加減に過ごしているつもりはなかった。しかしこんな初歩的な判断ミスをする程、自分は平静を失っていたらしい。
次第に全身の力が抜け、感覚も怪しくなって来る。
もう、何もかもがどうでもいいような気がしていた。
―――こんな死に方をすると知ったら、君は怒るか‥‥?
心の中で、あの優しい少女に訊いて見る。
答えはないまま、レイヴはゆっくりと目を閉じた。