〜3〜
MAY
ラビエルは、日に日に生気を失って行くようだった。
彼女は、少なくとも昼間は何事もなかった様子で与えられた仕事を確実にこなしていた。
インフォス守護の任務を完遂した彼女である、天界で与えられる任務など子供だましのようなものだったのだ。
しかし一日の職務を終え、部屋に戻ると、ラビエルはずっと泣き明かしていた。
ろくに食べ物も喉を通らず、ほとんど睡眠も取らず‥‥このままでは彼女の体がまいってしまう。
あまりの様子に天使達や妖精がその身を気遣うと、ラビエルは済まなそうにうなずく。
それでも一人になると、ラビエルは涙を堪える事は出来ず、結局朝まで泣き明かしてしまうのだ。
そんな、ある日。
いつものようにベテル宮に戻ろうとしたラビエルは、小さな話し声を耳にして足を止めた。
彼女はあまり気配を感じさせるタイプではない。そのくせ、好奇心は人並み程度にはある。
そのせいもあってか、彼女は地上界に降りていた時も、意図しないままに『立ち聞き』をしてしまう事があった。
どうやらその癖は全く直っていないようだ。
話しているのは妖精のシェリーとリリィらしい。
「どうしようリリィ、こんな事話したら、ラビエル様‥‥」
「確かに‥‥最近のラビエル様を見てると、すぐ飛んで行きそうだし‥‥でも、あんた嘘のつけるタイプじゃなかったものね」
「うん‥‥」
どうやら、彼女達の話題には自分の事がからんでいるらしい。
思わずラビエルは息を殺して耳をそばだてる。
「やっぱり、ティタニア様に相談するのが一番じゃないの?」
「あぁ‥‥よりによって、どうしてこんな時にティタニア様がいないんだろ‥‥!」
シェリーが、珍しくも深いため息をつく。
「本当にもう、レイヴ様があんな‥‥」
一時も忘れられない相手の名に、ラビエルは息を飲んだ。
「誰?!」
その気配に敏感に気付いたリリィが飛んで来た、が、その動きが止まる。
「ラ‥‥ラビエル様‥‥」
「え‥‥?!」
シェリーが顔面蒼白になる。
「シェリー、教えて!レイヴがどうしたの?」
小さい妖精相手に、ラビエルは取り縋るようにして聞いた。
「あ‥あの‥‥」
シェリーが、心の底から困った顔になる。
「お願い、シェリー!」
今にも泣きそうな顔で縋られては、シェリーが無下に断れる訳がなかった。
困ったような顔のまま、シェリーはとぎれとぎれに話し始めた。
「‥‥久しぶりに地上界に行ったら‥‥レイヴ様‥‥堕天使を倒した事で、魔物にも狙われてるみたいで‥‥それで今回、相当強い魔物に狙われて‥‥苦戦してるみたいなんです‥‥‥」
シェリーは言葉を濁す。
それが、今レイヴの陥っている危機を物語っているようで、ラビエルは言葉を失う。
「ラビエル様‥‥」
告げてしまったものの、ラビエルが呆然と黙り込んでしまったため、シェリーは気遣わしげにその顔を覗き込む。
その声に我に返ったらしいラビエルは、しかしよろめくように壁に手をついた。
「ラビエル様!」
慌てるシェリーに、ラビエルは無理をしていると分かる笑みを浮かべて見せた。
「‥‥大丈夫‥‥少し、驚いただけ‥‥‥」
「でもっ‥‥!」
大丈夫、と言う言葉を裏切って、ラビエルの顔色は蒼白だった。
「‥‥大丈夫だから‥‥‥」
消え入りそうに言うラビエルに、シェリーとリリィは困ったように顔を見合わせた。
「ありがとう‥‥教えてくれて‥‥」
二人に礼を言い、ラビエルは壁に縋るようにしながら部屋へと戻る。
どうしよう、と青くなっているシェリー達を気遣う余裕もなかった。
なんとか部屋に戻り、扉を閉める。
ラビエルは、そのまま扉に背中を預けるようにして座り込んだ。
「レイヴ‥‥」
呆然と呟く。
『時の淀み』が解消されたインフォスは、直接、間接を問わず天界が干渉出来る存在ではなくなっていた。
たとえかつての『勇者』が命の危険にさらされたとしても、もう救う事は許されない。
しかし、ラビエルはこのまま、レイヴの危機を放って置く事は出来なかった。
堕天使を倒した事でレイヴが魔物に狙われているなら、ラビエルと無関係とは言えない。
いや、それはただの言い訳だった。
レイヴの危機を、自分だけが安全な天界で眺めている事など出来なかった。
天使としての責務?いや、違う。
何より自分が、レイヴを救いたかった。レイヴの側にいたかった。
しかし、どうしよう?
ラビエルは眉を顰め、唇を噛んだ。
インフォスは結界で閉じられ、ラビエルの力では触れる事も出来ない。
妖精に頼むのは時間がかかる、間に合う保証はどこにもない。
それに自分の我が儘に妖精まで巻き込んでしまう事になる。
こうしているうちにも、レイヴの身に危険が降りかかっているのではないか‥‥ラビエルは、いても立ってもいられなくなる。
と‥‥その視線が、部屋の奥に立て掛けられていた物に止まる。
シンプルながら実用性を第一に考えられた鋼の剣。
かつてレイヴが、ラビエルにくれたものだ。
天使の、しかも女性に贈る物としてはお世辞にもふさわしいとは言えなかったが、それでもラビエルは、レイヴが何かをくれた事が嬉しかった。
だからラビエルは、その剣をずっと部屋に、自分の側に置いていた。
ラビエルは、鋼の剣を手に取った。
剣士でも両手でないと扱えないそれは、女の手にはズシリと重い。
しかしそれは、レイヴの力強さを懐かしく思い出させてくれた。
「レイヴ‥‥」
ラビエルの心は決まった。いや、この部屋に戻って来た時からもう決まっていたのかもしれない。
「ごめんなさい、レイヴ。あなたに貰った物を、こんな事に使ってしまって‥‥」
ラビエルは、ゆっくりと剣を抜いた。
そして。
「‥‥っ!」
磨き上げられた床に、血がしぶいた。
鈍い音を立てて、血溜まりの上に純白の翼が落ちる。
翼を失えば天界にはいられない。
翼を失う事は天使にとって『力』そのものを失う事に等しい。
自分の『力』を引き換えにした願いはただ一つ。
あの人の元に行く事だけだった。
天使の『血』を、命を媒介にした願いは大天使の結界を突き破り、彼女を地上界へと導いた。
地上へ‥‥愛する人の元へと。
血に濡れた剣を抱くようにして、ラビエルは懐かしい地上に降り立った。
森の中に、愛する人はいた。
痛々しい程の傷を負って。全身、真っ赤な血に濡れて。
走るように駆け寄る、しかしレイヴは既に意識を失っていた。その体からは、もう生気が失せようとしていた。
「レイヴ‥‥」
ラビエルは、レイヴに取り縋るようにして目を閉じた。
その手から、清々しい緑の光がレイヴを包み込む。
天使に許された『癒し』‥‥しかし翼を失ったラビエルには、天使としての力を使う事は命を削るのに等しかった。
しかも彼女の背中では、自ら翼を切り落とした傷がおびただしい血を流し続けている。
このままだと、死ぬかもしれない。
しかしラビエルは、それでも良かった。
今なら、かつて、翼を捨てて地上に降りた天使の気持ちが分かる。
彼女は自分が死ぬ時も、後悔はしていなかっただろう。唯一心残りだったとすれば、それは愛する人を危険に巻き込んでしまった事ではなかったか‥‥。
ラビエルは、レイヴの体に『癒し』の力を注ぎ続けた。
もしラビエルが地上に降りる事でレイヴに危険が及ぶなら、自分はこのまま死んでしまえばいい。
愛する人の側で、愛する人のために死ねるなら‥‥幸せだった。
自らの命を削るようにしてレイヴの傷を癒すうち、ラビエルの体から力が失せ始める。
次第に意識が薄れて行く中、ラビエルはレイヴの体に力が戻り始めている事を確かに感じていた。