〜1〜
MAY
『勝手かもしれないが、俺は君に地上に残ってほしい。‥‥俺は君に支えられてここまで来る事が出来た。今度は、君を支えて行きたいと思う‥‥他の誰よりも、君が大切なんだ』
少々照れながらの不器用な告白。
無愛想な騎士からの言葉を理解した時、ラビエルは涙が出そうな程の嬉しさを覚えた。
インフォスが救われた後も地上に残る、それをガブリエルが許してくれるかどうかは分からなかったが、ラビエルは何とか残れるように努力すると答えた。
それは、自分の偽りのない気持ちだった。
勇者レイヴが『時の淀み』の元凶である堕天使ガープを倒し、インフォスには正常な時間が戻って来た。
天界に戻ったラビエルは、ガブリエルへの報告を終える。
「ご苦労でした。これからあなたには、この天界での仕事に就いてもらう事になります」
それは、インフォスとの完全な別離を意味する言葉だった。
「ガブリエル様‥‥お願いがあります」
慈愛溢れる母の眼差しで、ガブリエルがラビエルを見詰める。
「地上界に‥‥インフォスに戻る事を、お許し下さい!」
決して一時の心の迷いではない、強い意志を湛えた瞳。
一途で真直で、純粋な表情‥‥しかしガブリエルは、ゆっくりと首を振った。
「許しません。あなたには、これから成すべき努めがあるのです。見事に地上界を救ったあなたは、天界に必要な存在なのですよ」
「ガブリエル様!」
今まで、どんな願いも暖かい眼差しでうなずいてくれていたガブリエルの厳しい拒絶。
その意外さにラビエルは絶句した。
「地上の人間達と過ごした時間が長かったためにそう思う気持ちは分かります。しかし天使は、一時の感情に流されてはならないのですよ」
「でもガブリエル様、私はもう‥‥!」
あの人しか見えない。あの人の事しか考えられない。
インフォスを救うまでは義務感が先に立っていたからこそ、その気持ちを抑える事が出来た。
しかし全てが終わった今は、何を引き換えにしても側にいたい、それがただ一つの望みだった。
しかしガブリエルは、それ以上どんな言葉も許さないような厳しい拒絶の雰囲気を漂わせていた。
「人間は人間、天使は天使、決して相容れないものなのです。それらが共にある事は、悲劇しか生み出さない‥‥分かりますか」
「‥‥‥」
ガブリエルの静かな言葉‥‥いつもは安らぎを覚えるその声が、今のラビエルにはかえっていたたまれなかった。
優しい、万物の母のようなガブリエルならば、自分の気持ちを理解してくれるだろう、そう思っていたのに‥‥。
いっそ、天界を追われるのを承知でインフォスに逃げ出してしまおうか‥‥一瞬、そんな考えすら頭に浮かぶ。
しかしそんなラビエルの内心などガブリエルの承知する所だった。
「しばらく、地上界へ天使の立ち入りを禁じます。いいですね」
ラビエルがその意味を理解する間もなく、ガブリエルの体から淡い光が立ちのぼった。
大天使の絶大な力が、インフォス全体を強力な結界で包んでしまったのを感じる。
今のラビエルの力では、絶対に破る事が出来ない結界‥‥それは、もう二度とインフォスには降りられない事を意味していた。
「そんな‥‥っ!」
打ちのめされたラビエルを、ガブリエルはむしろ悲しげに見守る。
呆然としたラビエルは、もう何も言う事が出来ず、ガブリエル付きの侍女に促されるようにして聖グラシア宮を退出した。
ベテル宮の自分の部屋で、ラビエルは絶望的な思いに身を震わせていた。
こんなにも唐突な別離が訪れようとは‥‥ラビエルはもう、何も考えられなくなっていた。
別れの言葉も、心の準備も許されなかった。
あまりの衝撃に、涙すら出て来ない。
と、ためらいがちに、ドアにノックがある。
「ラビエル‥‥」
そっと入って来たのはレミエルだった。
ラビエルは慌てて、うずくまっていたべッドから身を起こす。
「少し、いい?」
天界の職務の中でも重要な一つ、人間の生死を司る役目に就いている彼女は、幼い見掛けによらずかなりの古株と言って良かった。
勧められた椅子に腰を下ろし、レミエルはラビエルを見詰めた。
「聞いたわ‥‥ガブリエル様が、インフォスを閉じてしまわれたのね」
「‥‥‥」
ラビエルが俯く。
「前に、ね。別の地上界が救われた時、あなたのように地上に降りたいと願った天使がいたの」
レミエルの言葉に、ラビエルは目を見張った。
「その時は、ガブリエル様は快く許されたわ‥‥彼女は、翼を捨てて地上界に降り、愛する人間と共に生きる事を選んだ‥‥」
レミエルの言葉は、何故か悲しげだった。
「でも‥‥たとえ翼を捨てて人間と同じ姿になったとしても、天使は天使‥‥人間とは違う生き物だった」
「‥‥?」
さっきガブリエルが言ったのと同じ言葉に、ラビエルは眉を顰めた。
「人間がいる限り、その負の心から力を得ている魔物が滅びない事は知っているわね?魔物は常に力を求めるもの‥‥だから魔物は人間を襲い、その命の『力』を啜る‥‥天使は魔物にとって『力』の象徴、でも光の力が強過ぎて、普段は近付く事が出来ない」
レミエルの言わんとする事に気付いたラビエルが顔色を失う。
「‥‥わかった?そう、翼を捨てて人となった天使は‥‥魔物達の格好の獲物だったの」
ラビエルが、口元を覆った。
レミエルは、呟くように続けた。
「翼を失えばその力はほとんどなくなる‥‥それでも彼女の体そのものが人間などよりずっと『力』を秘めたものだったの。彼女はずっと魔物に狙われ続け‥‥彼女も、彼女の愛する人も‥‥殺されてしまった‥‥」
しばしの沈黙が落ちる。
「‥‥だから‥‥ガブリエル様は‥‥‥?」
かすれた呟きに、レミエルはうなずいた。
「彼女が命を落とした時、ガブリエル様はとても苦しまれた‥‥自分が許さなければこんな悲劇は起こらなかった、と。見ている私達まで切なくなる程、御自分を責めておられたわ」
レミエルは、その時の事を思い出しているのか、酷く辛そうな表情だった。
「たとえあなたが今苦しんだとしても、あなたや、あなたの愛する人を‥‥死なせたくないのよ。だからこんな強引な方法で、あなたを止めたのだわ」
「‥‥‥」
唇を噛んで、ラビエルは俯いた。
なじられても、憎まれても構わない、愛する者達を護るためならば‥‥そんなガブリエルの思いに胸が詰まった。
しかし‥‥。
俯いたまま黙り込むラビエルを優しく見詰め、レミエルは立ち上がった。
「それから、ガブリエル様の結界は『天使』の出入りを禁じる物だから、妖精程度の大きさであれば大丈夫なはずよ?」
「‥‥!」
さりげない助言に、ラビエルは顔を上げた。
優しく笑ったレミエルの姿は、もうなかった。
翌日から‥‥。
ラビエルは少なくとも表面上、今までと同じ態度で天界の仕事に就いていた。
ガブリエルの考えに納得した訳ではない。
しかしラビエルも、自分が地上界に降りる事で愛する人を危険にさらしたくはなかったのだ。
インフォスの勇者達に何の言葉もかけずに来てしまった‥‥ずっとそれが気になっていたラビエルは、妖精のフロリンダとシェリーに彼等への別れの言葉を伝えるように頼んだ。
そして、彼等のその後の暮らしも見て来てくれるように頼んだ。
一日の執務を終え、自室に戻ったラビエルをフロリンダ達が待っていた。
「行って来ました、天使様ぁ」
「ごめんなさい‥‥嫌な仕事を頼んでしまって」
「そんな事ないですぅ、天使様の方がぁ、大変なんですからぁ」
相変わらず間延びした口調が、この時程救いに思えた事はなかった。
彼女達の報告で、地上界は今の所争いもなく平和に保たれている事がわかり、ラビエルは安堵のため息をついた。
考えてみれば、堕天使達の策謀によって地上界の争いの種は次々と芽を出し、一時は大混乱に陥る所だったのだ。
それらを勇者達が解決に導いたのである、少なくともしばらくの間は、平穏な日々が続くだろう。
シーヴァスやグリフィン、フィアナ‥‥彼等勇者達もまた、それぞれ新しい生活を始めていると言う。
天界に去る時は必ず別れを言いに来る、その約束は今思えば大嘘になってしまった。
勇者達に済まない気持ちと、彼等へ別れの言葉を告げる嫌な仕事を頼んだ妖精達への申し訳なさでラビエルは思わず涙ぐむ。
「天使様ぁ?」
気付くと、フロリンダが心配そうに覗き込んで来ていた。
「あ‥‥ごめんなさい」
赤くなったラビエルは小さく笑って、指で涙を拭う。
「あ、あの、天使様!レイヴ様も元気でしたよ!」
話をそらすつもりでかえってラビエルの傷に触れてしまったシェリーに、フロリンダが眉を吊り上げる。
「馬鹿ぁ、シェリー?!」
フロリンダは、怒る時にも間延びしている。
「あっ!あ‥‥えーっと‥‥」
じたばたじたばた。
どうごまかそうか、とシェリーはわたわた飛び回る。
そのあまりのおかしさに、ラビエルは小さく笑い声を立てた。
「‥‥ありがとう。いいのよ、気を遣わないでくれて」
ラビエルは微笑した。
「天使様ぁ‥‥」
フロリンダの方が、何故か泣き顔になる。
「それで‥‥レイヴは?」
フロリンダと顔を見合わせたシェリーは、小さくうなずいてラビエルに向き直る。
「レイヴ様は、国王陛下から近衛騎士団長に望まれたんですが‥‥それを断って、魔物の被害が特に多い辺境の警備に回っているそうです」
「‥‥そう‥‥‥」
ラビエルは、かろうじてそれだけ答えた。
またレイヴは、たった一人で危険な戦いに赴いているのだろうか‥‥そう思うと、あまりの切なさに息苦しささえ覚える。
「レイヴ様‥‥『俺は元気にやっている、だから何も心配するな』って‥‥」
あまりにもレイヴらしい言葉に、ラビエルはこぼれそうになる涙を必死に堪えなければならなかった。
女性相手でも無愛想で口数が少なくて、でも決して冷たい訳ではなく、本当は優しく暖かい‥‥そんなレイヴの姿が思い出される。
「天使様‥‥」
気遣わしげなシェリー達に、ラビエルは我に返った。
「私なら、大丈夫よ。‥‥ありがとう、色々大変だったでしょう?」
無理に平然を装っていると明らかに読み取れる微笑に、フロリンダもシェリーも泣きそうな顔になった。
「また‥‥時々、地上の事を見て来てくれる‥‥?」
縋るようなラビエルの言葉に、フロリンダ達はうなずいた。それが、彼女達がラビエルに出来る精一杯の事だった。
「ありがとう」
無理に笑って見せる、その表情を見ていられなくて、フロリンダ達は早々にラビエルの前から辞した。
妖精達が去ると、ラビエルは一人、部屋の中に残される。
フラフラと寝室へ入ったラビエルは、崩れるようにベッドにうずくまった。
「レイヴ‥‥」
呟くと、今までこらえていた涙が溢れ落ちる。
一旦堰を切った涙は、後から後から溢れ出し、真っ白いシーツを濡らす。
レイヴの声が聞きたい、もう一度その姿を見たい‥‥。
レイヴを危険に巻き込まないために、ラビエルは諦めるつもりでいた。
しかし妖精からレイヴの話を耳にして、その存在が自分の中でいかに大きかったのかを思い知らされた。
「会いたい‥‥レイヴ‥‥‥会いたい‥‥っ」
まだ、別れてからそれ程経っていない。しかしラビエルは、もうずっと長い間会っていないような気がした。
「会いたい‥‥」
以前、レイヴが捕らえられて行方不明になった時‥‥あの時も確かに心細かった。
しかしあの時は、インフォス守護の任務と他の勇者との会話があった。何より『探す』と言う方法が残されていたためにこれ程辛くはなかった。
しかし今は違う。
二度と会えない‥‥どんなに焦がれてももう会う方法は残されていない。
胸が痛い、息が苦しい‥‥いっそこのまま、死んでしまえたらとさえ思う。
「会いたい‥‥‥」
ラビエルは、泣き続けた。
それしか、今の彼女に出来る事はなかった。