アイドルとしてのピンク・レディ−のまじめな考察


私は、アイドル評論家でも芸能評論家でもありません。ピンク・レディ−の一ファンです。ピンク・レディ−の一ファンが、ピンク・レディ−についてまじめな考察ができるのか?という批判もありましょうが、できるだけまじめに考えていきたいと思います。一部、作者の仮説、独断等もありますが、ご容赦下さい。
アイドルとしてのピンク・レディ−の評価には、「単なるブ−ム」とするものから、「日本の歌謡史の一ペ−ジを飾る存在」(作曲家、都倉俊一氏)とするものまで、非常に幅があります。勿論、私は後者の立場にあります。
ピンクレディ−の解散から18年経過している今、インタ−ネット上では、ピンク・レディ−関連のホ−ムペ−ジが続々と誕生しています。その中には、単なる懐古趣味的なものもありますが、改めてピンク・レディ−の与えた影響の大きさを感じさせるものが多数あります。また、ピンク・レディ−ほど、解散後再結成された頻度の多い女性アイドルグル−プはいません。ネット上で今後の再結成、半永久的な再結成を望む声も多数見られます。
以上の現象は、「単なるブ−ム」で説明できるものではないと思います。

ピンク・レディ−デビュ−当時の状況は?


ピンク・レディ−のデビュ−は1976年8月のこと。当時は、今と違って女性アイドル歌手の全盛時代です。テレビの歌謡番組も多く毎日どこかのチャンネルで、アイドル歌手の姿を見ることができました。
当時、女性アイドルで人気があったのは、山口百恵、桜田淳子、岩崎宏美など、グル−プではキャンディ−ズです。特に、全盛期にあったキャンディ−ズの存在は、アイドルとしてのピンク・レディ−の性格を決めることになります。その他、有名、無名なB級、C級アイドルが多数活躍?していました。
ピンク・レディ−の2人は、高校を卒業した年にデビュ−しました。当時のアイドルのほとんどが、10代半ばでデビュ−している状況にありましたから、新人アイドルとしては遅いデビュ−であったと言えます。

なぜ、ピンク・レディ−はB級アイドルにならなかったのか?

ある人の評論で、デビュ−当時のピンク・レディ−を見て、「B級アイドルとしての道を歩むのでは」と思ったというものがあります。
あの有名な「ペッパ−警部」の足を開くアクション、当時のアイドルでは一番短かった超ミニ。ピンク・レディ−という斬新なグル−プ名(作曲家、都倉俊一氏の命名)。なるほど、「B級アイドルの道」を行くと思わせるには、十分な条件がそろっているように見えます。所属レコ−ド会社のビクタ−も、「ペッパ−警部」のアクション、「ピンク・レディ−」というグル−プ名には異議を唱えたようですが作り手の側から拒否されました。

それでは、なぜ、ピンク・レディ−はB級アイドルとしての道を歩まずに、歴史に残るス−パ−アイドル、国民的アイドルとなったのでしょうか?
勿論、サウンド面で、阿久悠、都倉俊一といった一流の作家陣がサポ−トし続けたことも大きな原因です。
「最初から、いやらしさは狙っていなかった。」振付け師土居氏の発言です。
つまり、「さわやかな、(あるいは健全な)お色気路線」

これが、キ−ワ−ドです。今となっては、死語に近い、陳腐な言葉かも知れません。
ピンク・レディ−が、売れ始めてから、キャッツアイなどピンク・レディ−の亜流グル−プが多数生まれました。しかし、いずれも一部マニアにのみ通用するB級アイドルで終わっています。これらの亜流グル−プは、キンキラの超ミニという衣装はピンク・レディ−と似たものでしたが、アクションはかなりキワドイ、下品なものでした。簡単に言えば、パンチラアクションです。
ケイちゃんが「歌っている時、カメラが下からとるのがいやだった。」ような発言をしています。ピンク・レディ−のアクションには、かなり大胆なものもありましたが、意図的にパンチラを見せるといったものはなく、B級アイドルとは一線を画すものです。だからこそ、一部男性ファンのみでなく、幅広いファンを獲得できたのです。この点は、特に強調しておきたいものです。

三大原則のみが、ピンク・レディ−成功の条件か?


何やら、意味不明なタイトルですが、皆さんピンク・レディ−の3大原則を知っていますか?

「ミニスカ−ト」「華麗なダンス」「夢のある歌」これらが3大原則です。私が勝手に作ったものではありません。当時のビクタ−の宣伝担当幹部の方の言葉です。
これらの3大原則が、ピンク・レディ−成功の大きな要因となったことは間違いありません。そして、これら3大原則については、多くの専門家の方が語っていますので、ここでは語りません。私の考えは、以下のリンクをクリックして下さい。

ピンク・レディ−の曲
衣装
振り付け


さて、問題は3大要素のみでピンク・レディ−は成功したのか?という点です。結論から言えば、NOです。必要条件ですが、十分条件ではありません。肝心なものが抜けています。ミ−ちゃん、ケイちゃん2人の素質、努力です。
よく、ピンク・レディ−の成功は、これら3大原則を作った者達の力、企画の勝利ということが言われます。これは、一面の真実ですが、生身のミ−ちゃん、ケイちゃんの力を過小評価しています。
あれだけ難しい振り付けを歌って踊れるということ、これは本人たちの素質、努力なしでは不可能です。しかも、過密スケジュ−ルの中で練習時間はわずかです。また、あの過密スケジュ−ルをこなしたこと、若かったとはいえ大変なことです。

仮に、3大原則だけでス−パ−アイドルが作れるのなら、次々に生まれてもよさそうなものですが、ピンク・レディ−以後、3大原則にのっとったス−パ−アイドルはいません。つまり、ミ−ちゃん、ケイちゃんの力は大きいのです。
さて、ミ−ちゃん、ケイちゃんの力といった場合、ピンク・レディ−前史とも言うべき「クッキ−」としての活動の持つ意味が大きいのではないでしょうか。

ピンク・レディ−前史「クッキ−」の活動にピンク・レディ−の原型あり?

最近、また、MAX、モ−ニング娘等若い女性グル−プの活躍が目立っています。今はアイドルとは言わないのでしょうか、よくわかりません。
さて、ピンク・レディ−がその他多くの女性アイドルグル−プと違う点として、2人がデビュ−前から親友であったことがあります。この点も、ピンク・レディ−を考えるうえで強調しておきたいところです。プロダクションやレコ−ド会社の都合で、アイドルグル−プが結成される場合が多いと思いますが、ピンク・レディ−は違う。これも、ピンク・レディ−成功の要因だと思います。
ミ−ちゃんとケイちゃんが出会ったのは、中学3年の時ですから、デビュ−までの4年数カ月親友であったわけです。ピンク・レディ−としての活動に匹敵する期間です。
さて、デビュ−前の2人は、高校時代「クッキ−」という名前で、セミプロ的な活動をしていました。当時、ステレオにカラオケがついたばかりの頃で、競輪の選手の寮に行って、カラオケの宣伝をして一曲歌ったり、ヤマハのポプコンの東海大会に出たこともあるようです。衣装は、おそろいのミニやホットパンツで振り付けも、ビシバシあったそうです。また、当時の「恋のレッスン」という曲が、テレビで紹介されたことがありましたが、アップテンポな曲でピンク・レディ−へ続いていくような印象でした。
つまり、ピンク・レディ−前史「クッキ−」時代に、ピンク・レディ−の原型が作られていたのではないでしょうか。

ピンク・レディ−VSキャンディ−ズ

何かと、ライバルとして比較される2つのグル−プです。
ピンク・レディ−のデビュ−当時は、キャンディ−ズの全盛期でもあります。ピンク・レディ−のスタッフ達は、ピンク・レディ−をなんとかしてキャンディ−ズに対抗できる、キャンディ−ズの亜流と言われないグル−プとしてデビュ−させようと考えました。その結果、デビュ−曲は「乾杯お嬢さん」でなく「ペッパ−警部」、激しい振り付け、超ミニといった3大原則が取り入れられました。
キャンディ−ズの存在が、ピンク・レディ−の性格を決めたのです。しかし、今度はピンク・レディ−の存在が、キャンディ−ズの方にも影響を与えていきます。1977年の「やさしい悪魔」「暑中お見舞い申し上げます」といったヒット曲の振り付け、衣装、デビルルック超ミニのテニスルックは明らかに、ピンク・レディ−を意識したものでしょう。ロングスカ−トもはいたりして、大人のイメ−ジを出しつつあったキャンディ−ズですが、ピンク・レディ−の出現によって、再び露出の大きい衣装に戻ったのです。まさに、作用、反作用の関係です。
この2大クル−プは、正統派アイドルグル−プとして日本歌謡史に残る存在といえるでしょう。


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