触覚防衛反応

−holding session−

母子間の愛着関係を育むことの重要性を語ると、以前強調された自閉症の心因論に基づく心理療法の再現だと短絡的に反応して批判する人が少なからずいます。

『自閉症の関係障害臨床−母と子の間を治療する−』(小林隆児著/P21)

とあるように、今日これから書くことは、フロイト流の精神分析学にのっとって、抵抗する自閉症児をやみくもに"抱っこする"という心理療法ではありません。「自閉症」の感覚世界に即した、「自閉症」のための関係障害療法です。

自閉症の人々の知覚する世界はいかなる様相を呈しているでしょうか。筆者の研究で明らかになってきたことは、彼らがいつも外界の刺激に圧倒されるような感じを抱いていることがとても多いことです。このような心的状態にあるために、外界の刺激は彼らにはとても圧迫感を与え、侵入的ないしは迫害的な感じをさえ与えかねないのです。このような知覚の変容は彼ら自身の心理的または生理的変化によって容易に生まれます。それはひとつには彼らに愛着に基づく安全感がしっかりと育まれていないからなのです。なぜなら私たちの治療的介入によって彼らと養育者との間に愛着関係が育まれていきますと、彼らの知覚する世界はそれまでの侵入的な色彩から、一転して心地よい好奇心をそそるようなものに映ってくるようになるからです。

『自閉症の関係障害臨床−母と子の間を治療する−』(小林隆児著/P21〜22)


人に触れられることを嫌がるという「触覚防衛反応」や、特定の素材を身につけることに抵抗することは、ADHD児やLD児にも健常児にもみられることです。ただ、自閉症児の場合は、明らかに感覚−知覚の異常があって、人に触れるどころか人と〈場〉を共にすることの妨げになるほどの重篤な問題に関わるので、「触覚過敏」といいます。(逆に、鈍感な場合もある。この場合でも、人と係るための「障害」になるので、基本は同じ。ただ、対処法が違う。)

さて、小林先生は、Mother-Infant Unit(MIU)という母子治療療法の中で、holding-session(抱っこ)を積極的に取り入れています。小林先生は、「自閉症」の「心因論」(親の養育態度のせいとする考え方)にも「器質論」(脳の障害なので、生物学的な根拠を見出そうとする考え方)にも偏らずに、「関係障害」としてとらえることで「自閉症」の症状のいくつか(特に、言語認知障害)が改善して行くことを実践的に研究しています。

で、具体的にどんな治療をしているか、ということをここで宣伝しようというのではありません(小林先生、ゴメンナサイ!)。例によって、それに関連することで解かったことと、私が長男にやったことを書きます。というより、私は「普通」の親の心境の方を知らないので、こちら側の事情(触覚のこと)を説明することしかできませんから。


私の場合は、自分が"おかしかった"から、子どもも"おかしいに違いない"と最初から決めつけていたので、「自閉症」という「障害」を受容することに何の抵抗もありませんでした。それより、それを解説することに快感を覚えていたぐらいです。

 

しかし、どうやら、自称「健全な健常者」にとって、「自閉症」の子どもを育てるというのは"裏切りの連続"になるらしいのです。

こういうことは、私にとっては「寝耳に水」なので、よく解かりません。こういう「健常な心情」に応えてくれない子どもを育てるという心理的負担が重いのか、わけもわからず泣き叫んだり動き回るばかりか、食べない・寝ないというとんでもない子どもに付き合わされるという物理的負担に疲れてしまう方が主なのか、そういうことは誰か普通の人に聞いて下さい。(おっと、人に聞かなくても分かるか。)

ただ、私自身は、「人に触られるのは大嫌い」なのに「人を触るのは大好き」人なので、こっちから子どもを触りまくりました。しかも、全く自分から抱きつくことをしない"丸太棒"のような子どもだったので、落ちないようにつかんでいなければなりませんでした。それから、助けや慰めを求めたり、甘えるために「人が人に抱きつくことがある」なんてことを知らなかったので、そういう行動をとらない事が異常だなんて気づきませんでした。(そういえば、いつも、抱っこではなく人を椅子にして座っていた。その前に、多動がひどくてじっとしていなかった。)

だいたい、私は「人の触覚」が嫌いです。都会の人ごみの雑踏は、どんどん動いて人が入れ替わって行くし、聴覚と共に触覚も遮断してしまえるので、別にどうってことありません。でも、病院の待合室や○○会館のような閉じた空間に人と居るというのは、小人数でも非常に苦痛です。別に、天敵がいるからというのでもなく、知っている人に話し掛けられたくないからというのでもなく、感覚的にイヤなのです。だからたいてい、離れた場所に自分のスペースを見つけて、そこにいるようにします。

でも私は、二人の自閉症児に、「自閉症」の理由に基づく「抱っこ」を行い、実際に愛着形成させています。だって、「自閉症者は、不安感が強まると、同時に身体の拡散感が強まるので、締め付けられることを望んでいる。」という理屈が分かっているから。

一人目は、ウチの長男。「こだわり」が通らなかったことでパニックを起こして手足をバタバタさせて暴れた時に、力ずくで体を丸めて胎児の姿勢にして、ギュッと抱きしめました。動きが止まって落ち着くまで。そういうことが2〜3回ありました。その後、パニックを起こしても大暴れすることはなくなり、明らかに私に「甘える」ようになりました。3歳ぐらいでした。

もう一人は、U君。何ヶ月もかけて行動観察し信頼関係を作った後に、いよいよ「今日から、お勉強」という時。今まで、イヤな事からは徹底的に逃げまわり、そういうものとして両親から容認されて来たという悪しき習慣を私は完全に断ち切りました。当時7歳で大きかったのですが、やはり胎児の姿勢にしてギュッと抱きしめてやったら、スッと落ち着きました。その次の時は、暴れはしませんでしたがやはり逃げようとしたので、今度は私が椅子になってU君を座らせ、勉強が終わるまで絶対に離しませんでした。

 

そうしたら、母親にではなく私に「甘える」ようになったので、「甘える人が違う!」と母親に怒られていました。もっとも、私は何故「子どもの状態を改善してあげたのに、母親が怒ったのか」皆目わからなかったのですが…。それから何年もかけて、母親に「自閉症」の常識を教育した結果、本人から見て「できなくて当然なこと・わけがわからないこと」を叱らなくなったので、現在ではすっかり親子間の愛着形成ができているようです。

その後の二人の様子を見ていると、とっても安心して"ここにいる"ことがよくわかります。普通なら、もともと、生物学的に人間に生まれたからには、ニンゲンとしての共通の基盤を持っていて・共通認識があってあたりまえなので、何もこんな特別なことをする必要はないのですが…。それのない自閉症者にとって、「信頼できる人がいる」「自分のことを解かってくれている人がいる」ことから、帰属感を実感する経験をするというのは、本当に大きなことだと思います。しかも、それはとっても身体的な体験に根ざしているのです。

「どうして私のことが解かるの?」

「私のことは何でも知っている!」

と"驚ける"人に出会うことは、生きる力になり人の心を豊かにすると、私は実際に経験して知っています。(自分自身は、その時期があまりにも遅かったので、完全な失敗例という反面教師という形ですが…。)それは、能力の優劣以上に、人間にとって大切なことなのです。特に、未診断・未治療の自閉症者だと、年齢が上がれば上がるほど、"対人接触"という"外傷体験"を受ける期間が長くなるので、治療的介入を受け入れること自体に抵抗を示すようになる恐れがあります。

これがなければ始まらないのに、これがないままに始めてしまっている。

こんなムゴイことが、今現在も、知らず知らずのうちに日本中のあっちこっちで行われているんでしょうね、きっと!


      

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