自覚症状と二次障害
非・自閉症者が作った客観的な診断基準と、本人の主観的な意識との間には、当然ながらズレがあります。
まず、こういうところは、本人はまず自覚していないでしょう。だから、できるだけ早い内に「診断」して、「教えて」あげなければならない事柄です。
- 顔の表情・身振りなどの非・言語的行動ができていないこと:自分の姿は自分からは見えない。
- 発達の水準に相応した仲間関係がないこと:自分の発達の水準が判らない。仲間関係そのものが解からない。極端に言えば、自分が大人なんだか子どもなんだかも分かっていない。
- 他人と体験を共有すること:他人とは体験を共有していない、ということを知らない。
- 対人的または情緒的相互性の欠如:自分のできる範囲でやっているので、できていないことがあるとは全く気づきません。
- 他人と会話を開始し継続する能力がないこと:"こっちからしゃべる"と"あっちの言っていることを聞く"のどちらかしかないので、お互いの意思の疎通や意見交換のためにする「会話」、なんてものがあること自体を知らない。
- 独特な言葉使い:他人と照合していないので、他人との照合がないなんて、夢にも思わない。
- ごっこ遊びや社会性のある物まね遊びの欠如:その能力が無いのだから、放っておいてできるようになるはずがない。
- 自分の興味が極限していること:他のものには注意が全く向いていないから、一点に集注している。全体に注意が向けられるくらいなら、興味が極限するはずない。
- 同時にたくさんのことができないこと:本人はいつもいつも、ひとつひとつやっています。でも、やることが一度に重なるから、パニック状態になる。
- フラッシュバック(タイムスリップ)していること:本人には、見えたり聞こえたり、実際に体験されているから。
しかし、以下のものは、自覚症状があって記憶に残りやすいと思います。
- 学習上の遅れ:読み・書き・計算・運動ができない。←通知表の成績が悪かったり、できないことでバカにされたりするから。
- 言葉の遅れ:始語が遅い・言葉の理解が悪い・しゃべり方がおかしい・発音がおかしい・単語が出てこない・言いたいことがうまく言えない。
- 不注意:忘れ物が多い・よく物をなくす・宿題が出ていることを覚えていない・持ち物が思い出せない・人に話し掛けられているのに気づかない・ボーッとしている。←だいたい、怒られたり罰があるから。
- 多動と衝動性:落ち着きがない・せっかち・早とちりで失敗する・事故や怪我をよくする。
- 明らかな神経症状:パニック発作・自傷・多傷・抜毛・特定の単一恐怖症など。←その行為そのものというより、その行為の結果や対象物が目に見えるので。
- 常同行動:毎日行っていた、繰り返しの動作。好きで離さなかった物・いつもいつも見ていた物・聞き入っていた音。
また、意識の上では漠然と「何か」を感じているけれど、それが「何であるか」全くわからないものもあります。
- 知覚や身体図式の異常(過敏または鈍感)や認知の歪み(物の見え方・聞こえ方の異常):何となく"おかしい"という程度です。生まれた時からそうなので、言われてみないとわかりません。治療薬が効いた状態と切れた状態を比較して、初めてわかることが多いです。
- うつ(躁鬱病):気分の変調は自覚していても、病的なものだとは思いません。特に、自閉症の場合は、もともと顔の表情が豊かでないので、傍から見て判り辛いです。
- しょっちゅう癇癪を起こす・怒ったしゃべり方をする・抑揚がおかしいこと・絶えずしゃべっていてうるさいこと:本人は全くそのつもりがないので、批判されたことの方や、指摘されて逆に怒ってしまったことの方しか覚えていなかったりします。
- 強迫神経症:「どうしてこんなことをしているのか?」とか「やってはいけない」と思うことはあっても、しないと落着かないので、それが強迫的なとらわれだとは思いません。
みんなそれぞれに、生まれつき"違い"があって、発達上の問題が全くない子は一人もいません。それぞれに遅れがあったり進み過ぎている部分があります。それから、必ずしも養育環境に恵まれていないし、親の思惑と子の実態が食い違って当然なので、親子関係に問題のない人もいません。そうしてみんな、大人になります。だから、全ての人が、自分の育ちに何らかの不満や疑念を抱いていて、当然です。
しかし、「自閉症」は、本人の自覚や意識ではなく、ニンゲンが「自閉症」かどうかで「診断」されます。「自閉症」は、「自閉症」の身体的な特徴や行動特性をよく知った人が実際に会って診なければ判りません。「自閉症」を「診断」するには、幼児期からの経過を含めたたくさんの事例を見なければなりません。「自閉症」らしい行動をしている時期の子どもをたくさん見て、それから、そういう人たちが成人期に持ち越す残遺症状を見抜けないといけません。
「自閉症」は、子どものうちの方が分かり易い。なのに、成人になるまでに「診断」されなかった場合は、本人が書いたものを本人が読んで「自覚」し、発覚することが多いです。しかし、本人の主観的な認識と、客観的な評価とが全く違っていることが往々にしてあります。そして、本人が書いたものを読んで幼児期に全く同じ行動をした心当たりがあるからといって、必ずしも「自閉症」ではない。そこが難しいところです。
だって、幼い子どもは多動(元気が良過ぎる)だったり寡動(おとなし過ぎる)だったりするし、光り物が好きだったりテレビのコマーシャルをよく覚えたりもするし、みんなそれぞれに何らかの学習困難(得手不得手・得意不得意)があって当然です。だいたい、気が散りやすく・思慮分別もなく・集団行動ができない子どもを統制し、社会的・文化的な行動をとれるようにする為に学校教育があるのです。その中には、友達がいっぱいいる子もいない子もいるし、たくさん人がいた方がいいという子と一人でいた方がいいという子がいるし、やたら社交的な子もいれば人付き合いが下手な子もいるし、ずる賢くてうまく立ちまわれる子もいれば要領の悪い子もいます。
ただ、発達障害があれば、それが何であっても、子どもの頃から何らかの不都合があり、周囲(特に家族、次にクラスメートや先生)との間でトラブルの連続になります。ただの"違い"で自力でなんとかなるものなのか、支援がないと将来的に行き詰まるような"障害"なのか、それとも全くの養育上の"間違い"なのかちゃんと見極めないと、二次的な障害を引き起こし精神疾患に罹ってしまう。実は、これはどんな子どもであっても一緒なのです。これだけ情報化・個性化の進んだ社会になっているのだから、みんな一様ではないけれど頑張れば"同じ"になれるという教育上の「神話」はそろそろ捨てて、そのつもりで人を育てないといけないんじゃないんでしょうか?
その中で「自閉症」は、早期に発見することでかなり病態を変化させることが出来ます。というのは、自分が"一つのまとまりを持った個体"として存在していることが分からない、しかもそれが"他の個体と共通認識を持って・共にある"という在り方をしていないところが、その「障害」の根本だから。それを、まず親が知らなければならない。そして、人と一緒に居られるようにする必要がある。それから、本人は自分が他者とどう違っているかが解からないし、他者に対して自分がどう見えているか判らないのだから、そこのところをなるべく早い内から本人に教えてあげなければいけないからです。
二次的な適応障害が起きるのは、他者とのズレから自己評価が下がってしまったり他者の意図が分からないため、自分または他者に攻撃の矢が向いてしまうからです。でも、「自閉症」者の場合、他者に向けたベクトルの多くが相手に届かず、結局、自分に返ってきます。なにしろ、"できていないこと"ほど、自覚がなかったりしますから。「自分が感じているように、大多数の人は感じていない」ことが解かっていないので、通じていないことに気がつかないんです。
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