生活自立に必要なこと

  1. 飲食の仕方(食器の扱い方、テーブルマナー、諸設備および飲用水器の使用法を含む)
  2. トイレッティング(トイレッティングに際しての衣服・ベルトの調節、手洗いの仕方、手ふきタオルの使用法、設備の使用法を含む)
  3. 個人衛生(手洗い、入浴、洗髪、歯みがき、生理ケアを含む)
  4. 衣服(衣服の着脱、整理、選択を含む)
  5. 手入れ(髪の手入れ、つめの手入れ、ひげそり等を含む)
  6. 保健ケア(予防保健ケア、安全・応急手当、栄養・薬の使用及び自己管理等を含む)
  7. コミュニケーション(人との接し方、言語の発達と使用法、電話の使用法等を含む)
  8. 社会的行動・態度・技能(分かち合うこと、礼儀作法―あいさつを含む―、協力・責任・個人的レベルに応じた社会的行動及び社会的関係―個性・異性・若老年者等との関係を含む)
  9. 家事管理(衣服等の生活品の管理、食事の計画と準備、寝具のセット―フトン敷き、メイクベッドの仕方など家事活動一般)
  10. 時間の管理(食事、入浴、レジャー、就寝、仕事の時間の認識等)
  11. 注意・識別、関連づけ、記憶・数・時間・空間認識等を含めた知的な技能
  12. 運動及び感覚的技能(バランス、リズム、姿勢、粗大・微細運動技能を含む)
  13. 問題解決及び意思決定能力の育成(軽度障害者)
  14. 性教育

*障害児(12歳未満)については1〜8,12を日常的なハビリテーションプログラムとして設定する。軽度の障害児(12歳〜)・者については1〜14項目、さらに必要なプログラムを設定する。とくに12歳未満の障害児の場合のハビリテーションは、子どもがハビリテーションを担当する人との間に愛着関係が形成され、行動模倣が可能である状態から積極的なハビリテーションを開始する。

小関康之著『発達障害・学習障害児へのヒューマンアプローチ』(P50〜51)より

ハビリテーションとは、障害児個人が自分自身の身辺に関するニーズおよび環境への適応をより効果的に処理することを可能とするような生活行動・態度・技能を習得し、また維持していくこと、さらに身体的・精神的、また社会性発達を促進することを援助する過程―発達援助過程―である。

ハビリテーションは、障害児個人の発達的課題の達成、または望ましい行動や自立のための生活行動・態度・技能の習得過程において、障害児の潜在的能力を引き出し、実現させる方法である。

『同』(P49〜50)より


例によって、引用が長くってすみません。でも、これは、そっくりそのまま印刷してどこかに貼っておきたいくらい重要なことなので、全部写してしまいました。だいたい、読めばわかる事柄だけれど、こうしてちゃんと書いてくれないと忘れてしまいそうなこともあるでしょう!?

ただ、ひとつだけ注目して欲しいのは、12の「運動能力」の大切さです。発達障害児は五体満足なので、外見上は「普通」です。しかし、ほとんどの子どもが、「感覚」と「運動」に何らかの問題を持っています。(それだけではありませんが)だから、「普通」にできない。なのに、「普通」にすることを要求されているのです。しかも、"健全な精神は健康な身体に宿る"という神話があるおかげで、子ども時代のほとんどの集団的な活動には「運動」的な要素が盛り込まれています。

子どもの教育体系を考えている偉い人というのは、「体育」というと、"体を鍛えること"や"競技の技能を覚えること"だと思っているようですが、本当は、「運動」こそが、個々人の発達に合わせたプログラムを最も必要としている分野です。部品が全て揃っているからといって、組み立てたロボットが動くとは限らないように、「全体としての協調はどうだろうか?」「内蔵されたコンピューターからの指令伝達は、うまくいっているだろうか?」「センサーの機能に異常はないだろうか?」といったことをモニターしないなんて、おかしくありませんか?

だいたい、子ども時代の大切な時期に、「全員が同じように基礎的な能力が有るものとして、一斉に同じことをさせる」のも、「自分のやりたいようにさせておいた方が能力が伸びるとして、自由に任せてしまう」のも、どちらも間違った考えです。


―本題に戻ります―

子どもが小さいうちならイザ知らず、小学校の高学年になってもまだこれだけのことを手取り足取り教え続け、本人が習得するまでいちいち指示や監督が必要だというのは、非常に疲れることです。しかも、人一倍手をかけ・人の十倍も苦労しているのに、「しつけがなっていない」とか「だらしない」とか「甘やかしている」という非難も浴びてしまいます。発達障害児を持った親は、「普通にならない子ども」を抱えているのに、「普通に見ようとする世間」との間で板挟みになります。

自分自身が子どもの「障害」を受容できていないのに、こういう状態が長く続くと、心労がかさみます。また、自分自身も同じような傾向を持っている親の場合は、子どもの「受容」には問題はなくても、世間についていくことが負担になります。そして、本人自身も、"人並み"を目指す一方で"人並み"になれない自分を自覚して、苦しみます。発達障害児・者とその周囲の人たちは、いつになってもこの葛藤の連続です。

遅れているものは、遅れている。

欠けているものは、欠けている。

紛れもない事実は、事実なのです。

しかし、

ある部分では、非常に優れている。

他の人にはないものを持っている。

もっとも、こういう秀でたところがあるからこそ、世間から「普通」どころか逆に「天才」扱いされてしまうので、かえって、ややっこしくなってしまってもいるわけです。さらに、知能が高く成績が良かったりすると、こんなことは「わかっているだろう」と思われて何も教われずに放っておかれたり、「こんなこともできないのか!」と叱られてしまったりもします。

アスペルガー症候群や学習障害の子どもが「普通」に見えるからって、ちゃんと「障害」として認めてそれなりの「学習」をさせないと、こういうことが全然できないまま"一人前"の人として扱われてしまうんですよ! いや、世間には、こういう人たちが"半人前"だってことをすぐに見抜いて、バカにしたりイジメたりダマシたりする人の方が、圧倒的に多いですから。

でも、なんかこれって、今では、「普通」の子どもにも教える必要があることだったりなんかして…。

だけど、「普通」の子どもは、最終的には必ず、バカにしたりイジメたりダマシたりする側の人になります。何故だー!

それから、もうひとつ。本人が困らない程度に最低限の必要なことができればいいので、生活に関することが「全部・完璧にできなければいけない」とは思わないで下さい。ただ、こういうことが全くできないと、社会に認められる機会さえも失われてしまうので、自分の得意な能力まで発揮できなくなってしまうということです。


                

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