「関係障害」を裏読みする
引き続き、小林隆児先生の『自閉症の関係障害臨床−母と子のあいだを治療する−』を読んでいます。と言っても、「自閉症」について知りたくて読んでいるのではありません。自閉症児の行動に対する、"健常な人々"の心の動きを研究するために読んでいるのです。まさか、こんな読まれ方をされるなんて夢にも思っていなかったでしょうけれど…。でも、地上に暮らす自閉連邦市民には、とっても必要なことです。
といっても、連邦市民にもいろいろな種族がいて、スタートラインが違うだけでなく合併症も人それぞれだし、いつ、「連邦市民であることを自覚したか、或いは、言い渡されたか、または、思い知らされたか。」によって、意識が全く違うし、地球人との係わり方も違っています。というわけで、この認識は、連邦市民全員に共通するものではありません。
それから、小林先生が治療対象としているのは、始語の遅い「カナ−タイプ(早期小児)自閉症」の幼児が主です。が、私たち親子はもともとが「アスペルガー症候群」で、既に言葉によるコミュニケーションはできているけれど、意思の疎通ができないという段階なので、同じ次元の問題を扱っているとは言えません。先生の著書を手掛かりに、やっぱり自分たちのことしか語れません。(重ね重ね、先生、ゴメンナサ〜イ!)
また、言葉の遅れがないということは、逆に地球人との文化摩擦を大きくする要因にもなるーつまり、普通なら言わないこと・言ってはいけないこと/言葉が遅れていれば言わずに済んだことを言ってしまうーので、「かかわり」障害が重くなってしまった場合であることを、お断りしておきます。
自閉症者の行動に対して「地球人がどう感じているか」発見した新事実
- 普通の子どもは、「イヤなことがあると、人に甘えて良い気持ちにさせてもらって立ち直る。不機嫌になると、人に慰めてもらおうとする。」という愛着行動を示す。自閉症児がそういう行動をしないことを、親は物足りなく思っている。或いは、そういう子どもだと思われている。
- 助けを求めてくることはあっても、思った以上に人を必要としていないと感じている。つらい時や困ったことが起きた時には、しっかり甘えて欲しいと思っている。そうでないと、「自分の気持ちを表現していない」という不満感が残る。
- 自閉症児が「何を考えているか分からない」ので、いつも、自信がなく不安である。そんな時に何か要求されると、自分が子どもに嫌われたくないがために、子どもの言いなりになってしまう。
- 「大好き」という気持ちを表すために、抱きしめたり身体的に接触しようとする。それをお互いに受け容れている親子というのは、とっても「幸せ」に見える。目と目が合ってにっこり笑い合うことと、お互いに声を出して反応し合うことは、とっても好ましく見えるらしい。
- 自分に向かって愛着行動を示されることを、とても喜ぶ。特に、うれしい・恥ずかしいという感情を抱いた時、自分に向かってそれを開示されることを、たいへん喜ぶ。
- 普通の母親は、子どもが自閉的ファンタジーの世界(自閉的な感覚世界)に没入してしまうことを、介入しないで見守ることができない。というのは、それが「悪いこと」だと思っていたり、それを放置しておくことで「悪い母親」だと評価されてしまうことを恐れているから。
- どんなに関係が良くなって交流ができるようになっても、まだ時折 自閉的ファンタジーに没入することを、「自分の要求がうまく表せなくなると、自閉的になる」と解釈されている。
普通の子どもは、自分が発見したことを母親にも知ってもらいたくて、そして、一緒によろこんでもらいたくて、しつこくつきまとうようです。でも、私は、自分が発見したことを人に告げることはしましたが、相手の反応がイマイチだとなると、一度でやめてしまいました。それ以降は、誰にも言わずに一人でそれを楽しみました。そして、反復的に繰り返しながら一人で発展させていきました。
そして、「この人には・この話題は言って大丈夫」となると、しつこく追い回してしゃべり続けましたが、それはただ「自分の言いたいことを・誰かに言いたい」というだけのことでした。強いて言えば「承認」を求めていただけで、相手と喜びや楽しみを分かち合おうというのではありませんでした。いくら流暢で多弁にしゃべっていても、こういう「愛着行動」がないことに気づくには、「自閉症」というものがよく解かっていないと非常に難しいと思います。
それから、関係障害を改善していく過程で、本人の側にこういうことが起きるということを私も実際に経験したので、本から抜粋しておきます。
他者との交流という社会的な場面に身を置くことを強いられるのは、耐え難いので、バランスをとるために自閉的感覚世界に没頭することが、精神状態の均衡を保つために必要になる。
対人関係の質的な変化が起こると、知覚のあり方が変容して、それまで恐くなかったものが恐いと感じられるようになる。(安全感を体感することによって、非安全感が浮き彫りになる。)
こういう気持ちも、しっかりと受け留めて欲しいと思います。
私と長男の場合には、「自閉症」の受容ということと、社会的な価値観の押し付けをしないとか体裁を気にしないという点に関しては、何も問題はありませんでした。ただ、上記の「愛着行動」が、普通の人間関係には必要不可欠であることを、普通の人間関係がない私自身が知らなかったので、それ以上のことは教えることができません。
しかし、長男には下のようなびっくりするような変化が起きています。
愛着関係が成立すると言葉の意味が通じやすくなり、他者からの指示に従えるようになる。従って、社会的な場面(長男が在籍しているのは普通学級なので、自閉症的な行動が全面的に許容されているわけではない)での振る舞いが変化する。
↓
危険な目に会ったり失敗しても、必ずフォローしてもらえるという安心感があると、恐怖心を克服して集団の中に留まっていられるようになる。
↓
自分の意志を持って自己主張するようになり、他者と衝突するようになる。しかし、基本的な愛着関係が成立しているので、回避的な行動をとらないようになる。一方的な関係から、人⇔人としての関係に変化する。
↓
声の調子が一本調子でなくなり、表情が豊かになる。友達と、ごっこ遊びをするようになる。集団の中で、自分の意見を主張できるようになる。
↓
「場」の見極めができるようになる
友達がいるところで自分の自閉的ファンタジーを見せることを、恥ずかしいと思うようになるので、社会的な場面での振る舞いが落ち着いてくる。
自分の《得意なこと》が、集団の中で「価値があること」と認められていると、積極的に友達と係わることができる。
一方で、私的な場所では、自閉症特有の行動やファンタジーが解かってもらえているという安全感が、この人に解かってもらいたいという意志に変わる。
↓
人を困らせたり、悲しませるようなことはしたくないと思うようになる。相手の期待に応えようと振る舞ったり、相手の意図を知りたいと思うようになって、しつこく質問する。(しかし、その行動が的をえていないことが多い。自閉症的な発想方法を理解していない相手だと、本人の思惑通りに事が運ばないばかりか相手の機嫌を損ねてしまう。)
この先どうなるかは、わかりません。能力的には、私より"できないこと"がいっぱいあるにもかかわらず人との関係が随分と違うことが、吉と出るか凶と出るか? そこが一番分からないところです。
「触覚防衛反応」へ 「ペンギン日記」へ 「療育のポイント」へ