療育のポイント

一見、「他者との接触を拒否し、他者に援助を求めていない」ような行動をする自閉症児も、実は「他者からの支援と承認を求めて」います。なのに「かかわる」ことができずに、症状を悪化させてしまうという悪循環を繰り返します。しかも、その理由は、一様ではありません。

という様々な原因で、人と接することが「外傷体験」になってしまうからです。しかも、自閉症者の脳は、実行機能を司る部署の容量が非常に小さく、「一度にたくさんのデータが同時に引き出されてしまうのに、一つずつしか処理する能力がない」ため常にオーバーワーク状態になっています。また、時系列ではなく、項目別に記憶している「時間構造」の特異性のために、容易にフラッシュバックし、それが次々に連鎖反応を起こしてしまいます。

それを防ぎ、少しでも「かかわり」障害を改善する(社会性を持たせる)ことが、自閉症「療育」のポイントであることは、言うまでもないことだと思います。では、何をすればいいでしょうか?(本来ならば、きちんとした「診断」に基づいた「療育指導」を受けることを、一番に挙げるべきでしょう。けれど、現時点の日本でそれができるのはごく限られた一部の地域だけなので、抜かしました。)

  1. 「広汎性発達障害」を持って生まれるというのは、確かにマイナスから出発するということです。けれど、子どもは成長の途上にあるので、着実に発達していきます。まず、ハンディを補っていく必要のある子どもだという認識をもつこと。
  2. 家族の適切な対応と治療教育で、必ず、改善していくものだという希望を持つこと。ただし、全く「普通」になるとか、「普通」にしてしまおうとか、「普通」に見えさえすればそれでいいとは思わないこと。
  3. 奇妙な行動をしたり、できないことがたくさんあることを「恥ずかしいこと」として本人を責めても、親としての「評価が下がること」を恐れても、事態は何も変わらない。事実は事実として、受け入れること。(一種の喪mourningの過程:我が子に対する期待を裏切られただけではなく、社会的・文化的な標準に満たない子であることを「受容」すること。)
  4. 「普通」と違う行動・言葉の遅れ・コミュニケーションのすれ違いなどを、「障害の特性」という観点から理解しようとすること。一般的な「感情」や、社会的・文化的な「価値」判断を交えて解釈しないこと。・・・「自閉症」を知ること。
  5. 本当は「かかわり」を求めているけれど、「つきあい」を成立させるためのルールがあることを知ること。それなりの方法で「かかわっている」ことを、認めてあげること。
  6. 意思の疎通がはかれる信頼関係(愛着関係)と、存在の基盤となる安全な基地を、きっちり作っておくこと。

以上のことができていないのに、ここから↓に進んでしまうと、重大な間違いを犯してしまうかもしれません。或いは、半分以上が徒労に終わってしまうでしょう。いや、内容自体が全く違ってしまう危険さえあります。

  1. 社会的・倫理的に許される範囲に、行動を修正して行くこと。⇔上辺だけの行動療法。(実効性がなかったり、とんでもない勘違いをしていたりする。)
  2. 「何が欠けていて・何をどう教えれば良いか」知って、周囲とのズレを少なくするための努力をすること。⇔本当にできていないこと・分かっていないことは何か、を見過ごしてしまう。
  3. 「優れている部分を伸ばし、社会的に通用するレベルに高めるにはどうすればいいか」という、対策を練ること。⇔見掛け上できていることだけで判断すると、大きな落とし穴に気づかない。
  4. 「自己評価」は、高くても低くてもいけない。「何ができていて・何ができていないか」をはっきり言い渡す。⇔「できていることを否定して、できていないことだけを重要視する」と自己否定に走る。「本当はできていないのに、できていると思い込んでいる」と他者を否定するようになってしまう。
  5. 他者に能力を評価された時に、素直に聞けることが大切。⇔全く受身的に人に言われたことを鵜呑みにしてしまうか、全く拒否的な態度をとってしまうかのどちらかになる。
  6. 必要に応じて、薬物療法を併用する。⇔お互いの「かかわり」を改善する努力をせずに、薬で全ての問題を解決するのは不可能。

でも、実際はほとんどが、いきなりこっちから始められてしまっているのではないでしょうか?


歴史の浅い「発達障害」ということで、その研究はどうしても幼児を対象としたものが主になります。と言うか、その先のことが分かっている専門家がいないのです。だいたい、顕著な症状が最も明らかな時期でないと「診断」が困難ですし、まだこじれないうち・本人が間違った学習をしてしまう前・外傷体験が少ない幼児期から手を打つのが、最も簡単です。また、どうすれば二次障害を予防できるか、ということも重要になります。しかも、「自閉症」は人として生まれながら人と共にいることに「障害」があるので、早期発見が是非とも必要。だから、早期から「障害」を受容して、早期から療育を開始して、いかにして症状を改善するかということが緊急課題なのです。

では、その時機を逸してしまった場合はどうするか?・・・諦めるしかないのでしょうか!?

まず、二次的な障害(たいてい、何らかの精神疾患)の治療が必要な場合が、多いのではないでしょうか? というより、幼児期の徴候を見逃してしまったとか、子ども時代に際立った不都合がないとなると、二次障害・三次障害を起こすまで気づかれないことが往々にしてあるからです。でも、まだ親元にいる子どもで、親が何とかしようと思っている(何とかしなければならないほどの窮地に追い込まれている)のなら、もう一度スタートラインに立って、トラウマを解消しながらやり直すことができないということはないでしょう。

しかし、成人で、本などを読んで自分で気がついた場合、親子関係や他の対人関係がこじれた後で、収拾がつかなくなっていることも多いと思います。たとえ「診断」がつかなくても、何らかの「発達障害」を持つ者として、互いに自覚症状を打ち明けあって気が済むレベルなら、それはそれでいいでしょう。また、自分が情けないのだと責める一方だったものが、「障害」というやむを得ないものであったことを知って、逆に自信を取り戻せたというのなら大きな問題はないでしょう。けれど、何らかの「治療」が必要だとなると、正確な「診断」がないと、とんでもなく的外れの処方をされてしまいます。また、たとえ正確に「診断」されて適切な「治療」を受けられたとしても、社会的には何のプラスにもならないのが現状ですから、負担は減っても「楽」にはなりません。

もう逃げ場も救いの場もないのに、メンバーの入れ替えをせずに最初からやり直すなんて、できっこありません。その場合は、本人自身が「喪mourningの過程(自分にしてもらえなかったこと、失ってしまった時間)」を引き受けなければなりません。それから、一度は「退行現象」が起き精神的に停滞してしまうでしょう。そこから這い上がって、「できないこと」を回避しながら「場」を使い分けることが出来るようになるには、一人じゃ無理です。そのためには、何らかの指導のできる人が必要だし、自分は「独りではない」ことを実際に会って確認しないといけません。

かといって、「かかわり」方と「ことば」の使用に困難のある者同士で、互助システムを作れなんて言われても、もっともっと無理です。

もともと塞がっているから仕方がないと言えばそれまでですが…、本当に「八方塞がり」です。


         

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