領界侵犯と外交交渉

−広汎性発達障害の豊かな世界−

通常の乳児の世界は親との一体感の中から始まる。この原始の状態はすべてが私ともいうべき汎我的世界である。幼児がおもちゃのみならず、虫にも椅子にもコップにも感情移入を自動的に行うのは周知の通りであり、もろもろの事象にすべて人格や感情を認めるアニミズム的な世界である。この「私」および「私たち」に満ちた世界の中から自他が分かれ、自己意識が析出してくる。しかし自閉症の場合、このような一体感からの出発がない。(P36)

多様な自閉症を言語の構造のみから説明することには無理があり、あまり理論的に走りすぎないようにしたいと思うが、少なくとも自閉症の自他の重なり合いの障害がもたらすものは、言語の構造においては自己意識の形成不全であることを押さえておく必要がある。(P37)

このような「私」が不全の状況では、言語による対象化によって生じる心理的距離は存在せず、認知対象が主語の位置に来てしまって、あたかも自己意識を占有するような構造となる。(P37)

自閉症にとってその体験は心理的な距離に欠け、非言語的な外傷的な体験となりやすい。この体験は意味性によって統合されないまま、長期記憶に保存され、その記憶は意味性ではなく、雰囲気や感情といった非言語的手がかりで想起され、フラッシュバック再生される。(P38)

普通の子どもの場合、さまざまな体験は養育者との一体の体験の中から始まるが、自閉症の場合、このような養育者と波長を合わせて体験を重ねるということが、注意の障害によって非常に困難であるため、この一体化の経験を欠いていて、対人的な交流の中でも、自他の体験が重なり合うことが前提とならない。・・(中略)・・この構造は、主語が欠けていて、対象が主語の位置に置かれている。つまりここに見られるのは自己意識の元になるものが不全な状態である。このような構造が何をもたらすのであろうか。私は、認知表象による自己意識の占有という現象と考える。見たもの、聞いたものが、意識になだれ込み、それに占有されてしまった状態である。また自分とその見たものとの心理的な距離がなく、認知したものに自己意識が吸い込まれてしまっているような状態である。(P52〜53)

杉山登志朗著『発達障害の豊かな世界』より

この画像を見て、「キレイだ!」と思う人・何となく感動するとか癒されるとかいう人は、たくさんいるでしょう。でも、だからといってそういう人が「自閉症」だとは限りません。それは、普通の人、もしくは、ADHD(とそのケのある人々)でしょう。この「光」「色」「かがやき」「きらめき」「ゆらぎ」に吸い込まれて、他の全ての活動が一切停止してしまった人は、「自閉症スペクトル障害(広汎性発達障害)」者、もしくは、そのケのある人かもしれません。(注:これは、「診断」の「基準」ではありません。)

こういう「感覚的なもの」に「同化」している人に向かって、「お前は、物理的な波長や周期的な運動ではなく、ニンゲンという生物なんだゾ!」と喝を入れ、「人間社会に関心を持て!」だの「社会の成員らしくしなさい!」だの「帰属感を持ちなさい!」なんて言う方が酷だと思いません!? こういう、視覚的な像や聴覚的な刺激に浸かっている状態が本当の「私」で、ニンゲンとして行動しなければならない時だけ、「よっこらしょ」と掛け声かけて人間の振る舞いを必死で演じるだけで精一杯なのですから。しかも、言葉で得た知識や、動いているニンゲンを観察して覚えた資料を元にして…。

人間の集団に入れられて人間として行動する為には、元々の自分が持ち合わせていない材料を仕入れる必要に迫られるから、注意をニンゲンに向けることはできます。それから、ニンゲンが嫌いなのではなく、ニンゲンとの係わり合いを避けているのでもありません。

《孤立型》と呼ばれる同朋が「殻に閉じこもっている」と言われるのは、感覚的な過敏症がひどく身体的なバラバラ感が強いので、他人と接触することそのものが恐怖体験になってしまうからです。それと、意味を持った音であるはずの言葉が、「地」である雑多な音の中に混ざり合ってしまって「図」として認知されていないため、状況に結びついた「記号」であることが解からないので、媒介となる素材に乏しく、人にかかわることを拒絶しているかのように見えているだけです。ただ、全く孤立してもいないし、コミュニケーションの手段を持っている高機能の《積極奇異型》や《受動型》や《一匹オオカミ型》でも、ニンゲンを「学習」するためには、必要な条件があります。

それは、〈人〉を実感させてはいけないということです。

触覚的なニンゲンの感覚・心理的威圧感のある介入・感情や意図を持った言葉、これらは皆、脅威です。ニンゲンの触覚と存在感は無い方が快適だし、心理的なベクトルはこちらに向けられない方が安全だし、言葉はそこに置くように放たれて「自分の意志で、取り込むかどうかを決めるように仕向ける」方が反発しません。(選択肢を与えて選ばせると良いというのは、こういう理由です。)

まあ、それは「外交交渉」の段階です。でも、その前に、お互いが「交渉」のテーブルにつかなければ「外交」は始まりませんよね!? 

では、「領界」を侵犯しないように「かかわる」にはどうすればいいのでしょうか?

やっぱり、「体験の共有」とか「共感の体験」が必要なんです。

つまり、「自閉症」の感覚世界が解かっていないと、自閉症児・者の行動や発言に対して「いま・ここで・いったい何を感じているのか/何を考えているのか」という解釈をする段階で食い違ってしまいます。同じ「場」にいて・違う「世界」を感じ・別々の「宇宙」に存在しているのに、一般的なニンゲンの共通認識や、社会的な価値観で計られ続けてしまったら、それはもう外傷体験の嵐になって当然でしょう!

というわけで、今日は「ワタシの世界」をお見せします(えっ、見たくないって? それに、本当のワタシの居場所は「音」の方なんですけど…)。ただし、吸い込まれるのは、情景ではなく「色」「形」といった部分や、「隙間」「濃淡」「段差」のような要素です。それから、私の場合は特に、視覚も聴覚も平衡感覚に直結しているという特性があります。いずれにしても、意味のない表層的な「感覚」です。

点点      

こういう「ワタシの世界」を保持することは、人といなければならない場所で「ワタシ」の領界を守るためにも欠かせないものです。人のいる場所では、誰かが存在しているだけで触覚的な感じが侵入して来ます。言葉の遣り取りを聞いているだけなら聴覚のレベルで済みますが、たいてい、何かの"気持ち"や"感情"とか"考え"をそこに乗せた「会話」をしています。それらに触れてしまったというだけで、こちらの心境は穏やかではいられなくなります。ましてや、他人にワタシの領界を侵犯されるなんて、とんでもない話しです! 

でも、私がせっかく独りでいられる場所を見つけて納まっていても、隠れ蓑を着ているわけではありません。必ず、誰かに引っ張り出されてしまいます。それどころか、たいてい何かの役割があります。その時には、「聞かれたら答えなければならない」「務めは果たさなければならない」と思っています。いや、私の興味を引きつけるキーワードがあれば、むしろ積極的に飛びつきます。だから、「かかわりあい」を拒否したいというのではないんです。しかし、人がいるという感触を消す為に、いつも自分の意識の置き所となる「物」を探すのが、私にとっては自然なのです。葉っぱがあれば「ゆらゆら」に、光があれば「きらきら」に、直角の物ならば「かど」に、木製品があれば「もくめ」に、畳しかなければ「かげ」に、掲示物があれば「もじ」に、自分を移します。

できれば、いつも安心してこの状態になっていたいです。でも、「ワタシ」が完全に消えていられて、周りの人を人扱いしなくて良い場所、つまり、思いっきり「自閉症」でいて理解してくれる人がいる場所なんて、めったにありません。それどころか、世の中のほとんどは、必ず一人は《天敵》がいる所だらけという恐ろしい場所です。だから、その侵入感が身体的な不快感として残るほどの体験をしてしまった場合には、そうして汚されてしまった身体を浄化する為に、本当に一人きりになって、快適な「ワタシの感覚世界」の中に清々と逃げ込む時間が必要になるのです。


で、こちらの「世界」を理解していただいて、それから、どこがどう違うのかお互いが理解しようという研究が始まります。例えば、こんなこと。

われわれは、「暑いですね」あるいは「寒いですね」と何気なく言葉を交し合う。「あー、いやになっちゃう。またふられちゃった」と愚痴をこぼし合う。これはよく考えると不思議なことである。暑いからどうだと言うのだ! このようなコミュニケーションは、意味の伝達を行っているのではない。暑いという体験を言葉により互いに共有し合っているのだ。「ふられちゃった」という個人の体験が、言葉によって、その具体的体験そのものに名前が与えられ、それにより意味が与えられ、同時に個人的な体験から「ふられた人」一般の共通の体験になる。この過程を通して、言語化により、生の体験には心理的な距離が自動的に与えられることになる。だからこそわれわれは「暑いですね」と言葉を交し合うのである。(P35)

へえ〜、知らなかった。私は長いこと、人が会う度に天候を話題にするのは、「天気図が読めないからだ」と思っていた。「気圧配置の知識がない」のだ。だから、「どうして暑いのか知らない」ので、「今日が暑い理由を教えてあげなければならない」と考えた。そこで、毎日「天気予報」を見ることを日課にしていた時期があった。

それから、大人になってからは、挨拶の儀式の一部として「言わねばならない」と思った。その為には、やはり「今日の気温」とか「最高気温・最低気温」の推移を知らなければならないので、やはり「天気予報」を見た。今は、「今日は暑いですねえ」と切り出されたらどう答えるかというパターンをいくつも作って切り抜けている。でも、その先の話題がないので、会話はそこで途切れてしまう。当然、シラジラとした空気が流れる。しかし、「それでいいのだ」と分かったから、天気を巡る会話が外傷体験になることは、もう無い。

それこそ、完全な自閉モードの状態で、窓の外の葉っぱや書棚に並んでいる本の背表紙の文字に意識が移っている真っ最中に、「今日は寒いですねえ。」と上記の本の著者に言われたのが、最後の記憶だ。ここ(先生の研究室)では、安心して自閉状態でいられると思い込んでいたのに時候の挨拶なんかされたものだから、何も言えるはずがない。しかも、会うといきなり、私の方から突拍子もなく聞きたいことを聞いてしまうのが常だったので、まさかそんなことをする必要のある人だなどとは思ってもいなかったのにそう言われたのは、正に晴天の霹靂だった。

外来でアスペの子どもたちと会っていて、最初の挨拶で「あ! この子も脱皮した」と、この変化がわかる明確な指標がある。それは「こんにちは。元気でしたか?」という私からの挨拶に、「はい、元気です」という答えが返ってきたときである。今までとどこが違っているのかって? 今までは次のような返事であったのだ。「・・・・・(無視)」「あー」「(後ろを向いたまま)うん元気」「ぶひょー、元気に決まってるじゃん!」「(アニメの「クレヨンしんちゃん」の口まねで)妖怪ばばあに聞きな」。(P117)

さすがに今は、「心の理論」なんかとっくにクリアーしているし敬語も使えるから、普通モードの時はちゃんと受け答えしている。自閉モードの時でも、「・・・えっ?」と言ったきりフリーズしてしまう程度だ。昔は、「元気とはどの程度のことを言うのか?」だの「なんでそんなこと聞くのか?」だの「元気だよ、だから何?」ぐらいなことは平気で言ってしまったものだ。それで、挨拶としての答えになっていないのがいけないのだと分からなかった間は、自分の言った語尾の音とセットになった気まずい雰囲気だとか、叱られた時の相手の目の映像だとかだけが記憶に残った。家に帰って、母親相手に同じようなことをして衝突すると、その度にフラッシュバックしていたのだった。(なんて、こちらが一方的に気づいたって、今更どうしようもないけれど…。)


           

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