生活と構造化

能力の高い自閉症の人たちはスキルをしっかりもっており、さらに彼らの言葉の使い方は洗練されており適切であることも多い。教科的なスキルは高いレベルまで発展させることが可能である。とはいえそれらのスキルは、生活を自分で管理することを学んでいない人にとっては、なんの役にも立たない。能力のある自閉症の青年がしばしば失敗する領域は、次のようなところである。すなわち、時間通りに起きること、清潔にすること、基本的で重要な出来事にそって一日を計画だてることなどであるが、彼らには、このようなことをしなければならない理由が全く分からないのである。非常に厳密な日課(ルーティン)が設定されたり維持されたりしていない場合には、教科的な面では大きな進歩を遂げた人でも、自己管理や家庭生活にともなう課題を遂行することが難しい場合が多い。(P129)

青年が社会の中で居場所を獲得しようとするならば、教科的な勉強は重要であるけれども、日々の生活を生き抜いていくための手段を与えられなければ、その目的も達成することはできない。(中略)自立して日常生活をするには、予定した時刻に起きるように目覚し時計をセットできること、洗顔にかかる時間を判断できること、服を着ること、髭をそること、予算を立てること、買物ができること、食事を用意して食べることができること、時刻表を理解すること、旅行すること、お金を管理すること、適切な質問ができること、そして社会的に意味のある現実的なやり方で他の人たちとうまくやっていくことこそ必要である。(P130)

このグループの青年たちを将来の成功に導くためにもっとも有効な手だては、自閉症でない子どもたちが、生活体験を重ねていく中で知らず知らずに身につけていくものも含めた広範囲な生活のスキルを、彼らには絶えず直接的に教えていかなくてはならないと認識することである。(P126)

『自閉症−幼児期から成人期まで−』 K・エリス編 L・ウイング他著(ルガール社)

普通なら教わらなくても出来ることを、手取り足取り一から十まで教えなければいけない。正に、そこなのだ。島状に突出した能力があったり、極限的で強迫的な興味の為に、ある面ではとっても賢そうに見えるので、まさか日常生活に困難があるなんてとっても思えない。それが、"能力が高い"と呼ばれる「自閉症」者とその家族が犯す、一番の誤認なのだ。

なにしろ、「生活」には理屈がない。逆に言うと、理屈をつけてやらないと「生活」ができないなんて、誰が信じてくれようか!? 実は、私が僧堂に行ったのも、正に、自分には"生活"と呼ばれているものがスッポリと抜けていて、そしてそれは"人間"にはとっても重要なものであると思ったからだった。「どうして、両親も学校も、そのことを私に教えてくれなかったのだ!?」と、当時は真剣に怒っていたものだった。(どうして、"私"という一人称の代名詞の言い方を教えてくれなかったのか!? と怒っていたのと同様に。)

「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)の日々これ行持(ぎょうじ)」、つまり日常生活の全てが修行であるという禅の修行道場は、まさに「構造化」された生活だった。なにしろ、一日の日課から、寝方・起き方・洗顔・歯磨き・服の着方・食事の作法・歩き方・休み方…、といった全ての事柄が作法に成っていた。部屋や空間には、それぞれの属性があって、ここで・何をすれば良くて、ここでは・何をしてはいけないかが決まっていた。しかし、何よりも良かったのは、鐘・太鼓・版による合図で行動を起こし、誰かにすれ違ったら合唱低頭(手を合わせて・おじぎ)すればよい。すなわち、日常会話をしたり〈人〉と〈人〉との付き合いをしなくて良いということだった。

とはいえ、かつての国家仏教時代ならともかく、現代の日本にそんな現実が有るはずがないことも知らなかったのだから、本当にとんでもない「世間知らず」だった。でも、「理屈」に裏打ちされた「生活」を身に付けることに何年間かを費やしたおかげで、今かろうじて生き延びている。(杉山先生の説によると、「自閉症」者の人生はサバイバルだそうだ。)「時間通りに起きること、清潔にすること、基本的で重要な出来事にそって一日を計画だてること」本当に、それが仕事だった。

その後、里に降りてからも、「予定した時刻に起きるように目覚し時計をセットできること、洗顔にかかる時間を判断できること、服を着ること、予算を立てること、買物ができること、食事を用意して食べることができること」の為に何時間も費やしたり、時には一日掛かりの大仕事のようだったこともあった。とはいえ、「社会的に意味のある現実的なやり方で他の人たちとうまくやっていくこと」は、今もって出来ていないけれど…。(それが出来ていなかったことさえ、つい最近まで気づいてもいなかった。)

一時そういう生活をしたことが良かったのか悪かったのか、今判断を下すことは出来ない。何故なら、そのお陰で、「自閉症」だと分かっていれば気をつけることができた・しなくて済んだ領域に深入りしてしまったのだから。もしかしたら、大いなる誤解の上に、さらなる誤解を塗り重ねてしまっただけのような気もしている。


それはともかくとして、現在、私がとっても驚いているのは、私が自力でして来たこととTEACCHプログラムの「構造化」との類似点が、あまりにも多いということなのだ。

朝日新聞厚生文化事業団で出版している『自閉症のひとたちへの援助システム』という小冊子によると、「構造化」というのは

  1. 物理的構造化:場所と活動の意味を一致させよう。
  2. スケジュール:いつ・どこへ行けばいいのか分かる。
  3. ワークシステム:何をするのかが分かる。
  4. ルーティン:決まった手順や習慣(どうやってするのか分かる)。
  5. 視覚的構造化:見ただけでも分かる。

ということで、これぞまさしく私が自分の長男とU君に身辺自立を教えた方法そのものだった。私が、全くの勘でやってきたことと、同じなのだ。

そして、何故それが必要なのかと言うと、以下の通り。

  1. 自閉症の人たちが理解しやすい。不必要な混乱をしなくてもすむ。
  2. 自閉症の人たちが安心して自信を持って生活できる。
  3. 自閉症の人たちが、効率的に学習するのを助ける。必要な情報に注意を集中しやすくする。
  4. 将来、地域でできるだけ自立して生活するためである。
  5. 行動をマネジメントするためである。

要は「構造化」とは、「自閉症」という独特な文化を持ったままで、自立した社会生活を送れるようにする方法なのだ。もっとも、主にこれは身辺自立のできていない重度の人たちや、明らかな「自閉症」である時期の子ども達のものだと思われている。でも、私は仕事を始める時に、まずスケジュール表を作り、分類して空間上に配置したりすることから始める。すなわち、自分に分かりやすく整理すると、自然にそれが「構造化」になっているのだ。(しかし、非自閉症の人たちと仕事をする時にこれをやると、まず間違いなくうるさがられる。彼らは、そういうことにはルーズだが、人の噂話を仕入れ・仕訳し・人間関係を図式化する術に長けている。)

しかしながら、コミュニケーション・プログラムまで用意されているのには、脱帽せざるを得ない。最も、「コミュニケーションの障害」は「自閉症」の三本柱の一つだから、当然と言えばそれまでなのだが…。しかも、かんしゃく(パニック)や問題行動をも、コミュニケーション(発信)行動の一つとして捉えているなんて! どうして、そんなによく知ってるの!?と、思わずショプラーさんに聞いてみたくなる。


            

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