謎解きの旅(PartU)
アスペルガー症候群の子どものかなりの割合が、読み・書き・計算の領域で、最高または最低のレベルにある傾向があります。一部には過読症(ハイパーレキシア)、つまり単語の理解は非常に高い反面、文章や話の筋の理解はとても遅れた子どももいますが(略)、それ以外の子どもは、読みのルールを飲み込むことにかなりの困難があります。
『ガイドブック・アスペルガー症候群』P183
この「ハイパーレキシア」という用語をはじめて目にしたのは、とある掲示板でした。しかし、私は、以前からそれラシキ人を二人知っていました。そのうちの一人は小5の女の子です。彼女は、自閉症とも何とも診断のついていない子供です。話し言葉・協調運動・社会性には明かな困難があり、学習障害もあります。なのに、漢字の読み書きだけできるのです。人名を覚えたり、人と人とを関係付けるのが大好きです。例えば、「誰と誰が親子」だとか、「OO先生の代わりに××先生が来た」というような。そして、かなり強固なこだわりがありながらも、それほど奇異な行動はしないし、興味を持つと見よう見真似で何でもやってしまいます。
もう一人は、(予想通り)私自身です。私は、以前から彼女にたくさんの共通点を見出していて、親近感を持っていました。ただ、私は"障害"というほどひどくない点で異なっているだけではないかと…。ちょうど、私がそのことに気づいてモヤモヤしていた時に、言葉の方から訪れてくれたのでした。(いやぁ、ありがたや、ありがたや)。
この用語、上の文では「読み能力」のひとつのパターンとして使われていますが、これを一つの類型化された症状としてとらえる考え方もあるそうです。ちなみに、アメリカのハイパーレキシア協会では、以下の特徴を持つ子どもをこの症候群とします。
- 文字や数字に強い興味があり、年令には不相応の早熟な読字能力を発揮する。
- 話し言葉の理解には明かな困難がある。
- 社会的に適切な人間関係をもつためのスキルに欠けている。
さらに、次のような特徴が見られることがあります。
- 会話の奇妙さ。意味が解らないままにそっくりそのまま文を覚えて相手の言ったことを繰り返したり(オウム返し)、代名詞の反転が見られたりする。[(注)英語の場合ではIと言うべきところがYouになってしまうこと。日本語の場合では、名前で呼ばれていると名前でしかその人のことを呼べないという風な現れ方をします。]
- めったに自分から会話を始めない。
- 儀式的な決まり事を繰り返すことに強いこだわりがあり、変更が困難。
- 聴覚・臭覚・触覚が過敏。
- 自己刺激行動。
- 特定のものに対する異常な恐怖。
- 18〜24ヶ月までは、正常な発達を見せ、その後、後退する。
- 聴覚または視覚的な記憶に優れている。
- 「いつ」「どこで」「だれが」「なにを」「なぜ」というような、(英語で言えば)"Wh…"で始まる質問に答えられない。
- 具体的で字義通りの解釈をし、抽象的な概念の理解に困難がある。
- 興味があるものだけを選別して聞くため、耳が聞こえないかのようにふるまうことがある。
訳の間違いがあったらご勘弁を。でも、これって、まるで私??? ありゃりゃりゃりゃりゃ! 謎解きどころか、謎は深まりゆくばかりなり…。
当時は早期教育なんてなかったし、字を覚えたのが異常に早かったなんてこともなかったけれど、小学校低学年の時に、動物を主人公にした創作童話の小冊子を作って家族を驚かせた覚えがあること。小学校のうちに家中の本という本を片っ端から読んで、百科事典まで読み始めてしまったこと(でも、途中でマンガの『サイボーグ009』に移ってしまって、やめました)。成績は良かったのに、小説の読解と感想文はいつもダメだったこと。不器用で書字には困難があったのに、先生の言ったことから「です・ます」を除いて矢印で繋げた完璧なノートを取り、テストの前には引っ張りだこだったこと。
今でも、本を読むのは異常に早いけれど、文芸作品のあらすじと人間関係は、「あとがき」を読まないとわからないこと。会話中でも書かれていることでも、文全体の意味は何となく分かるけれど、細かく問い詰められると本当は解っていないことが往々にしてあること。だいたい、自分からは書きまくり、しゃべりまくるけれど、自分が経験したわけではない事柄が書かれている文章を目にした時の読解力は地に落ち、自分に関係のないことを言っている人の話は聞いていないこと。
どれをとっても、このこと自体は困ることではあっても、誰しも得手・不得手があるのはあたりまえだから、私はただ"そういう人だ"ということでしょう。問題は、自分でそのことに気づかずにいたことなのです。逆に、「人間は・かく・あるべき」「誰にでも好かれる・明るい人になれ」「人づきあいが大事」といった言葉の教示に惑わされて、そういう自分の"とりえ"さえも否定してきたことなのです。
そう、寺で「不立文字(ふりゅうもんじ)=文字を読むな。修行は体でするものだ」という禅哲学を極めようとしたのは、ある意味では正しい選択でした。私は、「自分を無にして相手の気持ちを読み取り、相手がして欲しいと思っていることをする」という禅の修業をしたお陰で、社会に出て"仕事"ができる人間になれたのです。ただし、それは、「よそいき」の私の範囲内でした。プライベートで日常的な"人づきあい"の次元まで掘り下げて自分を解明することは、「自閉症」に出会うまでできなかったのでした。
でも、私が学問の道を進まなかった本当の理由は、読解力と語学力のなさに加えて、目が痛くて字を見ることさえ辛くなったからなのです。その時に「茶色のサングラス」の効果を知っていたら…。やっぱり、「汝自身を知れ」と言ったソクラテスの言葉は正しかったようです。自分自身を知らなかったばっかりに、ものすご〜い遠回りをしてしまいました。
でも、転んでもタダでは起きませんよ、私は。
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