憐れな孤羊

今までの医療の最大の問題点は、どちらかといえば客観を主眼視したことかと思われるが、しかし自閉症はいわば感覚の問題でもあるから、従って客観性を主体に捉えている限り、決して自閉症の研究は進まないと思うし、ほんの数年前までの我が国においてのその研究が、先進諸国に比べ遅れていた原因の一つも、その点にあるかと思われる。それには、感覚を他者に訴えることそのものの困難さという問題もある。

『高機能広汎性発達障害』p181/森口奈緒美さんの寄稿より    

そういう感覚や身体の問題がどうして起きるかは、今のところ解明されていません。しかし、教育上、経験的には以下の二つがあるような気がします。

他人の個人的で主観的なあり方を、客観的に完璧に測定するには、きっとこの分野に関する脳内のメカニズムが明かになるのを待つしかないのかもしれません。

それはともかく、同じ環境にいながら、大多数の人が感じるように・思うようにできない人たちは、確かに存在しています。その人たちは、人が"全体"と呼んでいるものの"部分"だけ認知して、しかも、自分独自の方法でつなぎ合わせています。だから、自分のまわりに実在している現実世界を、ニンゲンとして一般的な方法で学習することが困難なのです。ニンゲンがニンゲンとして共感でき、コミュニケートできるのは、この"共通項"を前提としているのですから、「みんなと・ちょっと・違って・生まれついた」のは、ハンディに違いありません。しかし、それは才能として伸ばす可能性をも秘めた、正に「磨かれていない珠」でもあるのです。

もとはといえば感覚とか身体とかの問題で、他者との関係や心理的距離に障害が起き、人とのコミュニケーションがうまく出来ない"状態"が、「自閉」ではないかと私は思っています。どこがどう違うかはともかくとして、普通の人とほんのちょっとズレているだけなのでしょう。本当は、本人が気づく前に、客観的にそれを見破ることには重大な意味があります。でも、子供のうちに発見されてもされなくても、遅かれ早かれ本人は、はっきりとした自覚症状のないまま、漠然と「何かが違う」ことに悩み、みんなと同じになりたい気持ちと同じになれない現実のギャップに苦しむようになります。

そういう、ちょっと変わっている人たちが「みんなと違う」ことを実感しながら生き延びるとは、≪自分自身≫でい続けるために≪世の中≫から逃避するか、≪自分≫を捨ててみんなと同じ振りをして≪世の中≫に踏みとどまるかを、日々選択して生きることなのです。その危うさに、誰が気づいてくれるでしょうか?

また、自閉的特性を持つ人たちは、ほとんどの人には一大事に思えることに全く関心がなく、みんなにとっては難しいことが簡単で、簡単で当たり前なことのほうがかえって難しかったりします。普通なら教える必要のない生活に必要な基本的なことができなかったりします。例えば、おしゃべり・おしゃれ・流行・ものの値段や価値・他人に対する下世話な興味・具体的な地名のある土地に住んでいること・名前を持ち顔のある具体的な人たちとともに暮らしていること…。

今では、一人一人の好みや興味に合ったものや得意なものを、自分で選べる時代になっています。オタク的に何かを集めることや、人と違うものを追究するのは、珍しいことではありません。どちらかというと、「自分だけのオリジナル」「誰も持っていない」「自分に合った楽しみ方」が大事になってきています。ある意味では、とっても居心地が良い時代です。

でも、そうなると今度は、何が"正しい"のか分からない。色々な考えがあって・それなりの答えがあって・そのどれもが"間違いではない"。何を信じて良いのか分からないのは、不安を募らせます。さらに、みんなで何かをやる場合には、「みんなで・ざっくばらんに・話し合って・一緒に・楽しくやりましょう!」ということになり、やっぱり社会的なスキルが要求されます。

真綿で首を締められながら、目の前に"お楽しみ"をぶら下げられている状況は、誰しも同じなのかもしれません。けれど、みんなにとって楽しいことを苦痛に感じる人がいるなんて、考慮してはくれません。「それは、いけない考えだ」と一括され、そういう≪個性≫は、≪個性≫としてさえ認められないのです。

他の羊たちが何を考え・何をしようとしているのかわからず・無防備なまま生きている"孤狼"ならぬ"孤羊"は、憐れなのに憐れんでもらえない運命にあるようです。それが、みんなと一緒で・群れることのできる"子羊"ならば「憐れな子羊」と呼んでくれるのに…。


ところで、

私のような人を、たくさん見つけたからでしょうか?

やっと、自分の仲間と呼べる人に出会えたせいでしょうか? 

安心して愚痴をこぼせるようになったせいでしょうか? 

もともと住んでいた"コトバ"の世界に戻って来たからでしょうか? 

いいや、

苦手なことに敢えて挑戦すること・演技をすること・このままではいけないと焦ることをやめて、自分に無理なく過ごすようになったせいでしょうか? 

今私は、とっても落ち着いています。いろんなものを真に受けて、落ち込んだり・有頂天になったりもしなくなりました。

群れている人たちを見ても、「もうここに生きなくていい。この人たちに認められなくてもいいし、この人たちと違うことに悩まなくてもいい。最低限のおつきあいさえしていればいい。自分の世界はここではないところにあるのだから」と思います。

何故か、とっても自然で、とっても普通にいられます。

お陰で最近、また私は、自分が何だかわからなくなっています。


       

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