五体満足

青少年の健全育成・心の教育が叫ばれるようになって、教育関係の皆さんは、真剣に取り組んでおられることと思います。そこで、是非ともお願いしたいことがあります。

知識偏重・詰め込み教育への反省から出発するのは、結構なことです。これだけ物が溢れ、お金さえあれば何でも手に入る世の中に、「自己中心的な欲望」を野放しにするのは、人間の顔をした悪魔を育てるに等しい愚行です。だから、「みんな・一緒に・力を合わせて・何かをやり遂げる」ことを重視するのはありがたいことです。実際、私は自分の育った家庭と学校がその機能を果たしてくれなかったので、自主的にお寺に行ってそれを学び・補うことが出来ました。

ただ、「みんな・同じ」という決めつけだけはやめてほしいのです。それさえなければ、「みんな・一緒は・楽しい」のに、「みんな・同じ」を押しつけられるから苦痛になる人だっているのです。飲んだり食べたり喋ったりすることが楽しいとか、みんなの輪に入れないとつまらなそうだなんて、勝手に決めないで欲しいのです。ちょっと離れた所で、傍観者として楽しそうにしている人々を見ている事を楽しんだり、表に出ないで裏方の仕事をしている方がイイという人だっているのです。それで十分に楽しいし、そういう形で協力し、それでみんなとの「和」を保っていられるのです。

相互の関係を保てなくて「みんなの・外にいる・自閉症者」は、確かに「みんなの・内にいる・非自閉症者」のことを良くは知らないでしょう。でも、これだけは誤解しないで下さい。自閉症者が適切な自己開示をできないのは、「自己中心的」だからではなく、そもそも≪自己≫の形成が遅れているからです。そして、共感ができないのは、ちょっと感覚がずれているからです。確かに、ちょっとうるさいかもしれない、しつこいかもしれない、性急にし過ぎているかもしれない、分かりにくいかもしれません。でも、本当は、「自分の・コトバ」をみんなに解るコトバに置き換えて伝えてくれる母親と、みんなに通じるコトバを教えてくれる先生を探しているのです。

差し出された手は振り払うかもしれません。でも、それは、何かを押しつけようとしていたからです。自分たちのところにやって来て、自分たちと同じやり方で手をつないで導いてくれる人を拒みはしないでしょう。

何の障害もなく五体満足に生まれたからと言って、皆が皆、その五体に満足しているわけではないでしょう! ある人は顔やスタイルに、ある人は頭の出来に、またある人その五体を与えてくれた人に不満を持っているでしょう! 近視の人は五体に欠損はないけれど、ちょっとした視力の不備があってタイヘンな思いをしているでしょう! 背の高い人も低い人も、それなりの苦労はあるでしょう! 誰だって皆、五体には不満足なんじゃあないですか? いや、だからこそ、それが共通の話題になるのじゃあないですか? 

自閉性の障害だって、ある意味では、それと全く同じ事なのです。理解されにくいのは、人としての共通認識の範囲を越えているのと、数が少ないからなのです。多くは、生まれつき感覚と身体に問題があって発達に影響しているのです。みんなにとって・何でもない事(例えば、音・光・臭い・服・人に触れられる事)が、苦痛なことがあるのです。

でも、「みんなと・同じ」にできない自分に悩み、精一杯背伸びをして「みんなと・同じ」になろうとしているのです。それを滑稽だなんて言わないで下さい。そうして一人であがいている人のことを、数奇な目で見ないで下さい。ましてや、危険物扱いしないで下さい。

気楽に何でも話せばイイといわれたって、出来ないのです。

友達をたくさん作れといわれたって、友達になれる人が少ないのです。

そもそも、考えていることも感じていることも違うじゃぁないですか。

だいたい、私が話し始めるとうっとうしがられたり、人を怒らせたりしてしまうじゃあないですか。

私が黙っていた方がみんなうまく行くし、見ているだけで私は楽しいのです。話すこともないし話しが食い違う方が多いのに、無理に話すことないじゃありませんか。

みんなの観察をして・みんなの真似をして・みんなと同じふりをするのは、もうやめました。でも、世間に背を向けたのではなくて、今までのような可笑しな係わり方をやめたのです。自分にふさわしいやり方で、自分を守りながら、むしろ積極的に係わって行く方法を見つけたのです。

もう、ちゃんと、社会の中にいます。だから、放っといて欲しいのです。


でも、私と世の中の関係は、いつまでたっても高校時代から何一つ変わっていません。最初から最後まで、きちんとそうじをやっていたのは、私一人でした。それは、私がきれい好きだからじゃありません。「そうじの時間はそうじの時間。だから、そうじをやっていた。」それだけのことです。ほとんどの生徒は、手よりも口の方をよく動かしていました。先生が見ていないところでは、手を抜くのは当たり前でした。みんなは、どこかにたむろして、私には全く興味のない、たわいのないお喋りに花を咲かせていました。

それが、もう随分と年を取り、挙手をするのにもう片方の手で支えなければならなかった貧弱な筋肉の持ち主は、まともに一日を起きて過ごすのもタイヘンなヤワなヤツになっています。疲れたら、すぐに横になって休まないといけません。一日にできる仕事の量は限られていて、あれもこれもというわけにはいきません。それに、いっぺんにいろんなことをするとパニックになるばかりか、必ずどれか落としてしまうので、メモに"やること"と"予定"を書いて、ひとつずつチェックしないといけません。時々、憑かれたように何かを始めるとものすごい馬力を発揮しますが、他のことはまるでうわのそらになってしまいます。

でも、世の中が要求してくることのほとんどは、体を使うことです。奉仕作業のような肉体労働ばかりか、いついつに・どこかに行って・何時間か拘束されるだけでも、人並み異常に疲れます。大きな行事は、スケジュールだけでなく体調を調整しないといけません。カレンダーに何か書き込んであると、その日はその用事しかできません。

会社に行って・家事も子育てもやっている人が見たら、「なんてグータラな生活!」と言われてしまいそうです。ついこのあいだまで、自分でもそう思っていました。そして、「情けない!」と自分を責めていました。だけど、今では、私なりに精一杯なのだし、こうしていられるところにいるのだから、何も悔いることはないと思えるようになりました。家内工業の事務と、障害児たちの勉強と、毎日の兄弟喧嘩の仲裁と、自分自身の心身のメンテナンスが、いちおう五体満足な私の・めいっばいの・立派な仕事です。


      

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