デジタルとアナログ

続いているのに切れているのか? 切れているのに続いているのか?

これこそ、どちらが正しいとか間違っているとかいう問題じゃなくって、同じものをどのように見るかの違いです。

デジタル時計もアナログ時計も、どちらも時刻を表わす。どちらの時計も時刻を表わすけれど、アナログ時計の方は時間が読み取りやすい。

映画のフィルムは一こま一こま切れているのに、画像は繋がっている。一枚一枚のフィルムに閉じ込められている情報量だけでもかなりなものだけれど、それを映写機にかけて連続して映し出すと、そこから伝わるものは計り知れないほどに増える。

現実世界は、ほとんどアナログ。なのに、それを情報処理する過程でデジタル化していたら、「世界」はとっても違うものになって当然! だと思いませんか?

それから

一瞬の内に「全体」と「部分」を同時に見れるのと、「全体」か「部分」のどちらかしか見えないのとでは、同じものを見て全く違ったものを見ていることになるでしょう!

「全体」と「部分」を同時に認知出来るのと出来ないのとでは、どちらが本当なのでしょうか? いや、それはどちらも本当です。

「全体」と「部分」を同時に認知出来るのと出来ないのとでは、どちらが上でどちらが下なのでしょうか? いや、そんなものに優劣は有りません。ただ、どっちがより便利か、どちらの方が多数派なのかという違いです。

「全体」と「部分」を切り離せなくて不自由なのと、「部分」に囚われて不自由なのとでは、果たしてどちらがより豊かなのでしょうか?・・・そんなもの、比べることないでしょう? どっちもどっちですから!

どうして

「世の中」にはデジタルなものもアナログなものも存在しているし、どちらも必要なものなのに、人間がデジタルではいけないのでしょうか!?

確かに、アナログな世界の中に住むには、アナログな方が生き易いでしょう。ましてや、ほとんどの人間がアナログ星人なのだから、そっちに生まれた方が有利なのに決まっています。

でも

アナログ星にデジタル星人がいてはイケナイ、という決まりはどこにもありません。いや、そういう人が実際にいるのですから、事実は事実として認めるのがスジってもんじゃあありませんかねぇ!?

だいいち

デジタルでバラバラなものは、法則化して繋げることができるから、アナログ星に生まれてしまったデジタル星人たちは、何とかして適応しようと、一生懸命努力します。

なのに

どうして、アナログ星に生まれたアナログ星人は、それだけでもとーっても楽しているというのに、デジタル星人を排除しようとするのでしょうか?

アナログ星人がアナログ星人の間で、うまく生きていく為の努力をしないで涼しい顔をしているデジタル星人のことが、そんなにうらやましいのですか? だから、いじめたり・だましたり・利用したりするんじゃないのですか?

それとも、単に理解能力が無いだけでしょうか?


アナログ星に生まれてしまったデジタル星人、つまり「自閉性障害者」が生きていくのに、「自閉症」のままでいるか「普通」を目指すのか? これは大変大きな問題です。

こういう我々が「自閉症連続体」と言われるなんて、皮肉なもんです。しかも、一人一人はその数直線上のどこかの一点にいて、あっちからもこっちからも引っ張られて微妙なバランスを取りながら、かろうじて生き延びているなんて。

そこで、ほとんどの自閉症児はだんだん「普通」になって行くのだから、「普通」になるのを手助けしてやろうとか、「普通」にしなければという考えもあります。確かに、できるだけ早い内に発見して、"そういうもの"だと知って、それなりの対応をすれば、多少の改善の余地はあるし、優れたところを伸ばし・足りないところを補うスキルを身に付けることもできます。

しかし

完全な「普通」を目指しても、絶対にどこかで挫折します。だって、「障害」という以上、どうしても出来ないものは出来ないから。

それから、仮に「自閉症」が残遺するとしても、そのまま野放しで良いということもありません。確かに、困ること・迷惑なこと・辛いこと・面倒なこと・不便なこと・苦痛なことは、少ない方が良いに決まっています。そして、「自閉症」でいる方が「楽」なこともあるからといって何もしないでいたら、最終的には一番困るのは本人です。

だから

普通に「なる」のと、必要に応じて普通らしく「ふるまう」のとは、全く別のことです。「普通にならなければ」と思っていた間は、心の底から、発想まで正常にならなくてはならないと信じていました。一人きりのときも、正常でなくてはならないと思っていました。そんなことができるはずはないので、いつも「これではいけない」と思っていました。

でも、「私たちには私たちの普通がある」と知ったことで、普通らしくふるまうのは、どうしても必要なときだけでよいことになったのです。それも、「直さなければ」の代わりに、「なめられても損だから、ここは合わせておこうか」と思えるようになったことで、精神的に余裕ができたのか、必要なときの演技まで上手になった気がします。

『ずっと「普通」になりたかった。』(クニラ・ガーランド著/ニキ・リンコ訳)訳者あとがきより

本当にこの通りです。

(やはり、今日も引用してしまった!)

 

あっ、それから。

アスペとADHDでは外見上かなり違っているのに、本人の意識ではどちらも同じでどっちなんだか分からなくなってしまうのは、ADHDは人間そのものはアナログで、アナログな情報処理能力もあるのに、「注意」だけがデジタルだからです。(ただ、両方の診断基準を満たす症状を持っている場合もあります。)


            

「たまには、批判もしてみよう」へ   「ペンギン日記」へ  「症状にならない症状」へ