声のした方を振り返った一同は、揃って驚きに目を瞠った。
普段は鷹揚過ぎる程鷹揚に構えているアトラハシスでさえ、さすがに声を震わせる。
「…時の、翁?」
問われた当人――巨大な三日月形の鎌を抱え込み、口許に豊かな鬚を蓄えたその老人は、目尻の皺を深めて頷いた。
「いかにも、儂は時の翁と呼ばれる者じゃ」
人好きのする笑顔が与える印象は近寄り難さとは程遠いものだが、悠然とした態度の端々にはその身に相応しい威厳が漂っている。
「儂は【真逆の時象儀】の番人をしておってな。おまえさん達の知りたがっておる事情を話す事が出来る唯一の存在といって良いじゃろう」
聴くかね?と尋ねられた面々は、それぞれに無言で首を縦に振る。
一同が固唾を呑んで見守る中、翁は太陽と月の王族を襲った事件の顛末を語り始めた。
■□■
そもそもの事の起こりは、あの夜サラヤがうかつにも【真逆の時象儀】に触れてしまった事だった。
【真逆の時象儀】の能力を発動させる為には、大きな魔力を要する。
逆に言えば、ある一定以上の魔力を持つ者ならば、とりあえず【真逆の時象儀】を動かす事が可能なのだ。
サラヤは闇の王族だ。魔力の強さならばルーやデューに引けを取らない。
彼の力を感じ取って、【真逆の時象儀】は覚醒した。
だが、当然彼は太陽と月の王族の秘宝を操る術など知る由もない。
斯くして、【真逆の時象儀】の力は暴走し、サラヤがかけた眠りの魔法ごと太陽と月の王族の時を止めてしまった。
それだけではなく、世界中の時象に無秩序に作用しかけていたのだ。
異常に気づいて駆けつけたルーとデューは、咄嗟に充分な準備もなしに【真逆の時象儀】の魔法を止めようとした。
時の流れに干渉するような魔法は、本来なら念入りな調整の下に行われなければいけない難易度の高い術である。
それを無理矢理抑え込んだ反動は術者へと跳ね返り、サラヤは【真逆の時象儀】に囚われの身となり、ルーとデューは自らの「時間」を犠牲にする事になった――。
■□■
「そんなわけで、皇子と姫は今の童子姿になった、という訳じゃ」
時を遡った肉体に引き摺られる形で、記憶の一部も消えてしまったのだろう。
翁は、そう話を締め括るとすっかり温くなってしまったお茶を――こんな状況でも気の利くデューの手によって、居合わせた全員の前に紅茶のカップとお茶請けの焼き菓子が饗されているのだ――啜った。
一方、一通り話を聞き終えたものの、サラヤ以外の面々は釈然としない様子だった。
未だ手つかずの謎を解明すべく、一同を代表してサカキが口を開く。
「でも、この子達は自らの支配する時間帯以外では人の姿をとるのにも魔法の力を必要としています」
ルーは昼の陽の照る時間を、デューは夜の月が輝く時間をそれぞれの領分としており、相手の支配する時間には仔猫の姿でいる事が多かった。
昼夜を問わず人形を保てるのは、自身は一切魔法を使えないくせに強大な魔力を身の内に秘めたサカキが傍にいるからこそだ。
「魔力を著しく消耗すると童子の姿さえ維持できず、仔猫の姿になってしまう。それは何故です?」
一同の真剣な眼差しを一身に集めた翁は、思いも寄らない単語を口にした。
「オプションじゃ」
「…は?」
目をぱちくりとさせて耳を疑う一同に、翁はお茶目にも片目を瞑ってみせる。
「小さな肉体の方がエネルギーの効率が良いし、寿命に比例して早く時を取り戻す事が出来るのでな。と言っても、もちろん理由も無しにその姿になったわけではないぞ。容姿は時に事物の本質を表すもの。この2人は、猫の仔のように愛らしいじゃろう?」
脱力する一同を前に長い鬚を震わせてからからと笑った翁は、一転して穏やかな賢者の表情でこう言い渡した。
「暁皇子と宵闇姫、そして【真逆の時象儀】を発動した当人である更夜殿が正しくその魔力を注ぎ込めば、時象を復元する事が可能じゃよ」
ルーとデューは、思わず互いに顔を見合わせる。
同族を案じ、我が身に降りかかった呪いに悩まされてきた2人にとって、それは何よりの朗報だった。
サラヤとしても、意図したことではなかったとはいえ犯してしまった罪を償えるならそれに越した事はない。
一挙に明るい雰囲気で盛り上がる一同を微笑ましく見守っていた翁は、しばらくするとのんびりとした調子で口を挿んだ。
「ところで、じゃ」
弾かれたように振り向く一同の不安をにこやかな笑顔で打ち消して、翁は続ける。
「事故が起こった当時、宵闇姫の胎内には新たな命が宿っておってな」
それはそれで、新たな驚きを――殊にサラヤには他とは違った意味合いで――齎したが、予想外の発言はそれだけに留まらなかった。
どこか懐かしげに目を細めた翁は、サカキを真っ直ぐに見つめてしみじみと呟く。
「姫の体が時を遡ってしまったが為に喪われたものと思っておったが…」
「…まさか…」
慈愛に満ちた翁の視線を追ってサカキを見つめる一同の脳裏に、ひとつの可能性が過ぎる。
【真名の鏡】に映らなかった真の姿…未だ生誕の時を迎えていない筈の生命…人の業を超えた強大な魔力…それらから導き出される答えとは――。
「サカキ、と言ったかな?おまえさん、どうやら暁皇子と宵闇姫の世継のようじゃの」
ぽむ、とサカキの肩に手を置いて、翁は衝撃の事実を告げた。
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