【真逆の時象儀】の翁が手にした砂時計は、ガラスか水晶のような透明な球を8の字型に刳り貫いて虹色の砂を詰めたものだった。
球体の表面には、ぱっと見開口部どころか瑕ひとつ見当たらない。
だが、ルーが手を触れると、外側の球ごと砂時計は綺麗に2つに割れた。
鋭利な刃物で断ち切ったかのような断面を呈する縁で手を切らないように気をつけつつ、デューが慎重な手つきでルリタテハを砂の上から取り出す。
彼女の掌の上で、ルリタテハは葉脈のような蒼い線が走る黒い翅を力なく震わせた。
ふるふると閉じては開く事を繰り返すその姿は、眠りから覚めかけた麗人が長い睫毛を瞬かせる様を思わせる。
実際、つい今しがたまで砂時計の中で眠っていたらしいルリタテハは、しばらくするとデューの掌からふわりと飛び立った。
黒い蝶の美しい翅がひらりひらりと舞う毎にはらはらと散る燐粉の煌めきが、異常なほどの目映さで視界を埋め尽くしていく。
やがて、薄れゆく光の幕の向こうに、何処からともなくほっそりとした体つきの青年が現れた。
黒い巻き毛に蒼い眸が神秘的な甘い顔立ちの青年は、目の前にいるデューに気づくと喜色を浮かべて瞳を輝かせる。
「宵闇姫っ!」
青年は、立ち上がる勢いのまま、デューに抱きつこうとした。
が、咄嗟にデューを掻っ攫ったルーが、彼の端正な顔面に足裏をめり込ませるという荒業で押し止める。
「何するんだっ!!」
赤くなった鼻梁を押さえつつ上目遣いの涙目で声を荒げた青年に、ルーは全身の毛を逆立てた威嚇モードで怒鳴り返した。
「うるせぇっ!デューに触るなっ!」
一方、青年は整った容姿を最大限に活かして相手を小馬鹿にしてのける。
「ふん、一人前にナイト気取りかい、暁皇子?笑わせるじゃないか」
片や甘やかな雰囲気の優男。此方、あどけなさの残る顔立ちの美少年。
見た目だけならなかなかに眼福な取り合わせの2人が大人気なくもバチバチと火花を散らせるのを遠巻きに眺めやりつつ、サカキは当事者の1人と思しき少女に問いかけた。
「何者です?」
「夢魔の王子、闇の王族の更夜《サラヤ》」
呆気にとられている、と言うよりは本気で呆れているらしいデューの返答は限りなく素っ気無い。
それでも、自身の名を呼ぶ彼女の声を夢魔の青年は聞き逃さなかった。
軽く眉根を寄せ、いかにも嘆かわしいといった仕草で首を横に振りつつ、哀しげにデューを見つめて切々と訴える。
「姫、こんな乱暴なヤツの何処が良いんだ?自分の思い通りにならないからって暴力に訴えるなんて最低じゃないか」
「何だとぉ?!」
今にも掴み掛からんばかりに怒り狂うルーの存在はキレイに無視して、サラヤは明るい空色の瞳を真っ直ぐデューに向けるとここぞとばかりに熱っぽい声でかき口説いた。
「こんなヤツの心無い言動で姫が傷つくなんて僕には我慢できない。僕だったらそんな事しないよ。絶対大切にするし、幸せにする。だって、僕には姫が何より大切だもの」
並の男がこんな歯が浮くような気障ったらしい台詞を並べ立てたら、周りの目にはさぞ滑稽に映ったろう。
だが、サラヤの甘い声音と真摯な眼差しの威力は絶大だった。
これまた普通の女性なら、たとえ心からの言葉だと信じられなくともついつい篭絡されてしまうに違いない。
さすがは誘惑の手管に長けた夢魔の面目躍如、と居合わせたサカキとアトラハシスは感心する。
――惜しむらくは、愛らしい童女姿のデューが相手では色恋沙汰にとち狂ったロリコン男に見えなくもないという事か。
そんな周囲の感慨を他所に、ルーとサラヤの低次元な言い争いは続行していた。
「デューはおまえのモノになんかなんないんだよ!」
「だったら君のモノだっていうワケ!?」
当人の意思を無視して感情的に盛り上がる2人に対して、デューは冷静にこう指摘する。
「私、モノじゃないんだけど」
一瞬肩を竦めて顔を見合わせた後、ルーはばつが悪そうにそっぽを向き、サラヤは飼い主に叱られた犬のようにしゅんと項垂れた。
「で?何でこんな事になったんです?」
溜息混じりに尋ねるサカキには答えず、サラヤはつんと横を向く。
代わりに口を開いたのはアトラハシスだった。
「月は光を宿すけれど、夜を象徴する存在でもある。闇を司る夢魔としては、月の王族の姫君に対する所有権を主張したいところだろう」
もちろん、そういった事情を抜きにしてもデューはとても魅力的だけれど、と嘯くアトラハシスをサラヤはきっと睨みつける。
「神官風情が知ったような口を利くじゃないか」
この青年は感情表現が豊かというか、思った事を素直に顔に出す性質らしい。
今は、憎悪と屈辱と哀切がない交ぜになった表情で恨み言を口にする。
「我々闇の一族を貶めたのは君達の思い上がりと無知だ。人間達は光ばかりを崇めたて、闇に敬意を払わなくなった。闇がどれ程の安らぎを与えているかも知らないくせに」
なるほど、とアトラハシスは胸の裡で得心した。
道具としての火を手に入れた人間が闇を恐れ、厭うようになって久しい。
だが、本来は闇も光も単純に善悪を論じられるようなものではないのだ。
同じ理に想いを馳せたサカキは、あえて情を排して冷たく問う。
「だから、太陽と月の王族に永遠に解けない眠りの魔法をかけた、と?」
「違う!」
サラヤは強くそれを否定した後、うって変わって語調を弱めた。
「そんなつもりじゃなかったんだ。ただ、姫に逢いたくて…でも、太陽と月の王族と闇の王族は不仲だし、城の警備は厳しいし」
それで城の者を眠らせて夜這いをかけたのだと告げて、サラヤは恥ずかしそうに顔を伏せる。
確かに、彼の行為はけして褒められた事ではない。
しかも、宵闇姫は暁皇子の伴侶として自他共に認められていた筈だ。
俯き加減のまま上目遣いにこちらを窺いつつ、サラヤはぼそぼそと続ける。
「姫の部屋に行く途中で見つけた隠し部屋に、この時象儀があったんだ。なんだか凄く不思議な気配で、惹かれるものがあって…」
「それで、気がついたら【真逆の時象儀】に囚われていたという訳ですか」
その時の状況を思い浮かべて、サカキは再び溜息を落とした。
おそらく、彼のかけた眠りの魔法の効力が消えていない状態で【真逆の時象儀】の力が発動し、そのまま時が止まってしまったのだろう。
だが、それでは太陽と月の王族が眠り続ける理由は解っても、ルーとデューにかけられた呪いの説明がつかない。
彼等は何故子供、或いは仔猫の姿にさせられたのか?
「そこから先は、儂が説明しよう」
まるで、サカキの思考に応えるようなタイミングでそう申し出たのは、思いもよらない人物だった。
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