
高い木々に囲まれた丸い空から、燦々とした陽光が降り注ぐ。
倒木の後に自然と出来たらしい広場には色とりどりの小花が咲き乱れ、無数の蝶が飛び交っている。
――幼い日の約束。秘密の花園。
記憶の彼方から蘇る景色を前に呆然と立ち尽くすノスリの身体をすり抜けて、1人の少年が駆けて行く。
「椿殿!」
そこらの子供にしては仕立ての良い衣服に身を包んだ少年は、野原に寝転ぶ少女を見つけるとほっと安堵の息を吐いた。
「このような処に独りで来ては皆が心配しますよ」
足を緩めた少年の小言が終わらぬうちに、花に埋もれていた少女が跳ね起きる。
その姿に、ノスリは思わず瞠目した。
花々の色よりも尚鮮やかな代赭の髪をした少女は、彼ではなく歩み寄る少年に向けて無邪気に語りかける。
「見て、ノスリ。こんな深い森の中なのに、お花やちょうちょがいっぱい。素敵でしょう?」
愛くるしい笑顔を向けられて、少年は――少年の日のノスリは、困ったような表情を見せた。
「さぁ、もう屋敷に戻りましょう。今日は椿殿の誕生記念の宴が開かれるのでしょう?主役が不在では客人に失礼ですよ」
諭すような彼の言葉に、少女はつんと唇を尖らせる。
「そんなもの。どうせお父様のご機嫌伺いが目的なのよ。私の誕生日なんて二の次でしかないんだわ」
幼い声に似合わぬませた台詞は、的を得ているだけに少年を弱らせた。
少年は、少女の気を逸らせようと、わざと意地の悪い質問を投げかける。
「では、私からの祝いの品も受け取っては貰えませんか?」
「ノスリから?」
途端に年相応に瞳を輝かせる少女に心の中で苦笑しつつ、少年は懐から取り出した小さな包みを恭しく差し出した。
「誕生日おめでとうございます、椿殿」
リボンを解くのももどかしげに黒い天鵞絨の包みを開いた少女は、丸い頬を紅潮させて感嘆の声を上げる。
「まぁ!綺麗な揚羽蝶!」
それは、鮮やかな七宝細工で蝶の翅を象った帯留めの飾りだった。
街で評判の小物屋で少年が小遣いをはたいて買った品を、少女は大事そうにかき抱く。
「ありがとう、ノスリ。私、一生大切にするわ」
少女は、少年よりも高貴な血筋の姫君だ。
家に帰れば、こんな小さな装飾品などとは比べ物にならないような高価な贈り物が山と積まれているだろう。
それなのに、自分が贈った品を胸に幸せそうに微笑む少女の喜び様が、少年には嬉しかった。
「椿殿は、本当に蝶がお好きですね」
「そうよ。ちょうちょになって、綺麗なお花に囲まれて暮らせたら素敵だと思わない?」
感慨深く呟く少年に頷いて、少女は軽やかに身を翻す。
それこそ花々の間を飛び回る蝶のように駆け出した少女は、くるりと少年を振り返ると可愛らしく小首を傾げてみせた。
「ね、ノスリ。この場所の事は2人だけの秘密よ?」
※※※
景色が変わる。
季節は移ろい、少年は青年へと成長した。
この日、彼は近衛隊への配属を告げられた。
青年は下級貴族の出だ。
己が腕を頼りの武官といえど、宮仕えとなれば出自が物を言う部分も大きい。
王族の傍近くに仕える近衛隊への抜擢は、彼のような立場の者にとっては大変な出世だった。
喜び勇んで幼馴染の姫の許を訪れた彼を待っていたのは、しかし、無慈悲な現実だった。
「おぉ、ノスリか。丁度良いところに来たな。たった今またとない吉報を受けたところだ」
いつものように中庭に面した居間に通された彼を、屋敷の主が喜色満面で出迎える。
子供の頃から屋敷への出入りを許されている身とはいえ、本来ならば気安く口を利ける相手ではない。
緊張に身を硬くする青年に、男はにこやかに語りかけた。
「椿が王太子妃として召される事が決まったのだよ」
弾かれたように視線を巡らせた先には、俯き加減に視線を逸らす椿の姿が在る。
青年の驚愕を好意的な意味に受け止めて、男は実に喜ばしげに話し続けた。
「しかも、殿下は宮中で見知らぬ者に囲まれての暮らしは心細かろうと幼馴染のそちを近衛として傍に置こうと仰っておられる。何とも有り難い心遣いではないか」
椿の父は、娘の遊び相手兼お守り役として青年を大層可愛がっていた。
だからこそ、こうして娘の慶事を分かち合いたいという気持ちになったのだろうし、青年が取り立てられる事を喜んでもくれているのだろう。
「さすがの跳ねっ返りもしおらしくなりおって」
陽気に笑う男の残酷な思い遣りに、青年はぐっと拳を握り締める。
解っていた事だ。
王家に連なる家系の彼女と自分とでは身分が違い過ぎる。
何より、彼女が幸せになれるならそれで良い…。
青年は、内心の葛藤を押し殺し、努めて明るい声で祝いの言葉を告げる。
「おめでとうございます、椿様」
深々と頭を垂れた彼は、何か言いた気に開かれた椿の唇がきゅっと閉ざされた事に気づかなかった。
※※※
時は流れ、ノスリは再び別の光景を目にする。
其処は、雪深い山里の外れに建つ粗末な荒家だった。
「ごめんなさい、胡蝶」
冷たい床に直接敷かれた薄い布団の上で、薄倖の佳人が弱々しい呟きを漏らす。
白皙の膚に血色は薄く、差し伸べられる腕は枯れ枝のように細い。
炉にくべる薪もないのか、隙間風の吹き抜ける室内は苦しげな吐息さえ白く凍える程に冷え切っていた。
死の床に伏せる亡国の王女は、傍に座る幼い娘の頬に痩せ細り乾ききった指を力なく滑らせる。
「本当なら、貴女にはもっと綺麗な服を着せて、暖かなお家で美味しい食事をさせてあげられたのに。今では、こんな風に貴女の本当の名を呼ぶ事さえ許されない」
「良いの。あたし、胡蝶って名前も好きよ。だって、どっちもお母様の好きなちょうちょの事でしょ?」
稚い我が子の健気さに、椿はそっと涙を零す。
窶れた頬を伝う雫が、彼女の遺した最期の輝きとなった。
「あのね、このあいだ、森の中で凄く綺麗なお花畑を見つけたの。ちょうちょもたくさんいたのよ。今はたぶん雪に埋もれちゃってるけど、春になったらお母様も一緒に見に行きましょう?ね、お母様。お母様?」
火の消えた部屋の中に、童女が母を呼ぶあどけない声が虚しく響く。
降り積もる雪は、哀れな親子の命を音もなく呑み込んでいった。
※※※
暗転する世界。
何処までも続く闇の中に、ぼんやりとした人影が浮かび上がる。
「私は酷い女です」
己と同じ名を持つ花に囲まれて、椿は淡々と罪を告白する。
「王子はあれほど私を大切にしてくださったのに、私は遂に同じだけの想いを返す事が出来なかった。敬愛の念を寄せる事はあっても、恋情を抱く事は終ぞなかったのです」
その罪の名は恋。秘められた想いに根ざし、許されざる華を咲かせる頑なな種子。
「私が愛したのは生涯ただ1人」
ざぁっと強い風が吹いて、真っ赤な花弁を舞い上げる。
乱れた視界に目を眇めるノスリを真っ直ぐに見つめる椿の唇が、禁断の問いを発する。
「どうして私を奪ってくださらなかったのです?」
刹那、ノスリは衝動に突き動かされるままに腕を伸ばしかけた。
「ノスリ」
「ノスリ!」
誘う声と、引き止める声、同じ名を呼ぶ2つの異なる声が重なり合い、ノスリの心を惑わせる。
だが、吹き荒れる風に翻弄されつつも翅を休めようとはしない揚羽蝶の姿が目に入った瞬間、夢に呑まれかけていた彼の精神(こころ)は現し身に繋ぎ止められた。
正気に返ったノスリは、醒めゆく夢の残滓をかき集めようと懸命に目を凝らす。
「椿っ」
悲痛な声で叫ぶ彼の努力を嘲笑うかのように、風に舞い散る深紅の花弁が、椿の姿をノスリの視界から奪い去った。
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