夢商い 御伽屋 綴


 「あれは、死者の見る夢か…」
 見慣れぬ板張りの天井を見上げたノスリが、呆然と呟く。
 額に置かれた拳の中には、夢の名残に遺された一片の花弁。
 「椿様は、既に亡くなられているのだな」
 深い哀嘆を孕んだノスリの声とは対照的な淡々とした調子で、置畳の脇に坐した胡蝶は今しがたの夢の後先を語って聞かせた。
 「貴族の娘として、長じて後は次代の王妃として蝶よ花よと育てられた娘が野に放たれたところで、民草の暮らしに馴染む筈も無し。心を寄せる人々の安否も知れぬまま国を追われた心労も祟って臥せりがちになった王妃は春を待たずに帰らぬ人となり、幼い娘もまた飢えと寒さに斃れた」
 「だが、貴女は――」
 弾かれたように半身を起こすノスリの反駁を遮って、胡蝶はきっぱりと断言する。
 「あの雪の日に、揚羽は死んだ。貴女の捜し求める相手は、もうこの世にはいないのよ」
 有無を言わさぬ宣告に、ノスリは力無く項垂れた。
 胡蝶は、音も無く席を立つと部屋の隅に置かれた蒔絵の長櫃に向かう。
 戻って来た彼女の手には、透かし模様の入った薄紙を幾重にも重ねた包みがあった。
 「これをお持ちなさい」
 受け取った包みを解いたノスリの双眸が、驚愕に瞠られる。
 包みの中には、胡蝶のものと思しき代赭の髪が一房組紐に結わえられた状態で入っていた。
 困惑するノスリに、胡蝶は薬の用法を説くような感情の窺えない声でその品に込められた意味を語る。
 「懐紙には七星が枕辺の夢を焚き込んであるわ。王妃と良く似たこの髪を持ち帰り彼女の諭す言葉を聴かせれば、王も諦めもつくでしょう」
 世継ぎがいない状態が長く続けば、再び国が乱れる。
 国を安定させる為に血筋を守るのも、王家に生まれた者の務めだった。
 「承知した」
 最早これ以上の問答や説得は無益と判断して、ノスリは重い腰を上げる。
 「世話になったな」
 飾らぬ言葉で謝意を伝えて、彼はその場を立ち去るつもりだった。
 「待って」
 だが、部屋の戸に手を掛けたノスリを、背後から胡蝶が呼び止める。
 「貴方にはこれを」
 彼女が差し出したのは、蝶の形の七宝細工の帯留めだった。
 「夢の主から託されたものよ」
 ノスリは、まるで壊れ物を扱うようにかつて己が贈った品に手を伸ばす。
 厳めしくも穏やかな彼の表情が、刹那、溢れる激情に歪むのを、胡蝶はどこか沈痛な面持ちで見つめていた。
 ややあって、面を上げたノスリは、慈父の如き笑みを浮かべて胡蝶にこう申し出る。
 「これは貴女が…いや、君が持っていてくれないか。彼女の夢を伝えてくれた礼だ」
 「…良いわ」
 言葉にされなかったノスリの想いを汲んだのだろう。
 胡蝶は、何も言わずに彼の願いを聞き入れた。
 

※※※


 「良かったのか?」
 渡殿にて桜の間を出るノスリの背を見送った空蝉が、薄暗い部屋の中に残った胡蝶にそう問い掛ける。
 返って来たのは、僅かに諦念の滲む突き放した言葉だった。
 「1度は死の淵に足を踏み入れたあたしに、今更人の子としての居場所なんて無いわ」
 奇しき縁にて斎子として新たな生を授かった彼女の在り様は半ば人外のもの。人の世に生きるのは難しい。
 「それに」
 掌の中に残された小さな七宝細工の揚羽蝶を見つめて、胡蝶は唇にうっすらと笑みを佩く。
 「あの人の最期の想いを伝えられただけで充分よ」
 

※※※


 夢解き夢占夢違え、夢見合わせに夢詣で。
 凡そ夢に纏わる万象に於いて右に出る者はないと評判の店、夢商いの御伽屋「綴」。
 板塀に囲まれた広大な敷地に建つ木造平屋建ての古風な佇まいのその屋敷では、夢に事寄せて多くの物語が綴られるのだという。