夢商い 御伽屋 綴


 人攫い紛いの騒ぎから数日後、「綴」は意外な客の訪れを受けた。
 「いらせられませ」
 からりと開いた扉に笑顔を向けた綴は、其処に見出した偉丈夫の姿に軽く目を瞠る。
 「おや、ノスリ様、でしたか?」
 「先だっては大変失礼致した」
 厳めしい相貌に似合わぬ穏やかな声音で応えたのは、先日の騒動の際に狼藉者共を諌めた芙瑶の国の近衛隊長だった。
 「今日は客としてお邪魔させていただいた。他意はない故、そのように険しい顔で睨まないで貰えると有り難いのだが」
 帳場の手伝いの為に居合わせた空蝉にあからさまに不審の目を向けられたノスリは、苦笑混じりにそう懇願する。
 八の字眉の弱り顔は、厳つい強面に温かな人間味を齎した。
 「御用の向きを伺いましょう」
 商売っ気抜きの笑みを含んだ声で促す綴に、ノスリは単刀直入に用件を切り出す。
 「ある方の夢を訪いたい」
 「夢詣で、ですか」
 慎重に返す綴に頷いて、ノスリは静かに語り始めた。
 「ご存知の通り、我が国は10年前隣国に唆された王弟殿下の叛乱により国王陛下が弑逆されたのをきっかけに、長らく内乱状態に陥っておりました」
 その辺りの事情は、先日の騒ぎの際、馴染み客のラズから聞かされている。
 綴の沈黙を理解と了承の証と取って、ノスリは先を続けた。
 「不幸にしてか幸いにもと言うべきか、当時王太子殿下は国境沿いで起こった叛乱を掃討すべく軍を率いて都を空けておられました。今にして思えば、あれもまた王弟殿下の謀略の一環だったのでしょう。秘かに送り込まれた刺客を返り討ちにすると同時に、凶報を知った殿下と共に、我々はひとまず遠縁の友好国に逃れました。しかし、国璽は奪われ、都に残っておられた王太子妃殿下と王女様は行方知れずに…」
 若き王太子に仕えていた彼は、よほど主思いの忠臣なのだろう。
 最後の件で、淡々とした口調に苦渋が滲む。
 「1年前、逆賊を討った王太子殿下が王位に就き漸く叛徒を鎮めたものの、お二方の消息は未だに掴めておらぬのです」
 「なるほど。お捜しの娘御は、さしずめ芙瑶の国の王女様といったところですのね」
 重い口から語られる事情に、綴は得心したようだった。
 「それで、夢で王妃様に帰国を呼びかけようと?」
 僅かに憐憫を帯びた問いかけに、ノスリは重々しく頷く。
 「然様。たとえすぐのご帰還は叶わずとも、遠き地に逃れ故国の趨勢を知らぬまま今も心を痛めておられるであろう妃殿下に、せめて王の安否なりと伝えられればと思った次第」
 ノスリの申し出には多分に同情の余地があったが、綴は幾つかの理由から即断を躊躇った。
 「しかし、夢詣でには少なからぬ危険が伴うもの。まして、近況の知れぬ相手とあっては、御身に害が及ぶ事もありましょう」
 表向きの理由を添えて難色を示す彼女に、ノスリはきっぱりとこう応える。
 「この身の危険など、殿下の嘗めた辛酸に較ぶれば何程でもありますまい」
 謹直なノスリの返答に、綴は僅かに逡巡する素振りを見せた。
 夢詣でを領分とする斎子の胡蝶は、代赭の巻き髪というノスリの捜す娘の特徴を備えている。
 他人の空似よ人違いよと言い張るにしても、安易に引き合わせる事が互いの為になるかどうか。
 それでも、ノスリの真摯な眼差しと実直な人柄は、彼女の心を動かしたらしい。
 ややあって、伏せ目がちの黒瞳を上げた綴は、迷いの晴れた表情でノスリに微笑みかけた。
 「良いでしょう」
 「綴!」
 声を上げた空蝉の危惧するところを充分承知した上で、綴は感情を窺わせぬ謎めいた店主の顔で指示を出す。
 「空蝉、ノスリ様を桜の間へお通しなさい」
 一瞬何か言いたげにしていた空蝉だが、ふいと顔を背けると年頃の少女にしては些か荒々しい所作で席を立った。
 ノスリは、綴に小さく頭を下げると急ぎ彼女の後を追う。
 築山や小川を配して山河の風景を模した箱庭を巡る渡殿を黙々と進む事暫し、彼等の視線の先に五弁の桜の紋が掲げられた板戸が現れた。
 扉の前の板張りの廊下には、空蝉と同じ白い狩衣姿の少女が佇んでいる。
 弦こそ曳かれてはいないものの矢を番えたままの長大な弓を手に、少女はじっとノスリを見つめていたが、しばらくすると興味を失ったのか、ふわりと長い銀の髪を翻して何処かへと立ち去った。
 今のは一体なんだったのかと首を捻るノスリの耳に、空蝉の呟きが届く。
 「…蜻蛉の眼鏡に適うなら二心はないと思って良いか」
 彼女の過剰な警戒心は、偏に仲間の少女を思うが故のものなのだろう。
 空蝉は、ノスリに道を譲ると、桜の紋が描かれた扉の脇に腰を下ろす。
 「私は此処で待つ。妙な気は起こさぬ事だ」
 「心しよう」
 未だ心を許すつもりがないらしい空蝉の忠告を厳かに受け入れて、ノスリは桜の間の扉に手を掛けた。