
その夜、主のいない桔梗の間で、ラズは夢を見た。
呪いによる曇りの晴れた彼の目は、隠されていた物語を余さず映し出す。
そうして目を覚ますと、枕辺にそっと寄り添う蜻蛉の姿が在った。
※※※
「そんな顔をしないで。貴方の所為ではないのだから」
しきりに恐縮するラズにそう言って、蜻蛉は僅かに小首を傾げる。
今朝の彼女は、さすがに狩衣姿ではなく白小袖の上から浅縹の小袿を羽織っていた。
淡い青の衣に映える長い銀髪が朝の白い光に散る様は夢のように美しく、夢のように儚い。
だが、続く言葉が、夢見心地のラズに驚きを齎す。
「貴方は、私を護ってくれた。貴方の身の内から溢れた強く熾しい光が、闇を打ち祓ったのだもの」
「え?あれって、君の力じゃなかったの?」
あの時の白い光は、ラズにはまるで蜻蛉自身のように、とても涼やかで清浄なものに感じられた。
だから、てっきり自分の方が護られたものだと思っていたのだが。
「破魔の弓を通じて、ラズ様と蜻蛉の力が共鳴したのでございましょう」
ラズの当惑を察した綴が、穏やかにそう口を挿む。
「とまれ、惑わしの呪いは解かれ、重ねの夢は晴れました。これでラズ様の夢を占じる事が出来ますわね」
微笑む綴の台詞で本来の目的を思い出し期待を込めて見つめるラズに、だが、蜻蛉は静かに首を横に振った。
「いいえ」
感情を窺わせない静謐な面持ちで、蜻蛉は告げる。
「私には、貴方の夢を読み解く事はできません」
「どうして――っ!?」
思わず詰め寄ったラズの気迫にも動じる事なく、蜻蛉は淡々と夢解きの道理を語り始めた。
「夢占は、誰にでも同じ答えの与えられた謎解きとは違う。日照りに悩む者にとっての慈雨が別の者には洪水の恐怖を与えるように、1つの具象でも視る者によってその意味は変わってくるの。貴方には、たぶん未来視の能力がある。だからこそ、本当の貴方を知らずに夢を読み解く事はできない」
ひとつひとつ言葉を紡ぐ間も、蜻蛉の瞳はじっとラズを捉えている。
澄んだその瞳は、胸の奥の秘密さえ映し出す鏡のようだった。
張り詰めた沈黙が、柔らかな朝日に包まれた室内を支配する。
やがて、先に音を上げたのは、やはり後ろめたいところのあるラズの方だった。
「…解ったよ」
大きく1つ息を吸い込んで、ラズはそれまで伏せ続けていた己の身の上を明かす。
「俺の名前は、ラザワード・ジ・ド・ラピスヴィナ。ラピスヴィナ公家の第2子だよ」
半ば投げ遣りな調子で告げられた言葉に、綴は得心がいったようだった。
「ラピスヴィナ公国といえば、聡明な公主による善政の敷かれた、平和で豊かな国と伺っております。確か、次代の公主は女性の方とか。ラズ殿、いえ、ラザワード殿下は第二公位継承者。そのような方が、わざわざ市井の民に身を窶して当店を訪なわれるとは、余程の懸念を抱かれていらっしゃるものとお察しいたします」
「別に、「身を窶して」るつもりなんてないけどね」
一方、ラズはどこまでも「今時の若者」を貫くつもりらしい。
「民を治める立場にある者が民から距離を置いていてはならない。民と共に暮らし、彼等の声を聞いて政に活かす、それがうちの方針なんだ。さすがに第一継承者が家を空けてふらふらしてる訳にはいかないから、代わりに俺が父上や姉上の目となり、耳となる。おかげで俺の方は自由気ままな街暮らしが許されてるってわけ」
恭しい綴の態度にも口調を変えるでもなく自身の言い分を述べたラズは、改めて蜻蛉の顔を覗き込む。
「で?これで夢を占ってもらえるのかな?」
軽い調子とは裏腹に真摯な目をしたラズに、蜻蛉は静々と頭を垂れた。
※※※
「貴方の夢を聞かせて」
そう蜻蛉に促されるままに、ラズは夢の内容を語り出す。
「最初に見えた黒い風が吹く荒野の風景は、やっぱり変わらなかった。あの風は西から吹いてた。もしかしたら、西方からの敵襲を予言してるのかな」
ラザワード公国は豊かではあっても小国に過ぎず、周囲の列強の侵略は常に脅威となっている。
ラズの示した懸念を、だが、蜻蛉は静かに否定した。
「あの風は、人の悪意を含まぬもの。この夏は常ならぬ気象があちこちで見られました。おそらく、蝗の異常発生を示唆しているものと」
それを聞いたラズが、ほっと安堵の息を吐く。
「良かった」
「良かった?」
けして喜ばしいとはいえない予言を耳にしたにしては意外な反応に、蜻蛉は不思議そうな表情で訊き返した。
それに対して、ラズは一瞬賢明な領主の顔を覗かせる。
「凶作や飢饉になら備える事が出来る。でも、戦争になればどうしたって民に犠牲が出るだろ?たとえ戦に勝っても、民が滅びたら何の意味もない。国の為に民がいるんじゃなくって、民の為に国ってもんがあるんだからさ」
真面目な態度を見せるのに慣れていない彼には、少しばかり照れ臭かったのだろう。
最後はやや戯けた調子で付け加えて、ラズは話を切り替えた。
「で、荒野の中央で揺らめく灯火。あれは公国の命運を表してるんだと思ったんだけど…」
「灯火は人の命の象徴。消えかかった炎は誰かの命が危険に曝されている事を意味するもの」
「…まさか、父上が…?」
蜻蛉の言葉に、ラズははっと息を呑んで表情を翳らせる。
「心当たりが有るの?」
「このところ、少々体調が優れないとの事で臥せっているんだ。ひょっとして、何者かが暗殺を企んでるのか?」
思わし気に話すラズを案じる目で見遣りつつ、蜻蛉は端的に必要な問いを発した。
「灯火は消えてしまった?」
ラズは、ひとつひとつの言葉を噛み締めるようにしてそれに答える。
「いや、惑わしの呪いが解けた後に、いつもなら意識を失ってしまうその先を見られたんだ。そうしたら、羽を広げた隼が、まるで灯火を護るように包み込んでた。そのうち風が止んで、灯火もまた明々と燃えてたみたいだった」
それを聞いて、蜻蛉はふわりと表情を和らげた。
「それなら大丈夫。貴方の夢に惑わしの呪いを掛けたのとお父上を呪い殺そうとしているのは、おそらく同じ手の者。公国を奪うのに、未来を視る貴方の力が邪魔だったのね。けれど、こうして貴方は真実を手にした。夢の呪いを返された呪司も無事では済まない。危険は、回避できる」
「それに」と続ける彼女の瞳には、ラズに対する敬慕の念が浮かんでいる。
「その隼は貴方自身なの」
「そうなんだ…」
ラズは、感慨深げにそう呟いた。
夢の不安が解き明かされ、抱え込んでいた懸念が晴れつつある。
更に、何やら年甲斐もなくわくわくするような予感もあった。
それはまだ胸に秘めておく事にして、ラズは最後の疑問を口にする。
「あともう1つ。霧の向こうで俺を呼んでた存在、あれは7つの頭を持つ竜だったんだ。あまりに危険なあの生き物は、公国にとって凶兆となるんじゃないだろうか」
蜻蛉は、その疑念をはっきりと否定した。
「いいえ。そもそも、竜は強大な力を表わすもの。それ自体は聖でも邪でもない。特に、七つ首の竜は天地万象を司る偉大な存在。その加護を得られるなら、またとない瑞兆となる筈」
「加護を得られれば、ね」
天を仰ぐラズに、蜻蛉が確信を持って問いかける。
「夢の中で、七つ首の竜は貴方を呼んでいたのでしょう?」
「…そっか」
今度こそ、憂いは払われた。
ラズの口許に、芝居ではない笑みが浮かぶ。
ただひとつ、夢の終わりに見た月明かりについてだけは、彼は解釈を問う事はしなかった。
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