
目覚めて最初にラズの視界に入ったのは、見覚えのない木の天井だった。
そういえば、身を横たえている床も使い慣れたベッドにしてはいやに固い。
一体此処は何処で、どうしてこんなところで眠っているのだろう?
寝起きの頭でぼんやりと考えているうちに、昨夜の記憶が徐々に鮮明になる。
やがて、意識を失った瞬間の光景をはっきりと思い出したラズは、弾かれたようにその場で跳ね起きた。
「蜻蛉は!?――っ」
刹那、突然勢い良く身体を起こした反動で強烈な眩暈に襲われて、ラズは低く呻いて頭を抱え込む。
額を押さえて苦痛を遣り過ごす彼の耳に、不意に舌足らずな声が飛び込んできた。
「蜻蛉は、藤の間に運ばれマシタ」
「藤の間?」
何も考えずにそう問い返してから、ラズははたと我に返る。
一拍遅れて声の主の姿を求めて視線を巡らせると、彼が横たわっていた帳台の脇に坐した童女と目が合った。
肩の長さで切り揃えた黒髪の両鬢に銀木犀の小花を飾った童女は、蜻蛉よりも尚幼い。
だが、同じ白い狩衣装束からして斎子の1人なのだろう。
子供独特の高い声には似合わぬしっかりとした口調で、童女はラズの問いに答える。
「藤の間は綴の浄室。蜻蛉は、其処で癒しの術を受けていマス」
「俺を其処に連れてってくれ」
咄嗟に身を乗り出してそう告げたラズをじっと見つめた童女は、黙って立ち上がると部屋の外へと続く扉に向かって身を翻した。
※※※
童女に導かれるままに訪れた藤の間は、浄室と呼ぶに相応しく清らかで厳粛な空間だった。
四辺の壁の梁には呪符が貼られ、四隅に置かれた燭台では没薬を練り込んだ蝋燭がひっそりと燃えている。
部屋の中央には帳台が敷かれていて、その傍らには浄めの結界を築いていると思しき少女の姿があった。
「蜻蛉はまだ目を醒まさない」
きっちりと編んだ栗色の髪を両耳の上に纏め上げた蜻蛉よりも幾分年嵩らしい少女は、ラズの気配に伏せていた面を上げる。
「出来る事なら夢違えをしてでも悪夢の縁から呼び戻すところだ。だが、蜻蛉が捕らわれているのは他者の夢。これ以上の介入はかえってこの子を危険に曝しかねない」
そう告げる声とラズに向けられた冷ややかな眼差しには、若干の険しさが含まれていた。
だが、淡々としていながらどこかもどかしげな口ぶりからは、蜻蛉を案ずる彼女の想いが窺える。
少女の冷遇を甘んじて受け止めたラズは、白い敷布に横たわった蜻蛉の寝顔をそっと覗き込んだ。
「蜻蛉…」
憔悴しきった蜻蛉の顔色は、透けそうなほどに蒼白い。
その痛々しさに自責の念に駆られたラズに追い討ちをかけるように、背後から刺々しい言葉が投げられた。
「貴方の所為よ」
振り返ると、代赭の巻き毛を大きな絹布でふたつに結い上げた華やかな容貌の少女が、きつい表情でラズを睨みつけている。
「幾らあたしでも、斎子の夢に迂闊に足を踏み入れるわけにはいかないわ。下手をすれば互いの存在が反発しあって、夢の狭間から戻れなくなってしまうもの」
苛立ちを露わにする彼女を前に、ラズは反論の言葉を持たなかった。
代わりに、障子戸の向こうから救いの手が差し伸べられる。
「2人共、そのように客人を責めるものではありませんよ」
朱塗の盆を手にして奥の間から現れた綴は、物柔らかな調子で2人の少女をそう窘めた。
「でも…っ」
尚も言い募る代赭の髪の少女を視線ひとつで黙らせておいて、綴は盆の上で湯気を立てる茶碗をラズの前に置きつつ苦言を呈する。
「丁度薬湯をお持ちするところでした。ラズ様も、今暫し横になっていらっしゃらないと。このように動き回られてはお体に障りましょう」
「いや、俺は…」
ラズの口から、今度は咄嗟に反駁の声が上がりかけた。
それをあっさりと遮って、綴は続ける。
「せっかく惑わしの呪いによる妨げも失せた事ですし、まずはごゆるりとお休みになって、真の夢を御覧なさいませ」
確かに、綴の言い分は一理ある。
しかし、ラズは、何も出来ない自分が無性に不甲斐無かった。
唇を噛んで俯く彼の強く握り締めた拳に、ふと小さな手が触れる。
温もりに惹かれて目を上げると、ラズをこの部屋に連れて来た童女が穏やかな双眸で彼を見つめていた。
瞳を揺らすラズに、童女はあどけない仕草ではっきりと頷いてみせる。
「大丈夫」
いたいけな彼女の一言には、不思議とラズの心を勇気づける力があった。
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