Tir na n-Og



 レイの呼びかけに応えて、妖精王がゆったりとした仕草でフードを下ろす。
 顕わになった肌は肉桂色。
 癖の強いチョコレートブラウンの髪や彫りの深い顔立ちと相俟って、エキゾチックな印象を見る者に与える。
 伏せていた長い睫毛の下から現れた飴色の瞳をどこか懐かしげに細めて、妖精王イル=ダーナはほんの少し寂しげにこう答えた。
 「残念ながら、君の知るエナはもういない」
 「…それは、君の変節を意味するのか?」
 慎重なレイの問いかけに、イル=ダーナゆるゆると首を横に振る。
 続いて彼の口から齎されたのは、残酷な宣告だった。
 「彼は2ヶ月前に他界した。もう、この世の何処にも彼はいない」
 冷ややかだったレイの眼差しが、衝撃に揺らぐ。
 「『テイル・ナーグ』は彼の遺言に基づいて公開された。彼の才能を惜しみ、その理想に共感してきた有志の手でね」
 束の間、亡き友を悼むように天を仰いで瞑目したレイは、深い吐息1つで気持ちを切り替えると質すべき問いを口にした。
 「『cubic world』を支配していたプログラムもエナが作ったのか?」
 「アル・ファズールが、学習機能に特化した試作プログラムを基に作られた事は事実だよ」
 イル=ダーナは、射るようなレイの双眸を真っ直ぐ見つめ返してそう告げる。
 「エナは、身分を伏せて一プログラマーとしてアル・ファズールのプログラムを提供した。「彼」をあの世界の創造主に祭り上げたのはシナリオセクションの人間だ。その結果「彼」が暴走した事を知った時には、エナは既にシステムに介入出来る立場にはいなかった」
 エナが下手に出自を明かしていれば、過去に彼が所属していたシンクタンクにも非難や追求が及ぶ可能性もあった。
 その意味で、彼の選択は正しい。
 結果として、開発者としての責任を果たせなくはなってしまったけれど。
 「それでも、エナはあの件についてとても心を痛めていた。だから、僕を生み出すのにあたって幾つかの保険をかける事にしたんだ」
 まるで自身が痛みを感じているかのように微かに眉を寄せて目を伏せたイル=ダーナが、上目遣いにレイを見遣る。
 「ひとつは、僕の能力を物語の世界に限定した事。僕は、現実の事象に影響を及ぼす力を持たない」
 語り部としてプレイヤー達の人生を物語として紡ぐという行為を通してイル=ダーナは学習し、物語の世界を描き出すという行為を通じてその成果を昇華させる。
 実際には彼の紡ぐ物語に触れる事で感化される者も出て来るだろう事を思えば厳密に現実への影響がないとは言いきれない部分もあるが、少なくともアル・ファズールのように直接人を害する事はないだろう。
 「そして、もうひとつが君の存在だよ、レイ」
 そう言って、イル=ダーナは柔らかな笑みを浮かべてみせた。
 穏やかなその表情のまま、苦い記憶を述懐する。
 「エナはアル・ファズールの暴走は自分にも責任があると言っていた。世間知らずの幼子に、何の指針も示さず知識と経験だけを蓄えさせたところで、正邪や善悪の判断が出来る筈もないと」
 自ら思考し学習する知能、初期状態のそれは、確かに小さな子供に近い。
 予め記述されたスクリプトによって稼働する従来型のAIの場合、プログラマが想定していなかった事態には対応できない――示された条件に沿って与えられた選択肢から採るべきアクションを実行する、その繰り返しで動いている以上、それは当然の事だ。
 それに対して、エナが目指した自律思考するAIは、初めて遭遇する状況にも過去の経験を踏まえ、それらを応用する事で対応しようとする。
 その過程は、子供が様々な経験を重ねて成長していくのと良く似ている。
 そして、自身の行動が周囲に及ぼす影響をシミュレーションし、選択の是非を判断する為の情報を充分に持たない点も、幼子と同じだ。
 親や教師といった大人達が子供達を諭し導くのと同じように、まっさらな状態のAIを見守り倫理的な価値観を育ませる標が必要なのだ。
 イル=ダーナは続ける。
 「『cubic world』の件で、エナは君がシンクタンクを離れ、C.S.S.に所属するようになった事を知った。彼は君の能力も人柄も誰よりよく知っている…だから、もしこの僕が何らかの理由で暴走するような事態に陥ったとしても、君なら止める事が出来ると…過ちを正して僕を導いてくれると信じていた」
 レイを見つめるイル=ダーナの瞳からは、確かな信頼が見て取れる。
 まるで、彼の容姿の元になった生みの親の想いまで映し出したかのように。
 ほんの少し、本当に僅かなレイの躊躇いをそれと察したアルが、2人の間に割って入る。
 「それでも、過去の事件を踏まえれば、C.S.S.としてはお前の存在を放置する事は出来ない」
 「それで?」
 子供じみた仕草で面白がるように小さく首を傾げてみせるイル=ダーナに、アルは敢えて感情を抑えた声で事務的に応えた。
 「うちか何処かの警察機構の保護下に置くか、しかるべき機関に管理を委ねる事になるだろう。少なくとも何の制約もなしに一般に公開させとくわけにはいかない。場合によってはシステムを停止する事になる」
 それは事実上の死刑予告にも等しいものだったが、イル=ダーナはくすりと笑みを零すと茶化すようにこう尋ねてくる。
 「君達に僕を捕まえられるかな?そっちの勇者殿はどう思う?」
 からかうような視線の先には、俯き加減で立ち尽くすフィンの姿があった。
 「…ダメです」
 突然水を向けられたフィンが、悲鳴のような声を上げる。
 「居場所を特定できない!同時にネットワーク上にあちこちに存在するなんてどうなってんだ!?」
 イル=ダーナは、悪戯好きな子供の顔で唇の端を持ち上げた。
 

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