Tir na n-Og



 寝乱れて僅かに解れた緩い編み髪も、簡素な造りの薄物のドレスの上からガウンを羽織っただけの身形も、彼女が長い眠りから醒めたばかりである事を示している。
 にもかかわらず、星を抱く三日月の意匠の杖を抱えて優雅な足取りで階段を下る彼女の姿は、侵しがたい威厳に満ちていた。
 年齢は不詳だ。
 華やかな容貌だけなら30代の女盛りと見えなくもないが、伏せ目がちの双眸には数え切れないほどの齢を重ねた者だけが得うる老成した叡智と翳りが宿っている。
 言葉もなく見守るアルとレイの間をすり抜けた彼女は、意識のないミトラを抱くフィンの傍らにふわりと膝をついた。
 そうして、蒼褪めたミトラの顔を覗き込むと、額にかかる髪をかき上げてそっと掌を乗せる。
 彼女が慈しむような視線を注ぐ中、ミトラの頬は次第に血色を取り戻していった。
 微かに睫毛を震わせて、ミトラがゆっくりと瞼を持ち上げる。
 束の間ぼんやりと視線を彷徨わせていたミトラは、自分を見つめる魔道士の眼差しを捉えると擦れの残る声でこう尋ねた。
 「あなたは、初代人王と共に隔ての魔法を打ち立てた魔道士シールセですね」
 「まぁね」
 曖昧に微笑んで身体を起こす魔道士に、漸く我に返ったフィンが驚愕の声を上げる。
 「緑森教団の教祖様!?」
 人王の魔道士シールセは、尊敬と憧憬に瞳を輝かせる向けるフィンに苦笑しつつ存外に砕けた口調で彼の思い込みを訂正した。
 「そんなんじゃないよ。あれはあたしの弟子達が作った組織だ。前身になったギルドの創設には多少は関わってるけど、途中で手を退いてるもの」
 「ディアンセットを護る為に?」
 確信の込められたミトラの問いかけに、シールセは表情を引き締める。
 次いで語られたのは、歴史の表舞台に出る事のなかった人王伝説の「その後」だった。
 「人王が夭折してすぐ、彼の裔が護っていた真実の宝冠【リアファイル】が奪われたって報せが届いた。次に狙われるのは【ディアンセット】だ。何しろ「癒しの標」とよばれるこの杖はヤツにとっちゃ天敵だからね」
 「ヤツ?」
 怪訝そうに訊き返すアルに忌々しげな顔で頷いて、シールセは呻くような声で敵の素性を告げる。
 「メディール。自らを冥主と名乗る屍人使い。アイツは、神器の力を使って冥界の扉を開こうとしているのさ」
 だが、ミトラが引っ掛かりを覚えたのは別の部分だった。
 「…神器には、世の界を切り拓く力があるのですね」
 確かめるようにそう訊ねるミトラの聡明さに満足げに目を細めて、シールセは神器にまつわる秘密を明かす。
 「妖精王と人王が施した隔ての魔法の効力が時間と共に薄れるのは最初から解ってた事だ。こればっかりは仕方がない。永遠に続く魔法なんてないんだからね。結界が揺らぎ始めたその時は、誰かが新たな人王になって、再び隔世の法を揮えば良い――妖精王も人王もそういうつもりだった。ただ、その為には、妖精王の棲む常若の国【テイル・ナーグ】まで出向いて行かなきゃならない」
 妖精王の神器は、現世の側から界を開く鍵だった。
 そして、同時に、それぞれの神器の守護者と対峙させる事で人王の後継者たる者の資質を問う試金石でもある。
 守護者の与える試練を乗り越えるだけの実力はもちろんの事、世界を覆すほどの魔法の誘惑に負けず、真に必要な時にのみ犠牲を厭わずその力を揮う意志の強さがなければ、隔ての魔法の使い手として認められる事はないのだ。
 「【クーメイル】と【ベルテーン】、2つの神器を手に入れ、セーンの魔法を解いたお前達には、この時代の人王になる資格がある」
 そう真顔で告げて、シールセは一行の顔を順繰りに見回した。
 「で?【ディアンセット】は誰が持つ?やっぱり祭官詩人サマかい?」
 理に適ったシールセの申し出を、しかし、ミトラはきっぱりと否定する。
 「いえ。【ディアンセット】は彼女に」
 そう言って流した視線の先には、一連の遣り取りに黙って耳を傾けるレイの姿が在った。
 僅かに首を傾げてみせるシールセの無言の問いに促されて、ミトラは自身の発言を補足する。
 「死者の国へ乗り込むのなら、神聖魔法の使い手は多い方が良いでしょう」
 一瞬何か言いかけたシールセだったが、ミトラの真っ直ぐな眼差しに込められた強い意志を読み取って、彼女の意を汲む方を選んだようだ。
 「…それもそうだね」
 それと知られぬ程度に小さく溜め息を落として気持ちを切り替えると、胸元に抱え込んでいた月零の杖【ディアンセット】をレイに差し出す。
 レイは、恭しく片膝をつくと、シールセの手から【ディアンセット】を譲り受けた。
 【ディアンセット】の所有権が移るのと同時に、それまでその所在を隠していた守護の魔法が消える。
 次の瞬間、まるでその時を待ち構えていたかのように、禍々しい雷鳴がセーン島の空を切り裂いた。
 「どうやら、ヤツが気付いたみたいだね」
 眇めた双眸で天を仰いだシールセは、同様に険しい顔つきで宙を睨むアル達一行を取り囲むように結界を張る。
 「何を!?」
 異常に気づいたアルが制止しようとした時には、シールセは転位の魔法陣を完成させていた。
 「今からお前達をカエール・シディの近くまで送り届ける」
 「でも、」
 【ディアンセット】を狙う屍人使いが今にもセーンの館を襲撃しようという時に、シールセ1人を残して逃げるなんて。
 懸命にそう訴えようとするフィンを眼差し1つで黙らせて、シールセは不敵に微笑んでみせる。
 「心配しなくても、直に屋敷の人間達も目を覚ます。彼等は料理人から召使い、庭師に至るまで一流の魔道士だ。そうそう遅れはとらないよ」
 だから、ここはあたしに任せて行っておいで。
 転位の魔法で飛ばされる寸前に一行が目にしたのは、歴戦の勇者と呼ぶに相応しい人王の魔道士の後姿だった。



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